奮闘
陽向は、僕に執着していた理由も教えてくれた。
「奏陽、は、記憶が、…シンプルだから、人格も、理解しやすかった。ちゃんと、読んでから、話せば、嫌われないから、ずっとそうした。…ごめん。ずるいと、思う」
「大丈夫。陽向がそうやって向き合ってくれたからこそ、僕は君といられたんだから」
陽向は笑う。これまでの完成された微笑とは違い、どこか人間くさい笑顔だった。こちらの方が素敵だと思った。
陽向はベッドに倒れ込む。僕は座ったままだ。
「…もうひとつ、相談を、してもいいかな?」
陽向はぼそりと言った。僕は躊躇なく頷く。
「最近、洋子、から、よく、話しかけられるようになった。僕は、いつも通り、記憶を、覗いた。…彼女を、傷つけたくなかった。でも、失敗、だった」
「失敗?」
「そう。一つは、彼女の、知られたくない、気持ちを、知ってしまったこと」
知られたくない気持ち。それは、おそらく陽向への恋心なんだろう。凛香が知っていたということは、どこかで、洋子は凛香に話しているわけだ。陽向は偶然、その記憶を覗いてしまったのではないか。
「花村さんが、君を想っていることだね?」
「うん…。僕は、嫌、じゃ、なかったけれど、複雑な気分になった。僕には、好きとか、嫌いとか、よく解らない。人間として、好きとかは、解る。でも、恋なんて、僕は、知らない」
陽向は人を傷つけないために、ずっと自分を封殺してきたのだ。そういったことに鈍くとも不思議ではない。けれど。
「…断ることもできるでしょう?それを気にしているってことは、陽向は、気になってるんじゃないの?」
これは僕の推測だが、陽向ほどの容姿の持ち主ならば、告白くらい、何度か受けていると思う。少なくとも、初めてではないだろう。ならば、その対処法も解っているはずだ。
「うん、たぶん。…彼女は、ほんとうに、本が好きなんだ。僕が、へんな話し方しても、楽しそうに聞いて、くれて。とっても、幸せそうに、話すんだ。記憶を、見たから、解るけど、彼女はとても、優しいんだ」
「気になるなら、とりあえず近づいてみたら?それでダメなら、考えなくちゃだけど」
何をするにも、まずは相手を知らなくてはならない。それなら、洋子と親しくなれば良いだろう。
「実際、僕らは、何度か、遊んだんだ。休みの日にも」
陽向はそこで言葉を切り、しばらく黙った。僕は彼の言葉をじっと待った。決して急かしてはいけない。陽向は僕を信じて、歩み寄ってくれたのだから。
「…君を、信じて、言うよ。洋子は、暗い過去をもっていた。…詳しくは、伏せる。イジメの、記憶だ。洋子は、中学の頃、ひどいイジメに遭っていた」
心臓が高鳴るのが判る。未だに、その言葉は苦手だ。思い出したくもないあれこれを、思い出してしまうから。
「…それで?」
「さっき言った、とおり、僕は、人格を推測して、話している。でも、洋子の記憶は、悲惨すぎて、どう接していいか、わからない。何を言っても、傷つけてしまいそうで、それで、ずっと、本の話ばかり、してしまう」
何を言っても傷つけてしまうかもしれない。それは、陽向にとって八方塞がりな状況だ。まともに話せなくなるのだろう。
本来、人を傷つけてしまうことなど、珍しいことではない、と、思う。僕には友情やら愛情やらはよく解らないけれど、人が同じ方向を見ていないことは、なんとなく解る。たとえば、出会ったばかりの凛香は僕のことを知らず、ずけずけと近づいてきた。結果、良い形に収まっているが、それだって、人を傷つける要因になりうるだろう。弱虫だから、その痛みはよく解る。
陽向は、答から逆算するようなやり方で、人と接してきた。そうやって、これまで自分を守ってきた。だからいまさら、そのリスクを背負うことは躊躇われるのだろう。怖いのかもしれない。
「…僕も、偉そうに言えないけど。陽向は、ちょっと相手を傷つけることに慣れたほうがいいのかもしれない」
神経過敏。つまりはそういう事だ。僕が過去の絶望や、特殊体質によって塞ぎ込んでいたように、ある種の経験は人の神経を過剰に尖らせる。
実際のところ、僕の体質は状況が良ければ克服できそうだが、僕は不可能だと思い込んでいた。陽向もまた、『解りすぎてしまうこと』で、人に踏み込めずにいるのだろう。しかも僕とは違って、陽向のそれは、良心の呵責を煽る残酷なものだ。
だがそもそも、一つの地雷も踏み抜かずに、人と接することは可能だろうか?僕は想像する。たとえ記憶が見えたところで、そんな見え透いたものばかりが、人のボーダーラインだとは限らない。陽向が僕の記憶を見たところで、家に人を呼びたくないとか、名前で呼ぶのを躊躇うとか、そんなことは判らないだろう。それは、記憶がもたらす副次的なものだ。想像でカバーするには限度がある。だから、陽向をもってしても、まったく人を傷つけないことなんて不可能だ。
ああ、似ている。僕らは、自分の異常性を過信し過ぎている。否定する材料がなかったのだから無理もないけれど、僕らはどこかで必要以上に諦めて、塞ぎ込んでいたのだ。
それは、転んだ時に立ち上がりたくないことと似ている。何かに打ちひしがれた時、人は希望よりも絶望を信じてみたくなる。たぶん、そちらの方が楽なのだろう。自分を壊してしまわないように、僕らは必死に自己防衛する。
陽向はじっと動かず、黙っていた。何かを考えているようだった。やがて、小さく息を吐くと、切り出した。
「そんなことが、許されるの?」
