救世主

 僕はようやく一息ついて、口を閉ざした。我ながら救いのない話だと思った。

「…それで、凪咲さんと出会うんだね?」

 僕は黙って頷いた。そう、僕にも救世主が現れたのだ。凛香は細い脚を組んだ。僕は、それをなんとなく眺めてから、また、ぽつぽつと語り始める。


 凪咲は僕の救世主だった。

 僕らの出会いは、それからすぐのことだった。五月の連休に、母は出かけると言った。父は仕事の関係で居なかった。そして、僕が邪魔だったのか、母は留守番をしていろと言った。僕はもはや、両親には何も期待していなかった。こうなれば、両親も他人と相違ない。僕は素直に頷き、従うことにした。二日ほど、彼らがいなくとも生活に支障はないだろう。

 僕の母は、隣の家に住む主婦と仲が良かった。そう、凪咲の母だ。趣味が合うのだとかで、しょっちゅう一緒に出かけていた。凪咲の父は大企業に勤めているが、その時は出張で家に居なかった。僕らは、家庭環境がなんとなく似ていた。勿論、凪咲は僕よりずっと愛されていたに違いないが。

 今度も凪咲の母と出かけるらしい。翌朝、出発するそうだ。僕はとりあえず学校に行かなくても良いという安心から、ひどい眠気を覚えた。それでその日は、だらだらと昼寝をして過ごしていた。


 夕方、家に帰ってきた母が、僕を叩き起こして言った。

「ちょっと、奏陽。隣の娘さん、知ってる?」

 僕は名前すら知らなかった。

「凪咲ちゃんっていうの。高一で、すごくいい子なんだけど。その子がね、ぜひ遊びにおいでって言ってくれてるのよ。あんたを一人で置いておくのも心配だし、お邪魔させてもらいなさい」

 心配なら一人にするなよ、と内心で毒づきながらも、僕は母の言葉に従った。僕らの家は軒を連ねるほどの近さにある。何かあれば、ここへ逃げ帰ってくればよいのだ。母もそれは責めないだろう。

 大丈夫だ。傷つけられることには、慣れている。そう思った。


 翌日。僕は凪咲の家に向かった。昼前だった。母はとっくに居なくなっていて、僕は独り、とぼとぼと歩いて行った。玄関のチャイムを鳴らすと、凪咲はすぐに現れた。かなりラフな格好をしていた、らしい。

「あ、奏陽くん。いらっしゃい。おいでおいで」

 僕は言われるままに上がらせてもらい、キッチンへ案内された。

「ご飯、食べた?」

「いえ、まだです」

「そっか。なら、先にご飯食べよ。作るからちょっと待っててね」

 凪咲は慌ただしく料理を作り始めた。僕は椅子に座って、ぼんやりとその様子を眺めていた。まもなく、凪咲は料理を運んできた。

「おまたせー。はい、食べて食べてー」

 凪咲が正面に座るのを待って、箸を持ち上げた。「いただきます」と小さく呟いてから、食事を始める。

 料理は、お世辞抜きに美味しかったらしい。僕は与えられた分を平らげると、凪咲に礼を言った。凪咲は笑顔で『お粗末さまでした』と言った。

 それから僕は、宿題を片付けることにした。連休だからと言って、ちょっと量が多いのではないかと思った、らしい。リビングのテーブルでしばらく静かに取り組んでいた。この頃には大体、自分の異常を理解していた。趣味なんてもてるはずもなく、僕は空っぽだった。初めは単に飽き性なのかと思ったけれど、記憶のシステムに思い当たってからは、不可能なのだと悟った。

