死を背負う二人

 僕らが初めて外出を共にしてから、一週間が過ぎた。毎日のように凛香と会った。三月も終わりにさしかかり、春の息吹はそこらじゅうに感じられるようになった。どこかで桜が咲いたと聞いた。道端の草花も、自分の存在を主張するように、それぞれの花を咲かせていた。

「たぶん一時間くらいで終わると思うけど、もし遅かったら、勝手に帰っていいよ。待っててくれるなら、待合室でね」

 僕らは病院の二階で別れた。これから検査を受けるのだという。凛香は本当に元気で、油断すると忘れてしまいそうになるけれど、余命二年の少女なのだ。通院は不可欠なのだろう。


「検査だけで、たぶんそんなに時間かからないからさ。よかったら一緒に行こう」

 僕は凛香の提案に乗って、一緒に病院へ来た。一緒に居られたのは僕の家の前からここまでの、十五分ほどの間だけだ。それでも、凛香は僕を誘った。こういう、小さなことが人生を彩る。やっぱり、妙な説得力がある。


 僕は三階へ上がった。目的は決まり切っている。いつもの病室のドアを開いた。

 凪咲は、ベッドの上で半身を起こし、窓の外を眺めていた。ドアの音に気づくと、彼女は僕のほうを向いて微笑んだ。手には文庫本があった。以前、僕が渡したものより薄い。

「いらっしゃい」

 僕は凪咲に歩み寄って、パイプ椅子に座る。そして鞄から文庫本を取り出した。見舞いの時には、本を一冊持ってくることにしている。凪咲からのリクエストがあった時には、それを買っていく。凪咲も初めは遠慮していたが、何度言っても僕が止めないので諦めたみたいだ。


「あ、最近出たやつかな?」

「そうみたい」

 僕は本なんてほとんど読まないから、よく解らない。けれど、凪咲は僕が何を買ってきても、喜んで読んでくれる。無理にそうしていると言うよりは、凪咲は本なら何でもいいのだと思う。それくらい、僕が出会った時から、彼女は本の虫だった。恐らくだが、小説なら何でも読んでくれる。


 彼女は僕が渡した本の上に、さっきの文庫本を重ねて枕元に置いた。『人間失格』と書いてあった。名前を聞いたことはある、らしいけれど、どんな話なんだろう。

 僕の視線に気づいたのか、凪咲はくすくすと笑って、照れたように言った。

「すごいタイトルだけど、面白いのよ。あ、別に、落ち込んでるわけじゃないからね」

 それならいい。凪咲が思い詰めているのならどうしようかと思った。


「身体は、大丈夫?」

 僕が顔を見ながら訊ねると、凪咲はちょっと悩んで、それから観念したように言う。

「あまり良くはない、かな」

 僕は詰め寄る。

「それって」

「落ち着いて。大丈夫だから。ただね、やっぱり快復の見込みはないらしいの。まだ、すぐに死んでしまうようなことはないけど、覚悟はしてくれって、言われちゃった」

 それは、つまり、もう助からないということだろうか。僕には医学の知識が少しもないので解らないけれど、凪咲の病気は大変難しいものだと聞いていた。これまでだって、根本的な治療が行われたわけではない。いわゆる延命治療だ。

「…突然会えなくなる可能性は?」

 今でこそ、まだこうして話せているが、これからはどうなるか判らない。不意に凪咲が倒れて、次に会った時には息をしていなかった、なんてこともありうる。

「んー、わたしも難しいことはよく解らないけどね。でも、その可能性もあるかな」

 凪咲は僕から目を逸らして言った。僕は何も言えなくなってしまう。


 判っていた。凪咲は凛香と同じで、高校生の頃から身体が弱かった。高校を卒業する頃には、もう永くはないと言われていた。

 それでも彼女は、前向きに生きていた。まともに働くこともできなかったし、せっかく頭が良いのに、大学へ行くこともできなかった。高校を卒業して二年くらい、凪咲は恋人と暮らしていた。僕が遊びに行くと、いつも本を読んでいた。いつだって優しく、僕の話を聞いてくれた。

 凪咲の恋人も善い人だった、と記憶している。背が高くて、眼鏡をかけていた。誰に対しても敬語で話した。年下の僕にさえ、丁寧な敬語を遣った。例外は凪咲だけだった。彼はとても大切に、丁寧に、彼女の名前を呼んだ。二人称に『あなた』をつかい、いつだって穏やかに話していた。僕が細かに憶えているくらいだから、彼のキャラクターは強烈で、それだけ誠実なものだったのだろう。


