人間の像
僕らはファストフード店で食べ物を手に入れると、デパートを後にした。これから、陽向の家へ向かう。
「こっちだ」
陽向と僕が並び、二人はその後ろをついてきた。日も傾いてきている。ちょうど良い時間だ。
「陽向の家に行くのは初めてだね」
「ああ。僕も、人を招くのは初めてだよ」
陽向は遠くを見つめたままで言った。なんだか寂しげにみえた、ような気がした。凛香の表情を観察してきたからだろうか。軽微な感情の揺れが、なんとなく判るようになってきた。
「そうなんだ。…ねえ、陽向。君は、寂しいとか、思ったことある?」
陽向はちらりと僕のほうへ目をくれて、また前を向いた。やはり、仮面のような笑顔だ。
「…珍しいな、少年。君がそんなことを訊くのは」
「ああ、なんだか最近、変わったんだ」
「それは、きっと良いことだな。ふむ、寂しい、か。どうだろうな。僕にも、よく解らない」
陽向が僕のようなことを言う。僕は陽向に触れてこなかった。温度差を感じることを恐れ、近づき過ぎないようにしてきた。でも、今なら。
「よかったら、今夜あたり聞かせてくれないか。僕は、陽向のこと、もっと知りたい」
陽向は驚いて僕を見る。彼のこんな表情はあまり見ないから新鮮だ。あれ、いま僕、記憶を頼りに新鮮だとか思ったのか?
「君は、ほんとに変わった。さらにいい男になったじゃないか。…いいだろう。その代わり、君のことも訊いていいかな?」
「もちろん。…待たせてごめんね」
僕は陽向の目を見て言った。彼はさらに驚いた表情を見せて、普段とは違う、照れたような笑みを浮かべた。
思えば僕はずっと、陽向を待たせてきた。陽向には待ったという感覚はないのかもしれない。そんなことは諦めてもらわないと、僕は彼の隣に居られなかった。
けれど、陽向は僕と違って、正常な速度で人への愛情を募らせるのだから。彼だって、本当は僕に心を開いてほしかったのではないか。思い上がりだろうか。いや、それでも構わない。僕は、陽向と、ちゃんと友達になりたい。
気持ちの歩幅をあわせること。勝手に突っ走らず、遠ざけず、しっかりと互いを見つめて歩くこと。そんなもどかしい営みの果てにしか、本物の絆は生まれないのだろう。僕は素晴らしい友人達に出会って、それに気づいた。
「ああ、ずっと待っていたよ。君に気づかれないように、慎重にね」
その言葉に、僕まで
「さあ、もう着くぞ」
僕らは穏やかな時間の中を、ゆったりと歩いていく。
「…デカくない?」
僕は目の前の豪邸を見上げて言う。三階建てで、庭は軽く散歩ができそうなくらい広い。あちらこちらに植物が植えられ、色とりどりの花を咲かせていた。
「そうか?ああ、でも確かに、一人でいると、いやに広く感じるよ」
陽向はさらっと言って、僕らを案内する。両親は不在らしい。陽向はそれについて行くのが嫌で、家に残ったそうだ。
「基本的に、三階は誰も使っていなくてね。部屋ばかりが余っている。ここを使ってもらいたい。一人に一部屋でも間に合うはずだ」
外観通りの広々とした家だった。一階のリビングと思しき場所は、ちょっとしたパーティーが開けそうだ。二階は陽向たち一家のそれぞれの個室があるらしい。
「バスルームはここで、トイレはあっちだ。好きに使ってくれ」
バスルーム、と言っても相当広い。二人くらいなら余裕で入れそうだ。僕はただ圧倒されていた。
リビングに戻った僕らは口々に言い合う。
「こんなに立派だとは…」
「ね。正直想像してなかったよ」
「な、なんか緊張するなあ」
僕らはテーブルに食べ物を並べ、だらだらと食事を始める。これまで食事なんて、栄養補給のための行為にしか思えなかったが、彼らが居ると意味合いが違ってくる。これは一種のコミュニケーションなのだ。
「…君たちは不思議だ。僕を、あまり緊張させない」
陽向が出し抜けに言った。僕はフライドポテトを齧りながら、彼の顔を見る。
「ありがとう。僕は、やっと孤独から開放されるのかもしれない」
向かいに座った凛香が陽向を見つめる。陽向の笑顔はやっぱり作り物めいていたが、どこか幸せそうだった。
「みんな、どこかで孤独なのかもしれないね」
