変化
それからというもの、僕は毎日のように凛香と会った。春休みも終わり、僕らは三年生に進級した。四月の中旬、あちこちで桜が咲いている。
はっきりした実感がもてるわけではないけれど、僕は少しだけ、凛香を親しい存在に感じることに成功した。それは単純に、センテンスの量が為せる業だ。
僕がどれだけその人を近く想えるかということは、まず第一にセンテンスの量に支配される。その人について細かく知っているほど、その人を他人だと思えなくなる。当たり前のことだが、僕には重要なことなのだ。
こうして幾度となく会っても、やっぱり僕は、凛香に会う前には緊張している。けれど、嬉しい発見もあった。僕は、凛香に会いたいと思うようになった。これは初めての経験だった。つめたい記憶だけを頼りに、僕は彼女を求めていた。正直、わけが解らない。客観的なセンテンスだけで人に会いたいなんて、普通は思わないだろう。ところが、僕は朝起きて、凛香のことを思い出して、日記を読み返すと、もう凛香が恋しくなっている。顔だって、写真のように憶えているわけじゃないのに。
そこで、気づいた。よく解らないが、どうやら僕には、本能と言うやつがあるらしい。理屈の通らない領域だ。僕にはセンテンスだけが残されているものだと思っていたが、そうでもないようだ。もっとも、それを僕が認識できないのだから、あまり意味は無いけれど。でも、こうして、無意識下で僕の感情や欲求をコントロールしてくれるだけでも充分だ。僕はようやく、自分というものを見たような気がした。
すべて凛香のお陰だった。彼女が僕に向き合ってくれなければ、今も僕は、塞ぎ込んで全てを諦めていただろう。
ベッドから抜け出して一時間ほど、課題を片付けていると、着信があった。凛香からだった。
「おはよー」
毎日聞いている、らしい声だが、それはやはり僕の胸を揺らす。この際、理屈なんてどうでもいいと思った。僕はようやく、人間らしい感性を自分の中に見つけ出したのだから。
「おはよう。今日のこと?」
「そうそう。わたし、病院行かなきゃって言ったよね。あれが、なんか長引きそうでさ。悪いけど、先に三人で話してて。すぐ行くから」
「そっか、わかった。…無理しないでね」
「君もだいぶ素直になってきたなあ。ありがとう」
僕は「じゃあ、また」と言って電話を切った。
今だって、凛香は僕にとって他人なのかもしれない。何を思っても、その実感は朝起きる度にリセットされる。けれど、無数のセンテンスが、僕の本能が、彼女を他人だと思わせないのだ。へんな気分である。
今日は、陽向と会う。そしてもう一人というのは、凛香の友達だ。洋子。大人しそうな子だと記憶している。陽向に話しかけていた。
身支度を整えると、僕は家を出た。今日も良い天気だった。ゆったりと住宅街の道路を歩いていく。土曜の昼間、さすがに人が多い。
待ち合わせはあのファミレスで、ということになっていた。この辺りではもっとも気軽に利用できる店かもしれない。
肩にかけた鞄の中身を確認する。縞模様のついた、小さな紙袋が入っている。もうだいぶ前になってしまったが、陽向への土産として買ってきたものだ。結局、渡しそびれていた。今日こそ渡さなくては。
やがて、目的の店が見えてきた。店の前に男が一人、立っている。遠くからでも判る、多分あれは陽向だ。長身で文庫本を開いている、という根拠しかないが。
近づいてみると、果たしてそれは陽向だった。彼は僕を見つけると、文庫本を閉じて笑った。そういえば、陽向の私服姿も初めて見る。白のシンプルなシャツに薄い上着を羽織り、下はジーンズ。まったく飾り気がない。しかし、驚くほど似合っている。なんとなく、陽向のイメージにぴったりだった。
「や、少年。私服もいいじゃないか」
陽向は僕の全身をさっと眺めると、上機嫌に言った。僕は適当に受け流して、辺りを見回した。
「花村さんは、まだ来てないみたいだね」
花村洋子。それが、彼女のフルネームらしい。陽向は頷く。
「ああ。まだ五分前だからね」
僕はなんとなく陽向の文庫本に目をやって、不意に思い出す。また忘れるところだった。鞄から紙袋を取り出した。
「陽向、これを貰ってほしい」
人に贈り物なんてした記憶がないので、なんと言って渡せばいいのかわからなかった。陽向は紙袋を丁寧に開けると、中身を取り出す。
