そこにあるもの

不穏のかげ

 雨が降っている。六月の曇天、球技大会は種目変更を余儀なくされ、その影響によって、僕はかなり退屈していた。出場を勧められたけれど、僕が断ったのだ。運動は苦手、という程ではないが、あまり得意じゃない。下手に僕が出ても、場を白けさせるだけだろう。

 なので、僕は早々にみんなの元を離れ、体育館の二階から、バレーの試合を眺めていた。この日のために、わざわざ外部の施設を借りている。学校よりもずっと広く、部屋も複数ある。二階には応援席が備えられていて、生徒達がまばらに座っている。

 今、向かって右側のコートでは、僕らのクラスが闘っている。男女混合で、素人と経験者を分けることもない。ほとんど同点が続いている。

 その中で、陽向が忙しく動き回っていた。コートの隅、応援する者に紛れて、明らかに陽向狙いの女の子たちが数人見える。最近の陽向は突然静かになったので、もはや、ただの男前になりつつある。変わらずに女の子達からも人気である。陽向は運動がとても良くできるので、クラスのみんなも、外したくなかったに違いない。

 そこへ、友達を複数人連れて、凛香が入ってくるのがみえた。もちろん参加できないのだろう。彼女は制服のままだった。邪魔になるからか、髪をひとつにまとめている。青いラベルのペットボトルを片手に持ち、タオルを首にかけている。不意に僕のほうを見上げた凛香は、右手を挙げて大きく振った。僕の真後ろに座っていた男の子が、「うわ、手え振ってくれた!」とか喜んでいるのを苦笑しながら聞き、僕は手を振り返した。凛香は大きく頷くと、コートのほうへと歩いていく。


「八代、くん?」

 退屈もいよいよ酷くなり、僕がほとんど居眠りしかけた時、左側から声をかけられた。驚いてそちらを見ると、洋子が立っていた。僕はひとつ席をずらし、洋子に譲る。

「や、八代くんも、退屈してるの?」

「うん、そうなんだ。人は足りてるみたいだったから、出るのは遠慮した」

 洋子は手にしたペットボトルを傾けながら、おもむろに頷いた。青いラベル。凛香が持っていたものと同じだろうか。

「花村さんも?」

「う、うん。そうなの。私、すっごい運動音痴で」

 なるほど、そうだったのか。それなら、こういったイベントの時には憂鬱だろう。今日の雨は、むしろ洋子を救ったのかもしれない、と思うと、すこし雨に感謝したくなった。洋子は悪人ではなさそうだし、なにより凛香の大切な友達なのだ。

 いつか、凛香が言っていた。洋子は、誰よりも信じられる友達なのだと。凛香にはたくさんの友達がいるが、洋子だけは特別らしかった。

「ね、ねえ、八代くん」

「なにかな?」

「ちょっと、話せない?」


 僕は洋子と席を立ち、人の少ない場所を探した。いろいろ考えた末、一階の入口付近にある、ちょっとした休憩スペースに腰を落ち着けた。ついでに、僕も飲み物を買った。当然、甘いものである。

「で、話って?」

 僕は紙パックにストローを突き刺しながら言う。洋子はしばらく躊躇い、それから、意を決したように口をひらいた。

「あ、あのね。…陽向くん、の、ことなんだけど」

 なんとなく、そんな気はしていた。僕も、陽向の相談に乗ってやらねばならない。彼は結局、洋子への想いを断ち切れていないのだ。だからこれは好都合だった。

「あ、あの、わ、私が、好きだっていうのは、知ってるよね?」

「ああ、確かに聞いたね」

 洋子は自分を落ち着けるように、ぐっと飲み物を流し込んだ。五百ミリのペットボトルを両手で持っている。その動きはちっとも気取っていなくて、単純な愛嬌を感じさせる。僕もストローからカフェオレを啜った。

「で、ね。そろそろ、こ、告白したいの。でも、私なんかが言ったら…」

 洋子はそこで言葉を切り、俯いた。

「…釣り合わない、とか、思ってるの?」

「え、あ、うん、それは、まあそうなんだけど。それより」

「それより?」

「陽向くん、優しいから、きっと、悩ませてしまう。嫌なら、断ってくれていいけど、陽向くんは、そんなことでも傷つきそうで…たぶん、だけど」

 洋子は苦しそうに、ぽつりぽつりと話す。僕は驚いて彼女を観察した。的確だ。陽向はそれを恐れているのではないが、洋子を傷つけること自体を恐れている。たぶん、陽向は洋子を傷つけたと知ることで、傷つく。

