トラウマ

「テキトーに座ってー。あ、そこのクッション使っていいよ」

 凛香の部屋に入った僕は、へんな高揚感を覚えた。さすがに人の部屋に上がり込むのは、まだ早かっただろうか。しかし、なんだか原因はそれではないような気がする。上手く説明できないが、胸の辺りが苦しいのだ。

 僕は言われた通り、平たいクッションに座った。彼女は窓を開け放ってから、ベッドに腰を下ろした。部屋全体に、なんとなく甘い香りが漂っている。衣類の影響だろうか。それを意識すると、また胸が苦しくなった。

「もう、こうやって君と話すのも、ずいぶん慣れてきたね。って、君は慣れないか」

「んー、たしかに慣れるのは難しいね。でも、なんだろう。最近、かなりましになってきたんだ。考え方が変わったのかもしれない」

「考え方?」

 センテンスというのは、とどのつまり僕の記憶に違いないのだ。それでも僕は、それを信じられない。問題はそこにある。

 だが、見方を変えれば。つまり、僕がとことん素直になれば、話は別だ。僕は、昨日の僕を信じることにした。完璧に、というのは無理だ。やはりそこには隔たりがある。けれどそうすることで、僕は前よりずっと、自分の存在を信じられるようになった。凛香との優しい思い出は、センテンスであっても、僕を助けてくれた。僕は、昨日の僕を愛せるようになった。

「上手く言えないけど、僕は前より、ずっと幸せだ」

 凛香は目を見開き、僕の顔を見つめた。それから、ふわりと微笑む。心なしか、頬が紅いような気もする。

「…そっか。良かった」

 僕は照れて、そっぽを向きながら頷いた。最近気づいたが、僕は凛香の笑顔に弱い。あまり見過ぎると、胸の辺りがへんになる。病気じゃないかと、自分でも時々思う。

「あ、そうだ。じゃあさ、そろそろ、君の過去を教えてほしいな。凪咲さんとのことを」

 そう言えば、彼女に話すのを躊躇したままだった。もう、いいだろう。僕は座り直す。

「ちょっと長くなるよ?」

「いいじゃん。どうせ暇だからさ。聞かせてよ」


 今でこそ扱いに慣れているが、幼い頃、僕はこの体質に苦しめられた。僕がこの世で親しい存在だと認識できるのは、両親だけだった。

 あまり小さな頃のことは、そもそも憶えていなくて、だから僕の記憶がどんなふうになっていたのかも解らない。ただ、物心ついた時には、僕はこんなふうになっていた。両親は生まれた時からずっと共にいたし、僕の生き物としての本能が、彼らを排除できなかったのだろう。

 冷たい子。僕は周囲の皆から、そう言われていた。大人も子供も、みんなだ。

 もとより僕が引っ込み思案だったのが、余計にいけなかった。僕はもとから口数が少なかった。人見知りをした。それでも、大人たちは『まだ子供だから』と許してくれることが多かった。時には、『愛想のねえガキだな』と心無い言葉をぶつけられたこともあるけれど。


 だから問題は、子供たちの方だった。

 小学校へ上がると、みんなに自由意志が芽生え始める。親をはじめとする大人達の支配を離れ、少しずつ一人で歩く訓練を始める。僕だって、まだ無垢な子供だった。僕はみんなと同じように、一人で歩く練習をしてみた。友達も作ろうとした。

 結果から言って、僕の試みは最低な形で終わる。僕は、とことん周りと上手くやれなかった。天性の道化の才があればよかった。しかし、僕にはちっともそれらしいものがなかったのだ。

 初めて、周囲との食い違いを感じたのは、三人くらいで遊んだ時。もう、誰と遊んだのかなんてことは憶えていないが、嫌なことばかり憶えているものだ。僕らは虫取りをして遊んだ。夢中になって原っぱを駆け回り、網を振るった。そこまではよかった。

 そのうち、たしか男の子だったらしいのだが、自分の網を壊してしまった。それでも、まだ使いたいからと言って、僕に網を貸すように頼んだ。僕はしぶしぶ貸した、らしい。思えば、既に違和感を感じていたのだろう。

 そのあと、帰る時間になって、その子は言った。

「明日、お父さんと虫取りに行くんだ。ちょっと貸しててよ」

 その子は明後日には返すと言った。僕はお腹の辺りが気持ち悪くなった。理由は、きっと解らなかったことだろう。まだ幼い子供は、自分の記憶に異常があるということにさえ、気づいていなかった。こうして、自分の感覚が許さないようなことされて初めて、僕はその子との間に温度差を感じた。