栞だ。菜の花の押し花を使った、けっこう洒落たものである。陽向にピッタリだと思って買ってきた。
「あ、ああ…」
陽向は栞を陽にかざして眺め、声にならない声を漏らした。
「これを、僕にくれるのかい?」
「うん。春休みに、桜城さんと出かけたんだ。そのときの土産」
陽向は栞を紙袋に戻し、丁寧にポケットに仕舞った。そして突然、僕を抱きしめる。
「ああ、君がこんなことをしてくれる日が来るなんて!ほんとに嬉しいよ」
「ちょ、陽向、人多いから…」
僕は何とか抜け出そうと身をよじったが、陽向の腕力は想像を超えていた。ちょっと苦しいくらいだ。そういえば、陽向はスポーツ万能なのだ。部活にこそ入らないが、そのポテンシャルは素晴らしいものだろう。
僕は観念して、しばらく陽向の胸板にくっついていた。甘い、いい匂いがした。なんだか、ちょっと腹が立った。
ややあって、陽向は僕を解放すると、もういちど、流暢な英語で礼を述べた。半分も聞き取れなかった。「どういたしまして」と返した。
「さて、ここにいると目立ってしまうし、先に入ろうか」
「もう手遅れだと思うけどね…」
陽向が動き出したその刹那、彼の背後に人影が見えた。こちらへ走って来ているらしかった。
「陽向、あれ」
「ん?ああ、来たようだね」
僕らは立ち止まって、彼女がやってくるのを待った。
「お、お、お待た、せ」
彼女は肩で息をしながら言う。陽向が心配そうに彼女を見下ろした。
「大丈夫かい?」
「あ、うん、大丈夫…」
洋子も落ち着いてきたので、僕らはそろって店内に入った。窓際のテーブルへ案内され、僕と陽向が窓のほうに座った。洋子は陽向の隣に座る。
「え、えっと、や、八代くん、だよね。よ、よろしく…って、クラスメイトなのに、それも可笑しいかな」
「そうだね。でも、これからよろしく、花村さん」
洋子はぺこりと頭を下げる。小柄だから、余計に動作が大袈裟にみえ、かわいらしい。
「あ、そうだ。桜城さんは、遅れてくるらしい。すぐ来るって言ってたけど」
「ふむ、そうか。なら、先に料理を注文してしまおうか」
僕らはみんなでシェアできるような料理を頼んだ。店員が去っていくと、陽向が切り出す。
「今日は、ゴールデンウィークの計画について、だったね?」
「うん。せっかくだから四人で遊ぼうって、桜城さんが」
正直、すこし気が引けた。僕は人との距離感がつかみづらい。人数が増えるほど、その感覚は複雑になると思われる。三人と仲良くなれたとしても、そのなかで上手くやっていけるだろうか。まるで自信がなかった。
けれど、凛香が僕のことを想って言ってくれたのは解る。少しでも、人に慣れさせようとしてくれているのだろう。凛香にばかり頼っているわけにもいかないし、僕も、できる範囲で努力しなければならない。
「じゃあ、どっか行きたいところとかある?」
僕は冷水を含んでから訊ねた。すると、洋子がおずおずと挙手する。
「あ、え、えっと。映画なんて、どうでしょう」
なるほど、映画か。それなら退屈しないし、観るものさえ決めてしまえば良いわけだし、無難なのかもしれない。
「陽向は、なんかない?」
陽向は左腕で頬杖をついて、ぼんやりとテーブルを眺めていた。
「陽向?」
「あ、ああ、すまない。僕は、っと」
陽向が動揺しているとは珍しい。僕の記憶には無いことだ。いつも飄々としているのに。
「そうだな、映画はいいと思う。でもそれだけじゃ物足りないだろう?」
「んー、それもそうか。なんかついでにできることがあれば…」
三人とも黙ってしまう。なにか言わないとまずいだろう。凛香とのかかわりによって、僕はすこし自然に、人に近づけるようになった。
「じゃあ、さ。ついでにご飯も食べて行こう」
「あ、そ、そうだね」
とりあえず提案してみたが、いまいち盛り上がらない。僕はこんな調子だし、陽向は柔軟だが、人と積極的に関わる
頼むから早く来てくれ。そう思い始めた時、入口のドアが開いたのが見えた。入ってきたのは、やはり凛香だった。彼女はすぐに僕らを見つけ、ゆっくりと歩いてきた。
「やっほー、みんな。どう、話は進んでる?」
僕は凛香の顔を見上げた。なんとなく状況を察してくれることを願って。凛香は苦笑とともに頷いた。あれ、伝わったのか?