「なんで、解ったの?」

「…目、目が、ね。とっても哀しそうなの。何かを怖がっている。私、えっと、その、昔、いじめられてて。だから、人の感情には、敏感で。陽向くんは、いつも哀しそうだった」

 僕は黙った。この二人は、どこかで人を考えすぎているのではないか。

 良心の呵責とでもいうべき機能が、大抵の人間には備わっている。根っからの悪人を除き、人をいたずらに傷つけて楽しみたいと思う人間は、たぶん居ない。陽向は体質によって、その機能が著しく良くはたらいていた。

 けれど、それほどまでに潔癖な態度で、人と居ることは不可能だ。それは、陽向を見て悟った。結局のところ、人を傷つけたくないということは、自分を傷つけたくないということに還元される。少なくともこの二人の場合にはそうだ。きっと、洋子も傷つきたくないのだろう。自分のせいで陽向が傷つくところを、見たくないのだろう。さすがに、陽向を魅了しただけのことはある。彼女はたぶん、怖いくらいの善人だ。

「…ここで、僕があれこれ言うのはずるいかもしれないけれど。でも、言うよ。たぶん、君と陽向は、同じことを考えている。彼もまた、怖がっている。不用意に君を傷つけることを」

 洋子はやっと顔をあげ、僕を見上げた。小柄なので、必然的に見上げられるかたちになる。

「あのね、僕だって、凛香に救われるまでは、そう思えなかった。そもそも人は、傷つければ離れるし、場合によっては危害を加えることすら厭わない。そんなものだと思っていた。でも、たぶんそれは、極論なんだ。踏みとどまってくれる人は、居る。少なくとも二人は、互いに傷つけあって、それでも、一緒に居られると思う」

 言っておいて、僕はなんだか照れくさくなった。最近、人に説教じみたことをするようになってしまった。偉そうに言えた立場ではないのに。

 でも、もどかしいのだ。この二人に、足踏みしている理由などない。早く二人で話し合って、互いを認めて。それで一つずつ、互いを解っていけば良い。傷つけ合いながら。

 洋子はしばらく黙っていたが、やがて、消え入りそうな声で、ぽつりと呟いた。

「…ありがとう」

 僕は洋子のほうに向き直る。洋子は自分の爪先の辺りをじっと見つめ、膝の上でペットボトルを握りしめていた。なんだろう、この子の儚さは。ちょっとしたことで潰れてしまいそうで、ああ、やはり陽向と似ている。僕は、あの夜の弱々しい陽向の笑みを思い出した。

「どうするの?」

「陽向くんと、話してみる。私、頑張る」

「…そっか」

 僕は紙パックの残りを一気に飲み干すと、立ち上がった。

「さ、戻ろうか」

「う、うん」

 僕らは元の応援席に戻った。しかし先ほどよりも人が増えていて、座れそうな場所はなかった。僕らは顔を見合わせて笑い、仕方なく、また一階へ向かった。


 その道中、僕らは見てしまった。コートへ続く入口の陰、人気のない通路から、いやに気合いの入った男の声が聞こえてきた。不思議に思った僕らは、通路をそっと覗いてみた。

 ここからでは、男の後ろ姿しか見えないが、どうやら、誰かに向かって頭を下げているようだった。あの男の子、どこかで見たような気がする。きっと気のせいだ。少なくともセンテンスには無いのだから。

「…ください。お願いします」

 それは、告白の現場だった。気づいた途端に僕らは気まずくなり、いったん顔を引っ込めた。洋子と目を合わせて、意思疎通を図る。静かに立ち去ろう。

 だが、聞こえてきた声が、僕らの足を止めた。

「ごめんなさい。前にも言ったけど、無理です。わたし、好きな人がいるから」

 それは、凛香の声だった。小さくても判る。判る自分に驚く。センテンスから音や画像を作り上げることは、ほとんど不可能であるはずだ。僕はいま、センテンスに頼らず、凛香の声を聞き分けた。身体が覚えているのだ。やはり、システムは完全ではなかった。僕は喜びに頬を緩める。