「今は、幸せ?」

 僕がそう訊くと、凪咲は決まって答えた。

「とっても」


 凪咲にとって、恋人との穏やかな日々は、人生最大の喜びだったのだろう。凪咲は僕が見る度に満ち足りた顔をしていた。夕方には、食事を作って恋人を待っていた。「早く帰ってこないかなあ」と呟きながら。

 死の運命を背負いながらも、凪咲は幸せそうだった。

 その生活に終わりを告げたのは、凪咲の入院だった。これまでも何度か入退院を繰り返していたが、それは治療のためだった。今度は違って、凪咲は突然、家で倒れた。幸い恋人が一緒にいたから、すぐに病院へ運ばれ、一命は取り留めた。が、とうとう本格的に、病魔が凪咲に迫っていた。

 その一件をきっかけに凪咲は恋人と別れ、家族のもとで暮らすようになった。凪咲いわく、『一晩中語り合って、彼を説得した』のだという。これ以上は互いに良くない。そう判断したらしい。まだ髪は長かった。

 その後、一、二年ほどで凪咲は入院し、今に至る。僕が初めて見舞いに行った時、彼女の髪は短くなっていた。

「どう?ショートカットも意外と似合うでしょ?」

 凪咲はおどけてそんなことを言った。僕は笑った、と書いてあるけれど、本当だろうか。


 僕は俯いて、これまでの事を思い出していた。凪咲との別れを想像すると、とても耐えられそうになかった。

 頭にふわりと手のひらが降ってきて、僕は顔をあげる。昔から、凪咲は僕を慰める時、頭を撫でてくれた。優しい目をした凪咲は、僕の目をじっと見つめて、ゆっくりと口の端を持ち上げる。

「そんなに落ち込まないで。判ってたことでしょう?」

 僕は怒りたいような、泣き出したいような、自分でもわけの解らない感情の渦にのまれて、結局、無理に笑ってみせる。

「よしよし、いい子いい子」

 凪咲の撫でる手が優しくて、僕は余計に泣きそうなった。彼女は手を戻すと、そのまま太腿の上で両手を重ね、ぽつりと呟く。

「私は平気だけど、奏陽を遺していくのが、辛いなあ」

 凪咲が俯く。ドアの前を誰かが通ったのが判った。

「奏陽は、弟みたいなものだから」

 僕はなんだかいたたまれなくなって、目を逸らした。たしかに、僕は凪咲に心配をかけてばかりだった。中学生になって、静かな日々を手に入れてからも、いつもぼんやり生きている僕を見て、彼女は心配してくれた。

「いつも心配かけて、ごめん。でも、僕はもう、大丈夫」

 僕は凪咲のほうを向いた。自信なんてないけれど。今は嘘だっていいから、彼女に伝えなければならないと思った。凪咲は首を傾げて、僕をじっと見つめた。

「大丈夫って?」

「最近ね、あの、その、友達、が、できたんだ。まだ、よく解らないけれど、でも、僕はもう少し前向きに生きてみようと思う。せっかく、凪咲に救われたんだから」

 凪咲はきょとんとしていたが、すぐに笑ってくれた。いままでに見たどの笑顔よりも嬉しそう、だと信じたい。それは僕の思い上がりか。けれど、凪咲はとても喜んでいる。それは本当だ。

「よかった。やっと、奏陽も拠り所を見つけたのね」

 拠り所。やはり凪咲の表現は的確だ。僕はそんなものを手に入れようとしているのだろう。確かなもの。僕の記憶が不完全でも、揺るがないもの。毎朝の虚無を振り切って、前を向けるような希望。