「とりあえず今のところの話を聞かせて」
凛香は僕の隣に座りながら言った。
「えーと、ご飯食べに行くっていうのと、映画観るっていうのが出てる」
「なるほどー、いいんじゃない?でもそれじゃ物足りないなあ」
それはそうだ。だから困っている。
僕はこれまで、こういう苦労を避けてきた。いや、したくてもできなかったのだ。だから、今は非常に困っている。無難で、みんなが満足するような事を考えるのは、想像以上に難しい。
「よし!じゃあお泊まりしよう」
「泊まるって、どこに?」
凛香は自信満々に言うが、僕にはさっぱり想像できない。
「わたしの家でもいいよー。あ、でもごめん、四人はさすがにきついかも。部屋狭いから」
凛香がそう言うと、黙っていた陽向が口をひらく。
「ならば、僕の家はどうかな?部屋なら余っているし、連休中は両親も居ないはずだ」
驚いた。陽向がこういうことに乗ってくるとは思わなかったのだ。凛香が目を輝かせる。
「えー、いいの?」
「ああ。みんながよければ」
「よーし、なら、陽向くんの家にお邪魔しよう!」
急な展開に、いまいち実感が湧かない。友達とは、こんなものなんだろうか。胸がくすぐったいような感じがする。凛香と遊んでいる時もそうだった。不思議な感覚だ。怖いけれど、まだ触っていたい。
「二人も、それでいい?」
凛香は僕と洋子の顔を交互に見ながら訊ねる。僕らは顔を見合わせて、頷いた。
「よし、決まり!じゃあ、お昼すぎに集まって…」
凛香はすらすらと段取りを決めてしまう。誰が口出しせずとも、話はスムーズに進んだ。僕らは四十分ほど、料理をつまみながら話した。
初めは乗り気になれなかったのだが、計画を聞いているうちに、僕も楽しくなってきた。こんなことは初めてだ。
誰かと繋がっているということは、怖いけれど楽しい。
その後、僕らは店を出た。二人は用事があるとか言って、帰ってしまった。残された僕らは二人の行方について、無責任な妄想を膨らませていた。
「たぶん、二人でデートしてるんじゃない?」
凛香はにやけて言う。陽向がそんなことをしているところなんて想像できなかったが、僕は凛香に合わせて悪ふざけを言ってみる。
「意外と、陽向も男なのかもね」
「…ごめん、言っといて何だけど、考えられない」
「ええー」
僕らは笑って話した。ああ、生きている。僕はもう、空っぽではない。凛香と居ると、そう思えた。やはり、まだ怖いところもあるし、人との距離には神経質になっている。それでも、僕はもう、人を避けたいとは思わなかった。センテンスと日記を読めば、僕はある程度自分に実感をもてる。凛香は僕の根っこにあるものを、すこしだけ変えてくれたのだろう。
「さて、今日はどうしようか」
「んー、わたしの家、来る?」
凛香の家を訪ねたことはない。興味はあった。
「君がいいなら」
「じゃ、行こう」
そうして、僕たちは凛香の家へ向かった。陽射しはすっかり春めいて、長時間歩いていると汗ばんでしまう。
凛香の家は、学校からほど近いところにあった。大きさや外観には特徴がなく、ごく普通の住宅だった。
「ここが、ウチだよ。…ああ、まただ」
凛香は入口に備えられたポストに手を入れて、何かを取り出した。それはA 4サイズの茶封筒だった。凛香はそれを詳しく確認して、ため息を吐く。
「どうしたの?」
「最近ね、嫌がらせされるようになって。ほら、これ」
封筒には大きく、サインペンで『凛香ちゃんへ』と書かれてある。
「中身は、まあ、わたしも言いたくないかなあ。そういうやつ」
何かの物語で聞いたことがある。中身はなんとなく想像できた。ストーカーというやつだろう。噂は本当だったらしい。
「ストーカーでしょ?大丈夫なの?」
「うーん。一度は警察にも相談したんだけど。しばらくなくなって、また始まった。犯人はけっこう器用なヤツみたいで、結局見つかってないんだ」
ポストに何かを入れられる程度のことなら、こちらが目を瞑ればいい。しかし、凛香の身に何かあったら一大事だ。
「
「たまに、視線を感じたりすることはあるかな。だから、人通りの少ないところは避けてる」
なんだか心配だ。それが、顔に出てしまっていたらしい。凛香はくすくすと笑う。
「なあに、心配してくれてるの?君は、ほんとに変わったね」
「…ああ、そうだね。ほんとに心配だよ」
人を想う、なんてことを、そもそもしたことが無い。凪咲の体調を案じたりしたことはあったけれど、こんなふうに恋しくなったり、どこにも行かないでほしいと思うことはなかった。無論、凪咲以外の人間を心配したこともなかった。
凛香はいたずらっぽく笑って、僕の顔を覗き込む。
「ねえ、そろそろ、名前で呼んでくれないかな?」
心臓が大きく動くのを感じる。僕は唾を飲み込み、頭の後ろへ手を遣った。しばらく悩んだ挙句、躊躇いながらも口をひらく。
「…凛香さん」
「がんばって、さんも外せないかな?あ、ごめん、無理はしないでね」
凛香はこんなにも歩み寄ってくれた。僕の生活を、一変させてくれた。大丈夫。僕は自分自身に言い聞かせる。彼女は、僕の友達だ。センテンスは全て、真実だ。大丈夫。彼女は、僕を否定しない。信じろ。
「…凛香」
「はい。…やったー!ついに壁を乗り越えたあ」
凛香は心底嬉しそうに拳を突き上げる。僕は今更照れくさくなって、目を逸らした。
「じゃあ、これからはわたしも、奏陽って呼ぶね」
「…うん」
僕らはやっと、玄関へ向かった。
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