凛香がぼそりと呟いた。洋子がハンバーガーに噛みついて、ふっと目を逸らす。なにか、目に見えない哀しみが流れているような気がする。僕らの間には、切実で、けれど偽りのない何かが在った。
「…すまない。湿っぽいことを言ってしまった。せっかくだから、大いに楽しもうじゃないか」
陽向はいつも通りの声で言うと、ストローを咥える。僕が頷くと、あとの二人も大きく頷いて、笑った。
しばらく、僕たちは無意味な、けれどかけがえのない時間を過ごした。くだらない話をした。たぶん、何年か経てばもう思い出せなくなるような話。洋子は凛香にからかわれて、何度も焦っていた。陽向は気障な口調で、いつもより沢山、ジョークを飛ばした。僕は三人の間へ慎重に入り込みつつ、気づくとそれすら忘れていて、自然に笑っていた。
僕は人間だ。そう思った。ただ生きていることを、人生とは呼ばない。人は空っぽのままでは生きていけない。だから、誰かと手をつなぐ。何かに執着する。そうやって、自分を生かしている。
僕はようやく、人間の
気づけば夜も更け、日付が変わろうとしていた。
「そろそろ、寝よっか」
凛香が欠伸を噛み殺しながら言う。僕らは賛成し、その前に風呂に入ることにした。ジャンケンの結果、女の子が先に入ることになった。
「よーし、洋子、一緒に入ろー」
「え、一緒に入るの?」
「なんだよう。嫌なの?」
「え、あ、嫌じゃないけど、さ。は、恥ずかしい」
「問答無用!裸の付き合いしようぜー」
洋子は抵抗虚しく、酔っ払いみたいなテンションの凛香に引っ張っていかれた。僕らは苦笑を見せ合いながら、二人を見送った。
二人を待つ間、僕らはリビングの窓から外を眺めつつ、話した。満月が出ていた。外はかなり明るい。
「少年。不躾かもしれんが、まずは君の話を聞かせてくれないか」
僕は頷き、凛香にしたのと同じ話をした。記憶のこと、それで上手く馴染めず、いじめられたこと。凪咲に助けられたこと。
不思議なことに、陽向はそれほど驚いていなかった。
「…そうか。話してくれてありがとう」
「あんまり驚かないんだね」
陽向は目を逸らし、月を見上げた。
「そうだな。僕にも隠し事があってね。それのためだ」
「隠し事、か。…聞かせてくれるんだよね?」
「ああ、君が歩み寄ってくれたからね。僕も自分を晒そう」
陽向が身体ごとこちらに向き直り、話し始めようとした時、背後から声が聞こえた。
「おまたせー。お風呂上がったよー」
僕が振り返ると、濡れた髪をタオルで乾かしながら、ラフな格好をした凛香が立っていた。心臓が揺れる。この感覚の原因は、未だによく解らない。
「ああ。では、僕らも入ろうか」
「うん…え?ちょ、一緒に入るの?」
「彼女達が裸の付き合いをしたというのに、僕らがしないのは失礼じゃないか」
その感覚は全然解らない。
「…まあいいや」
結局、僕は陽向と入浴した。広いので、案外快適だった。
僕らは「おやすみ」を言い合って、別れる。女の子二人は同じ部屋で寝るらしい。陽向はこれに対しても謎の対抗意識をもち、僕らは同じ部屋で寝ることとなった。
「予想はしてたけど、やっぱり広いね」
一人で使うには十分すぎる広さだ。ベッドも二つある。陽向は壁際のベッドに腰掛けた。僕も向かい合って座る。
「さて、少年。さっきの続きだが…」
「ああ。聞かせてもらうよ」
陽向は天井を見上げて、しばらく考えていた。言葉を選んでいるのかもしれない。それから、ようやく語り始めた。
「…僕はね、人の記憶が見えるんだ。小さな頃からだよ。神が与えた、残酷なプレゼントだ。気をつけていないと、すぐに見えてしまうものだから、困る」
陽向は一度、言葉を切って大きく息を吐いた。
君、想像してみてほしい。全部判ってしまうんだ。その人が憶えていることなら、なんでも。苦しかったことも、嬉しかったことも、全部だ。その人の人格を覗き見ているのと、あまり変わらない。幼い頃には、極力見ないようにしてきた。けれど、それは至難の業なんだ。もう、勝手に見えてしまうのさ。
だから、もう見ないことは諦めた。その代わり、僕は人の機嫌を伺いながら話すようになった。その人の過去を、あえて見るんだ。それでその人格を推測して、適切な話し方をする。だって、そうしないと傷つけてしまいそうだったから。僕は誰も傷つけたくなかった。