 凪咲は食器を片付けてしまうと、僕の背後にあるソファに座って本を読み始めた。ちらと窺ったところ、表紙には『デミアン』と書かれてあった。作家名もカタカナだった。


 時間は緩やかに流れていった。僕は手を止めて、体を伸ばす。それに気づいたのか、凪咲は背後から声を掛けてくる。

「真面目だね。えらいえらい。でも、そろそろ疲れたでしょう?」

 否定する意味もなかったので、僕は素直に頷いた。凪咲はパタンと本を閉じ、微笑んで言った。

「じゃあ、ちょっと散歩に行ってみようか」


 散歩、というのは建前で、僕はほとんど凪咲の買い物に付き合わされた。いろんな店をまわって、買ったり買わなかったり。しかし、嫌な気はしなかった。僕に笑いかけてくれる人間なんていなかったから、かもしれない。

 凪咲は終始楽しげだった。そして僕らは、あの公園にやって来た。凪咲は僕にジュースを買ってくれた。甘いサイダーだった。

「ごめんね、付き合わせちゃって。ジュース一本じゃ割に合わないか」

 そう言いながらも凪咲は楽しそうだった。僕は缶を傾けながら、凪咲の特徴を探した。顔立ち、体つきなど、できるだけ多く見つけるようにした。じろじろと眺める僕の様子を不審に思ったのだろう。凪咲は自分を抱くような仕草を見せると、「どこ見てるのかなー?」と、にやけながら言った。

「あ、えっと、ごめんなさい…」

 凪咲は冗談のつもりだったのだろうが、僕にそんな余裕はなかった。日常的に貶され、親にも見捨てられた僕は、人の好意など頭の片隅にも想定していなかった。

 大袈裟に落ち込む僕を見て、凪咲は「冗談だよー」と笑う。それから突然、とても優しい目になって、僕の顔を覗き込んだ。

「奏陽くん。君は、とっても悲しそうな目をしてるね」

「えっ」

「お姉さんをなめてはいけない。お昼に会った時から、なんとなく判ってたよ。すっごく寂しげで」

 返す言葉もなかった。僕は俯き、じっと耐えていた。

「ねえ、何があったのか知らないけどさ。話してみない?私は君の味方になりたいんだ」

「…どうして、僕なんかに?」

「そりゃあ、そんな顔されたら、誰でも助けたくなっちゃうじゃない?大丈夫。私に全部、話してごらん」

 僕は考えた。これほどに純粋な人の善意を、初めて見たのである。戸惑った。そして、よく解らないままに涙が出てきた。人は感情が爆発した時、勝手に涙が出てくるのだ。理屈ではない。泣けなかった分を取り戻すように、僕は泣き続ける。

 凪咲は僕の頭を抱き寄せ、背中を撫でてくれた。僕はしゃくりあげながら、全てを話した。記憶のこと、イジメのこと。誰も助けてくれないこと。凪咲は黙って聞いてくれた。

「寂しい…」

 最後に僕は、掠れる声でそう言った。凪咲はいっそう強く、僕を抱きしめた。

「話してくれてありがとう。大丈夫。君は、大丈夫」

 凪咲はそう言いながら、僕が落ち着くまで頭を撫でてくれた。


 それからというもの、僕は凪咲と話した。何時間も。何日も。母親が帰ってきてからも、僕は凪咲のもとへ通い、彼女と話した。凪咲だけが、僕の救いだった。

 凪咲は僕をたくさん笑わせてくれた。実の弟のように、可愛がってもらった。いじめられて泣いている時も、黙って寄り添ってくれた。

「大丈夫。奏陽は、大丈夫」

 こんな僕でも、あの声だけは未だに思い出せる気がする。


 同時に、凪咲は現実も見える人だった。僕に、生きる上での判りやすい指針を授けてくれた。それは僕の根本的なものを救えなかった。だから僕は高校生になって、死にたがっていたのだ。

 けれど、凪咲のくれたそれは、少なからず僕の生活を一変させた。『できるだけ人に逆らわない。人の特徴と名前は、できるだけたくさん覚える。誠実であれ…』生活の上で、特に人と関わる際に重要なことを、凪咲は丁寧に教えてくれた。僕はそれを遵守して生きてきた。