 物を取られるというのは、原始的で単純な事だが、もっとも判りやすい『損害』だ。子供の本能に訴えかけるには、ちょうどよかったのだろう。

 僕は首を横に振った。はっきりと「いやだ」と言った。その子は少し怒って、「なんだよ、ケチだな」と言って、それでも網を返してくれた。その直後、他の子に頼んで、今度はすんなりと貸してもらっていた。

 僕には理解できなかった。どうして僕が、そこまでしてやらないといけないのか、理解できなかったのである。また他の子が、どうしてそこまでしてやれるのかも、理解できなかった。それでも、当時の僕はその関係を『友達』と呼んでいたらしい。あまりにも無知だった。自らの感情の機微にさえ鈍いということは、この体質の存在をぼやけさせた。


 僕がもっと論理的に僕自身に気づいたのは、小学二年生の時。道徳の時間だった。その時には、僕はすでに孤立し始めていた。周りの皆が、いとも簡単に特定の友達を作っているのに、僕はどこにいても納得できなかった。自分の異常には気づかないまま、僕にはただ、劣等感が蓄積した。といっても、そのほとんどは朝起きる度にリセットされるのだが。

 あれも違う、これも違う。そうやって人を替え続け、気づくと僕は、誰とも仲良くできなかった。誰もが、どこかで温度差を見せつけてくるのだ。それが気持ち悪くて仕方なかった。僕にとっては、誰もが傲慢だった。

 無論、当時の僕にそんなボキャブラリーも理解力もあるはずがなく、僕は単に、自分の不器用さを呪った。みんなが言うように、僕は薄情なのかもしれない。もはや、それさえ認めつつあった。

 その授業で、僕は驚愕の事実を突きつけられる。なんと、友達には優しくするのが当たり前らしいのだ。それ自体は否定しない。けれど、困っている時には必ず助けてやるべきだとか、例えば物を失くして困っていたら、快く貸してあげるとか、そんなことが絶対正義のように語られていた。僕は鳥肌が立つのを感じて、それで、自分の異常性を覚った。なんとなく、僕は他人と違うのだと。

 授業は進み、みんな活発に発言した。友情について。善について。どれもが、僕に違和感を与えた。大きなくくりで話されることには、まだ納得できる。イジメはだめとか、自分の嫌なことは人にもしないとか。けれど、すこし踏み入った話になると、僕はぜんぜん理解できなくなった。たとえ言っていることが解っても、まったく実感が持てない。机上の空論か、それ以下の何かに感じられた。当時のセンテンスは、拙いものとして、けれど確かにそんな思考を伝えるものとして残っている。

 たぶん、運が悪かったのだ。僕は先生に指名されてしまった。一度も手を挙げなかったのがまずかったのかもしれない。若く、背が高くてハンサムな先生だった、らしい。

「奏陽くんは、友達が泣いていたら、どうする?」

 僕はしばらく言い淀んだ。先生も子供たちも、みんなが僕のほうをじっと見ていた。

「えーと、あの」

 ここでの失言は許されない。子供ながらも、そんなことは解っていた。

「…慰め、ます?」

 なぜか語尾が上がってしまって、僕はかなり焦った。先生は特に追求することなく、「そうだね。泣いていたら慰めてあげるよね」と優しく言った。僕は冷汗三斗、なんとか俯いて後ろめたさをやり過ごした。本当は、ちっとも解らなかったのだ。涙を見せてくれる友達も居なかったし、たとえ誰かが泣いていても、僕は声を掛けられるだろうか。

 思えばこの頃には既に、僕の人に対する自信というのは消え失せていたのかもしれない。


 不幸とは続いて起こるものである。その道徳の授業から、数日が経った頃だった。僕はいつも通り、教室で独りぼっちだった。ほとんど諦めていた。

 それでも、学校の取り組みというものには参加しなくてはならない。僕らは授業の一環で、ちょっとした調べ物をしていた。協調性を身につけるためなのだろう。それは、グループワークというかたちで行われた。

 僕にとっては、危険な綱渡りに違いなかった。

 ここでは、人の気持ちやら温度差やら、そんなことを気にする必要はない。だから、そういう意味では気楽だった。しかし、ここで僕は、この体質の恐ろしさを初めて垣間見る。

 僕の脳には映像がほとんどない。だから、人の顔を覚えるためには、その人だけがもつ特徴を、名前に紐付けて覚えておかなければならない。『凛香は美少女だ。凛香は瞳が大きく、澄んでいる。凛香は女の子にしては背が高い…』こんな調子で。もちろん、センテンスの数が多ければ多いほど、僕は人を識別しやすくなる。