そんなことを繰り返して、僕はだんだん壊れていった。幼いうちは、簡単だったんだ。けれど、人間の記憶は長く生きるほど複雑になっていく。当然のことだ。すると、僕は人格を想像できなくなる。不確実だ。君たちにすれば、ごく普通のことなのかもしれないが、僕にとっては重大な問題だった。それで、僕はいっとき、何も言えなくなった。何を言っても傷つけてしまいそうで、極端に無口になった。
僕を変えたのは、綺麗にまとめられた本の言葉だった。僕よりもずっと賢く、才能に溢れた人々が書いたもの。それは、かなり信用できた。僕は、誰かの言葉をしょっちゅう引用するようになった。実際に、人々はそれを喜んでくれた。賢い子だと褒めた。
長い時間をかけて、僕はとうとう、自分の言葉で話せなくなった。本当は、逃げたかったんだと思う。自分の言葉で誰かを傷つけることが怖くて堪らなかった。モノマネは過剰になり、口調まで、お気に入りの本の主人公を真似るようになった。それで、こんなふうになった。
「…これが、僕の秘密。聞いてくれて、ありがとう」
陽向は言葉を選びながら、非常にゆっくりと話した。途中から口調が変わっていた。それが、本来の彼なのだろう。
陽向は、ヤバい奴でもなんでもなく、ただ、優しすぎる少年だった。記憶が見えてしまうが故に、人を不用意に傷つけることを恐れ、自分の言葉を封印した。
「幻滅、した?」
陽向は、恐らく彼自身の言葉を選んで言った。
「…するわけないでしょう。陽向は、ただ優しいだけだよ。人に真直ぐ向き合おうとするから、苦しんで、自分の言葉を封じた。何が悪いの?」
陽向はぼうっと僕を眺めている。なんだか弱々しく見えるのは、彼が虚飾を脱ぎ捨てたからだろう。いま、目の前にいるのは本物の、陽向という人間だ。
「…ありがとう。…本当は、ね。誰かに、言って、ほしかった。傷つけても、いいよって」
それは奇しくも、凛香が僕にくれた言葉であった。傷つけられても構わない。深い思慮がなければ、安易には言えない言葉だ。
僕はこれまで、たくさんの人に傷つけられてきた。理不尽になじられ、貶され、暴力まで振るわれた。それからというもの、息を殺して生きることばかりに努めてきた。人と認めあえる日など、決して来ないのだと確信していた。
そんな僕が、それでも人と居ようとする。空っぽでは居られないから。それは、生きようとする努力に他ならない。きっと、陽向だって同じなのだろう。生きようとしている。怖くて、自分の言葉では話せなくなっても、僕に触れようとしてきた。人を、求めた。
僕らはボロボロで、弱虫で、怖がりだ。それでも、生きることを諦められない。空っぽの隙間を埋めようと、必死にもがいている。そんな人間を、もっとも安心させる言葉。それが、自らを差し出す言葉だ。
『傷つけられてもいいよ。それでも、一緒に居よう』
たぶんそれこそが、愛と呼ばれる何かなのだと思う。
「陽向。僕もね、こんなふうだから、全部諦めてしまっていた。どうせ、人を傷つけるか、反対に傷つけられるか、どちらかしかないのだと思っていた。人なんて愛せないのだと考えていた。けれど、陽向や凛香は、そうじゃなかった。僕と向き合ってくれた。だから、今、とても幸せだ」
陽向は力なく微笑むと、僕の顔をじっと見つめた。僕は真直ぐな気持ちを伝えたくて、必要以上に丁寧に日本語を発音する。
「ねえ、陽向。僕は、君の言葉が聞きたい。強制するわけじゃない。君がたとえ、このままだったとしても、僕は君を受け止める。君が僕の友達であることは変わらない。でも、もしも、叶うのならば、歩み寄ってくれないか。もっと近くで、手を取り合おう」
「…あり、がとう。やっぱり君は、いい人だ。…奏陽。僕は、君や、…凛香が大好きだ。君たちは、僕を、否定しないから。どれだけ、偽っても、そばに、居てくれた。これからも、どうか、離れないで。僕を、一人に、しないで」
僕は陽向に向かって手を差し伸べる。凛香が、僕にそうしてくれたように。陽向は弱々しく、けれど確かに、僕の手を取った。
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