 おかげで中学生になってからは、いじめられなくなった。いくつも間違えたけれど、それなりに人を受け流すコツも掴んだ。僕は地味で、静かな生徒になっていった。それでも、毎日泣いているよりはずっとましだった。


「そして、問題なく高校に入学した」

「…なるほど、ね」

 凛香は脚を戻して、代わりに腕を組んだ。僕は頭の後ろへ手を遣った。

 僕はなんとか生きていくことに成功した。空っぽなまま。しかしそれは、つまるところ人間の放棄に過ぎなかった。凪咲が示してくれた生き方は現実的で、即効性をもつものだった。あのころの僕が何よりも望んでいたものだ。ところが人間というものは、たとえ僕みたいなやつでも、空っぽのままでは生きられないらしい。

 そして二人目の救世主が現れた。僕に度胸があれば、きっとそれは陽向だったのだろうけれど。


「話してくれて、ありがとう。君が塞ぎ込んでいた理由も、解ったよ」

 凛香は僕を見下ろして言う。

「いまは、さくら…凛香のおかげで、ずいぶん気分が良いんだ。全部、君のおかげだ」

「やめてよー、照れるじゃんか」

 凛香はそっぽを向きながらも、上機嫌に言った。僕はそんな彼女を見つめて、幸せな気分になる。こんな時間がずっと続けばいいのに。


「あ、奏陽。おはよー」

 僕が待ち合わせ場所の駅に向かうと、凛香は既に来ていた。僕は同じ言葉を返しつつ、胸の辺りが苦しくなった。ずっと前から、凛香に会うとへんな感じがするのだが、最近はひどいのだ。

「じゃ、行こっか」

 僕は頷き、彼女に続いて電車に乗った。この辺りには映画館がない。そのため、すこし離れたデパートまで行かなければならない。陽向の家はその近くらしいので、そこから歩いて行けるそうだ。なので、僕らは駅で待ち合わせて、デパートで二人と落ち合うことにした。

「いやあ、男の子の家にお泊まりなんてしたことないから、楽しみだねえ」

「そうなの?意外だな」

 凛香は口を尖らせる。

「なに、そんな軽い女にみえる?」

「そうじゃなくて。凛香くらい人気なら、そういうのもあるのかなって」

「ないない。ってか、全部断ってるもん。下心丸見えだし」

 やはり、そういう輩も少なくないのだろう。僕は安堵する。あれ?なんで安心するんだろう。

 凛香は僕を見ると表情をころりと変えて、破顔した。

「なに?なんか嬉しそうだね?」

「んーん。別にー?やっぱり、奏陽とか陽向くんくらい誠実な人じゃないと、信用できないよね」

 僕は誠実だろうか?よく解らない。

 僕らはのんびりと車窓を眺めて過ごした。凛香と二人で居る時には、もう、あまり緊張しなくなっていた。沈黙さえも心地よい。


 途中で、洋子も乗ってきた。

「あ、洋子。おはよう」

 僕も続けて挨拶する。洋子は笑って挨拶を返し、凛香の隣に座った。

「どう?陽向くんとは、上手くやってる?」

 凛香は洋子に訊ねた。

「え、あ、いやあ。…変化なしです」

「奥手だなあ、もう。そういうところ、わたしは好きだけど」

 話の流れについていけず、黙っていると、凛香がこちらを向いて説明してくれた。

「あのね、洋子さ、実は陽向くんのことが…」

「え、ちょ、ちょっと、凛香?」

 凛香は振り向かずに、洋子の唇に左手の人差し指を当てた。よくも、そんなに綺麗に口が塞げるものだと、妙なところに感心する。

「好きなんだって」

「好きって、恋してるってこと?」

 実はそういうニュアンスが、僕にはよく解らない。ついこの前まで友達というものも知らなかったのだから、無理もないけれど。辞書に載っているようなことなら知っているけれど、それは物語の中の存在だった。