僕は思わず笑った。凛香に同じことを言ったからだ。
「…僕もね、そう思った。酷い目に遭ってきたから、人の良心みたいなものを、ちっとも信じられなくて。でも、凛香が言ってくれた。許すって。彼女は、そうしてでも、僕と友達になりたいって言ってくれた」
そう、思えば、凛香が誠実に歩み寄ってくれたから、僕はここまで来れたのだ。まだ、慣れないところもあるけれど。僕は相当、人間らしくなった。
「たぶんね、僕は、そういうことに疎いけど、でも、人間を傷つけない人間なんて、居ないんだと思う。誰もが手探りで、誰かを求める。互いに怪我をしながらも、近づいていく。それが失敗に終わることも、ある、のかもしれないけれど。でも、それは必要なことなんだ。人が、人と居ようとする限り」
僕は立ち上がり、陽向の隣に座った。彼が一瞬、身体をこわばらせたのを、僕は見逃さなかった。怯えているのだろうか。今の彼は、まるで小さな子供にみえた。もしかしたら凛香から見た僕も、こんなふうだったのかもしれない。
「いいんだよ。まったくの他人なら、難しいところもあるけれど、僕や凛香や、花村さんの人柄なら、ある程度知っているでしょう?怖がらないで。少なくとも僕は、君になら、いくら傷つけられたって構わない」
陽向はゆっくりと起き上がり、僕と目を合わせた。これが、彼の本当の表情なのだろう。どこか虚ろで、何かに怯えているようにみえる。僕は目を逸らさなかった。
陽向はやおら表情を変え、にっこりと笑った。初めて見た表情、だと思う。センテンスにない笑顔だった。『整った微笑』でも、『爽やかな笑み』でもない、はずだ。これを形容するなら、そう。『感情のこもった、本物らしい笑顔』だ。
「おはよー、二人とも…ってあれ?なんか陽向くん、雰囲気変わった?」
「え、そうか、な」
洋子を連れて歩いてきた凛香は唖然として、隣にいた僕を引っ張っていく。残された陽向は、洋子にゆったりとした挨拶を投げかけていた。彼は今、必死で闘っている。凛香は声を低くして問う。
「ちょっと、陽向くん、どうしちゃったの?頭でも打ったんじゃない?」
「気持ちは解るけどね。あれが、本当の陽向だったんだ。昨日、打ち明けてくれた。僕と同じくらい変わった体質をもっていて、それで、塞ぎ込んでいたんだ」
凛香は顎に手をあて、考え込んでいる。僕は彼女の後頭部に寝癖を発見した。こんなに気が緩んでいる彼女を見るのは、無論初めてだ。なぜかドキリとする。
「…なるほどね。とにかく、わたしたちは、あの陽向くんに向き合っていけばいいんだね」
「そういうこと」
さすが、物わかりが良くて助かる。昨日は勢いに任せて凛香たちの名前を挙げてしまったが、心配はなさそうだ。彼女は、きっと陽向に向き合ってくれるだろう。
心配なのは、洋子の方だった。こちらは陽向に好意を向けている、ということしか、確かなことがない。というか僕は知らない。しかし、陽向が蔑ろにしないことや、『ヤバい奴』だった陽向に話しかけてきたことを踏まえると、洋子がそれほど頑固で冷たい人間であるとは考えづらい。すべて憶測だが。
「ねえ、花村さんってさ、どんな人?」
「え、洋子?んー、そうだなあ。言葉にするのは難しいけど、いい子だよ。奏陽も、話してみたらいい。きっとあの子なら、君を受け入れてくれるから」
僕は曖昧に頷いた。今のところ、僕が気を抜いていられるのは、凛香と陽向の前だけだ。あれこれ言っても、やっぱり時間がかかりそうだ。
見慣れた病室のドアは、今日もスムーズに開いた。
「いらっしゃい。…そちらは?」
「はじめ、まして。奏陽の、友達で、工藤陽向、といいます」
陽向はたどたどしく挨拶する。僕は凪咲のもとへ歩み寄る。
「ほら、あの、英語の子だよ」
「あ、ああ…思ったよりも普通な感じね」
「ちょっと、改心、しまして」
あれから二週間が経った。陽向はずっと、自分の言葉で話している。言葉に詰まることも少なくないけれど、彼は懸命に闘っている。これでもだいぶ、滑らかに話せるようになったのだ。
凪咲は優しく微笑んで、陽向の顔をじっと見た。陽向は照れたようにそっぽを向く。
「ふふ、可愛い子。ねえ、陽向くん。君、本が好きなんだってね」
「あ、はい。好きです」
「わたしも、昔から本の虫でね。良かったら、いろいろ話しましょ?」
陽向は僕のほうをチラと窺った。僕が小さく頷くと、陽向はやっぱり照れたような笑顔で話し始めた。
意気投合した二人は、それから三十分ほど話していた。幸せな光景だな、と思った。
僕らは病院を後にして、僕の家へ向かっていた。
「どうだった?凪咲、優しいでしょう?」
「奏陽が、ぞっこんなのも、わかる気がする」
最近では、僕に対して減らず口を叩けるようになってきた。これは大きな進歩だと思う。僕も頑張らなければ。
「でも、あの人の記憶は、悲しい」
「ああ、見えちゃうんだよね」
陽向は黙って頷いた。きっと、凪咲と恋人の記憶を見たのだろう。悲しいけれど、温かい記憶だったに違いない。
「…奏陽」
「何?」
「ありがとう。僕は、やっと、人間になれた、気がする」
よく解らないが、僕はなんだか泣きそうになった。無言で陽向の背中をやさしく叩く。僕らは穏やかな五月晴の下を歩いていた。春もいよいよ終わりに近づいている。
雨の季節が、迫っていた。
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