 だが、当時の僕はそんなことも知らなかった。これまでは、文脈で人を識別していた。『こう言ったのはAさん、これをしたのはBさん』こういった具合に。それで問題なかったし、子供というのは大抵おしゃべりなものだから、こちらが黙っていても、識別するのに十分な情報を与えてくれたのだ。

 ところが、それが通用しない事態が起きた。

「奏陽、これ、汰一に渡してきて」

 そう言われ、紙の束を渡された。グループワークで使う資料だった。僕は従おうとした。しかし、ふと気づく。

 僕はどうやってその子を見分ければいいんだ?

 こんなことになるまで気づかないのだから、僕は相当頭が悪いのだろう。自分でも、いま考えてみると呆れる。そのくらいは予測しろと言いたくなる。しかし、実際に僕は馬鹿だったのだ。

 困ってしまった。汰一というのは、僕の班員だったはずなのだが、ちっとも思い出せない。何を言っていた子なのか、大まかにどんな特徴がある子なのかは思い出せる。けれども、それはクラスの中でたった一人を特定するには、あまりに不十分な情報量だった。

 仕方なく、僕は情報を頼りに、汰一を探してみる。男の子。背が高い。声がすこし低い。いくらか絞り込めたが、これだけでは到底不可能だった。とは言え、頼んできた彼に、「汰一って誰?」なんて訊くのは、なんだかまずい気がした。先生にも言いづらい。だから、僕は当てずっぽうで、一人の男の子に話しかけた。

「汰一くん」

「は?汰一はあっちだろ」

 男の子は、教室の反対側にいた、たしかに背の高い男の子を指さした。彼はじろりと僕を睨み、つめたく言い放つ。

「なんかお前ってさ、へんだよな。誰とも仲良くしねーくせに、妙に近づいてきてさ。正直、うざいんだけど」

 僕は黙って頭を下げ、彼に謝った。しかし、もう手遅れだった。


 つくづく運がない。僕が間違えて話しかけた子は、クラスで中心的な存在だったのだ。子供の頃からそんな位置を獲得しているということは、考えるまでもなく彼の気が強いことを示している。実際、彼は気が強かった。そして、典型的ないじめっ子の気質があった。他人を排除することに、いっさいの罪悪を感じないタイプの人間である。

 ここまでくると、もはや自分でも笑えてくる。独りぼっちだったことも手伝って、僕はすんなりと、非常にスムーズに、いじめられっ子の椅子に座った。

 初めのうちは大したことなく、僕も気にしていなかった。しかし学年が上がるにつれて、僕へのイジメはエスカレートしていった。物を壊されたり、理不尽に殴られたり。僕を嫌う彼なんかは、すれ違う度に暴言を吐いてきた。

 僕は悪化することを恐れて、先生には言わなかった。ただ、親には助けを求めた。唯一の救いは、そこにしかないと思っていた。


 未だに解らない。僕の両親は、僕のことが嫌いなのだろうか。ただ、きっと愛してはいなかった。

 小学五年生の頃だ。放課後、あちこちを殴られ、蹴られ、僕は腕や脚の目立たないところに痣をつくって帰ってきた。子供の悪意は強烈だ。躊躇がない。そして、彼らはそういう時に限って狡猾に、大人と同じくらい適切に、相手を痛めつける。

 久しぶりに、僕は泣いていた。もう、いじめられるのには慣れていて、しかも僕にとっては、昨日の自分は他人だから。こんな時でも自分に実感が持てないことが哀しかった。刻み込まれた痛みや悲しみだけが、無意識下に僕を苦しめた。

 限界だった。毎日こんな目にあって、さらに僕は、それを深刻に悲しむこともできない。どれだけ泣いても、翌日には全てが白紙に還る。そして僕は、凄惨なセンテンスを読んで、ため息を吐くのだ。その繰り返し。

 僕は両親に痣を見せ、イジメについて打ち明けた。両親は、ひとまず怪我の手当をしてくれた。そして、ゆっくりと、しかしはっきりと言った。

「我慢なさい。今どき、そういうことで揉めるとめんどくさいんだから。へんな気は起こさないでよ?」

 ぱきんっ。そんな音をたてて、僕の中の何かが粉々に砕け散った。

 それからというもの、僕はすっかり心を閉ざした。人の顔を見るのも苦痛だった。

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