「そ、恋。けっこう見る目あるよね」

 たしかに陽向は変人だが、やさしい。それは僕もよく知っている。こちらが毛嫌いしなければ、彼は真直ぐに向き合ってくれる。

「…顔と、優しさは保証できるね」

「ほら、やっぱり優良物件じゃん」

 凛香の身体越しに、洋子が真赤になっているのが見えた。いつも、こんなふうにからかわれているのだろうか。ちょっとかわいそうな気がした。しかし凛香はお構い無しだ。さらにあれこれと、洋子をからかう。

 こういう信頼を、友達と呼ぶのだろう。言わずとも、互いに互いを許し合える。他人は他人でも、きちんと想ってくれる他人。

 僕は思わず笑んで、また車窓を眺めた。空が綺麗だった。


「ねえ、だから無理だって言ったよねえー!」

 映画館から出てきた凛香は、ほとんど泣きそうになっていた。僕の服の裾を引っ張って、離してくれない。くっつくなら洋子にくっつけばいいのに。こうされると、余計に胸が苦しいのだ。


 僕らが本来見るはずだった映画は、都合により上映できなくなったらしい。よく調べなかった僕らの責任だ。そこで、代わりの映画を観ることにした。

「じゃ、これにしよ。ほら、呪いの家だって」

 そう言ったのは洋子である。電車でからかわれたことへのささやかな仕返しだったのかもしれない。凛香はしばらく抵抗していたが、結局、洋子に手を取られ、連れていかれた。

 映画は中々の出来だった。途中、僕も目を逸らしたくなった。本当は怖いものなんて苦手だ。でも、友達と楽しめるなら良いかと思った。

 隣に座った凛香は判りやすく悲鳴をあげ、「もうやだあ」と半泣きになって洋子にすがりついていた。フラッシュに照らされて浮かんだ洋子の横顔は、笑っていた。彼女は怒らせてはいけないタイプなのかもしれない。

 陽向のほうを見ると、そこにはいつも通りの微笑があった。『わりと平気だ』と言っていたが、むしろ得意だと言ってもいいのではないかと思った。血塗れの幽霊が出てきても、眉ひとつ動かさない。却って笑えてくる。


「凛香、歩きづらいって」

 僕はそれとなく凛香を振り払おうとしたが、潤んだ瞳で上目遣いに見られると、もう駄目だった。こんなの振り払えるわけがない。

「わかったわかった、降参だよ。でも、なんで洋子にくっつかないの?」

「…いろいろ驚かせてくるから」

 凛香の手は小刻みに震えていた。暗いだけでも駄目だと言っていたのは、嘘じゃないらしい。とても演技とは思えないほど、凛香は怯えていた。

「やー、ごめんって。凛香?」

 洋子は上機嫌だった。この二人は本当に仲が良いのだろう。


 ふと、懐かしいことを思い出した。小学六年生の時、とても嫌な夢を見た。不思議なことに、こんな人間でも夢は見るのだ。しかも、悪夢ばかりを。

 その時は、たしか凪咲が死んでしまう夢を見たのだった。僕は悲しくて怖くて、翌日、すぐに凪咲に会いに行った。凪咲は僕の馬鹿馬鹿しい話を真面目に聞いてくれて、頭を撫でてくれた。

「大丈夫。奏陽は、大丈夫」

 子供をあやすようなセリフだ。けれど、僕にとってあれ以上に落ち着ける言葉はない。


 僕はそっと手を伸ばして、凛香の頭に載せた。それから、やさしく撫でる。

「大丈夫。凛香は、大丈夫」

 凛香は驚いたように僕を見上げ、目を見開いた。正直に言うと、触れる瞬間、すこし怖かった。でも、何故だろうか、こうしてあげたくて仕方なかった。

 凛香はしばらくそのままだったが、やがて柔らかい笑みを零した。僕はそれを直視してしまって、また心臓が揺れたのを感じる。

「ありがとう。ちょっと落ち着いた」

 そう言って、凛香はようやく離れた。



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