「…そうなんだ。ゆっくり、ゆっくりだけどね。僕は、まだ生きてみるよ。だから、凪咲は自分のことだけ心配してて」

 凪咲は何度も頷く。

「わかった。…ふふ、これで私も、安心して逝けるなあ」

「ちょっと、凪咲!」

「ごめんごめん。卒業までは死なない約束だったね」

 言いながら、凪咲はベッドに潜り込む。疲れたのだろうか。

「大丈夫?」

「ちょっと眠いけど、大丈夫。それより、その友達って、男の子?女の子?」

「両方いるよ。二人いるんだ」

 陽向には僕の決意を伝えていない、というか記憶のことだって言っていないけれど、彼なら友達だと言ってくれるだろう。

「え、うそ?女の子もいるの?」

 凪咲は思ってもいなかったところに食いついた。なんとなく言いたいことは解るけれど。

「と言っても、まだひと月くらいの付き合いなんだ。友達と言ってもぎこちないよ。男の子のほうは、前にも言ったあの子だけど」

 凪咲はちょっと考えてから笑い、「ああ、あの子か」と呟く。

「へえー、そっかそっか。ちょっと会ってみたいなあ。今度連れてきてよ」

 僕は少し考える。どうせなら、凛香にも凪咲のことを知ってもらうといいかもしれない。そう思いついて、僕は答える。

「女の子のほうは、ここに来てるよ。その子も身体が弱くて、余命二年なんだって」

 凪咲の顔がこわばるのが判った。

「余命二年」

「うん。移植ができなければ、まずいらしい」

「…ねえ、よかったらこの後、その子を見せて。ちょっと話してみたいの」

「わかった」

 凪咲の望むことなら、なんだってやる。凪咲はもう、助からないのかもしれないけれど、一回でも多く笑ってほしいから。

「すこし眠るね。あ、もし寝てたら、遠慮なく起こしていいからね」

 それは少し気が引けるが、本人が言うなら、と思い直す。僕は頷くと、病室を出た。


 待合室で一時間ほど待っていた。待つことは嫌いじゃない。もとより空っぽだったから、退屈な時は大抵、ぼうっと過ごしている。慣れっこだった。いっときは凪咲を真似て本も読んでみたけれど、一日で失われる読後感に嫌気がさして止めた。本の中身を全部覚えられるわけがないし、一日で読み切れなければ、もう一度読み直さなければならない。

「あ、奏陽くん。待っててくれたんだ」

 背後からぱたぱたとスリッパの音が迫ってきた。僕は立ち上がり、凛香のほうを向く。

「ごめんね。思ったよりも時間かかって」

「ああ、大丈夫。それより、お願いがあるんだけど」

 凛香はたちまち相好を崩して、首を傾げた。

「なになに?君がお願いなんて」

 言われてみれば、人にものを頼むことはあまりなかった。陽向には何かと頼むことがあったけれど、それ以外の人に頼み事なんて、覚えがない。

「えっとね。僕の恩人に会ってほしいんだ。君のこと話したら興味もったみたいで」

「なるほど。よし、行こう」

 僕らは凪咲の病室へ向かった。

「どんな人なの?」

「僕らの五つ上で、綺麗な女の人だよ。やさしい」

「へえ、君がそんなに褒めるなんて。入院してるんだよね?病気?」

「うん。もう永くないらしい」

「…そっか」

 僕は病室のドアを開いた。凪咲は半身を起こし、天井を見上げていた。首だけでこちら見ると、にっこりと笑う。凛香も僕に続いて入ってくると、隣に並んだ。

「凪咲。連れてきたよ」

「ああ、ごめんね二人とも。…初めまして、木庭こにわ凪咲といいます」

 凪咲は丁寧にお辞儀をした。凛香もつられたように頭を下げ、名乗る。

「初めまして。奏陽くんの友達の、桜城凛香です」

「凛香ちゃん。へえー、すごい、びっくりするくらい可愛いね。私が男だったら絶対惚れてる」

 凪咲は気さくな口調で言う。凛香はあわてて首を振った。

「いやあ、ほんとに可愛いわあ。妹に欲しい」

「そんな。凪咲さんだって、綺麗じゃないですか」

「ふふ、ありがとう。で、ちょっと踏み込んだ話なんだけど、凛香ちゃん、身体が弱いんだって?」

「あ、はい。一応、余命二年ってことになってます」

 凛香はあっけらかんと言う。やはり、これは誰に対しても変わらない。凪咲は頷いて、顎の下を触った。何かを考えている時の仕草だ。

「…初対面で、こんなこと訊くのは失礼だけど、怖くない?」

「えーと、そうですね。全然怖くないかと言われると、やっぱりちょっと怖いんだと思います。でも、もう覚悟はできてますから」

「…そう。なら良いの。奏陽と仲良くしてやってね」

 凪咲は僕と凛香を交互に見て、目を細めた。眩しいものでも見ているみたいだった。


 僕らは病院を出ると、一緒に帰った。もう陽が傾き始めていた。

「ねえ、奏陽くんと凪咲さんって、どういう関係なの?」

 隣を歩く凛香が訊ねる。僕は遠くを眺めながら答えた。

「お隣さんだったんだ。血の繋がりとか、そういうのはない」

「でも、恩人なんでしょう?」

「うん。昔、とっても世話になったんだ」

「それは、まだ駄目?」

 凛香の気遣いに感謝する。彼女は僕の記憶の秘密を知ってから、こうして慎重に距離を詰めてくれる。

「…駄目ってわけじゃ、ないけど。今はやめとくよ」

「わかった」

 凛香は話題を一変させる。

 凪咲。僕もやっと、確かなものを手に入れられるかもしれない。

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