 洋子が立ち止まった僕を引っ張った。ああ、そうだ。早く離れなければ。僕らは足早に立ち去った。が、角を曲がる間際、背後から声をかけられる。

「あれ?洋子、と、奏陽?」

 僕らは顔を見合わせて、苦笑する。結局見つかってしまった。まあ、凛香が告白されることなんて珍しくないだろう。僕らが彼の勇敢な行動を、言いふらさなければいいのだ。

 振り向くと、凛香はもう近くまで来ていた。

「…もしかして、見られちゃった?」

 僕は黙って頷いた。凛香は額に手をあて、決まり悪いのを隠すように、僕らを休憩スペースへ連れていった。

「あのね、さっきの子は、ずっと告白してくるの。ほら、奏陽には、前も言ったでしょう?」

 それなら憶えている。たしか、まだ僕らが公園で話していた頃だ。『しつこかった』と言った、はずだ。

「ちゃんと断ったんだけど、なんだか諦めてくれないみたいで」

「凛香も大変だね」

 洋子が他人事のように言う。彼女なら、凛香の事情にも精通しているのだろう。それにしても、洋子は凛香に対して容赦がない。引っ込み思案な洋子をこれほど安心させられるのは、やはり凛香だけなのだろう。

 凛香は洋子の髪の毛をくしゃくしゃと撫でる。洋子は擽ったそうに身をよじった。本当に仲が良い。

「そう言えば、凛香、好きな人が居るって、ほんと?」

 洋子が首を傾げて問う。たしかに、僕も気になっていた。凛香が好きになるとしたら、どんな人なんだろう。単純な興味だ。けれど一方で、なんだかもやもやしていた。胸のあたりがおかしい。これは、単純な興味というだけでは片付けられそうにない。どうして、僕はそんなことを気にしているのだろう。

 凛香はまごつき、もごもごと言い淀んだあと、頬を紅潮させて呟く。

「…ほんと、だけど」

「誰?」

「ここでは言えないよ!」

 言えないらしい。少し残念だ。凛香はなぜか僕のほうを睨み、ため息を吐いた。

「え、なに?なにか悪いことした?」

「…してないよ。なんでもない」

 そして、普段通りの優しい笑顔に戻った。僕も嬉しくなる。

 認めよう。僕は凛香にべったりだ。彼女が嬉しそうだったら、僕も嬉しい。彼女が悲しんでいたら、何としてでも助けてあげたいと思う。これが、友情と言うものだろうか。よく解らないけれど、とにかく、僕は凛香のことが好きみたいだ。


 たくさんの生徒を乗せたバスは緩やかなカーブを曲がり、もうじき僕らの学校に着く。

 僕は陽向の隣でほとんど眠りかけていたのだが、バスの揺れに目を覚ました。ぼうっとしていると、すぐに眠くなってしまうのだ。

「陽向、大活躍だったね」

「そう、かな」

 文庫本を閉じた陽向は、照れくさそうに頭を掻く。もう残念だなんて言えない。気弱な感じも相まって、本当に良い男になってしまった。僕らはバスを降りると、教室へ入って着替えた。男子は各教室で着替えることになっているのだ。着替え終わったらそのまま帰って良いらしいので、僕らは並んで教室を出た。


 靴を履き替えたところで、前方から名前を呼ばれた。そちらを見遣ると、背の高い男子生徒が立っていた。センテンスにはないが、どこかで見たような気がする。

「ちょっと、来てくんね?悪いけど、一人で頼む」

 僕は陽向に目配せする。もちろん、この少年のことを警戒していた。不自然だ。関わりのない僕を、こんなふうに呼び出す理由が、穏やかなものだとは思えない。

 けれど、そんなことを言っていたら、また上手く生きていけなくなってしまう。確証がない以上、断れないというのが事実だ。僕は陽向が頷いたのを見てから、仕方なく、少年について行った。

 彼はしばらく歩き続け、人気のない体育倉庫の裏までやってきた。もう嫌な予感しかしなかったが、いまさら逃げ出すわけにもいかない。僕は黙って従った。

 彼はゆっくりと振り返り、僕を睨みつけた。

「八代。たぶん、お前は俺の名前も憶えてないよな」

 それは否定できない。僕が憶えているのは、必要だと思われる人間だけだ。高校に入ってからは陽向のサポートもあったし、余計に覚えることを怠っていた。

 けれど、僕は一度もへまをやらなかった。それは、必要に応じて一時的に覚えておくとか、文脈を整理しておくとか、そういう対策を講じたからだ。

 なのに何故、彼はそれを知っている?

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