生きてみる
「はろー、奏陽くん。今日もいい天気だねえ」
ゆっくりと歩いてきた凛香は、陽気にそんなことを言った。彼女の私服姿を見るのはこれが初めてだ。膝丈の白いワンピースに、長袖のデニムシャツを羽織っている。胸元に淡い色のリボンが揺れている他には、装飾らしい装飾がない服装だが、やはり彼女には似合う。大抵のものはなんでも着こなしてしまうのだろう。
「ああ、そうだね」
僕は空を見上げて答える。いま、ちょうど太陽に薄い雲がかかってしまっているが、空は淡い青色で、とても良い天気だ。暖かいし、絶好の外出日和だと言える。
「さ、行こうか」
凛香が先に歩き出す。僕も歩調を合わせて歩く。こうして誰かと外出するなんていつぶりだろう。陽向とは学校以外でほとんど会わないし、僕には友達もいないから、中学生の頃に凪咲と出かけたのが最後だっただろうか。ましてや、こんな美少女と並んで歩くことなんて、一度たりともなかったように思う。凪咲は綺麗だが、そんなふうに見たことがなかった。
僕らは学校の前で待ち合わせた。誰かに見られて妙な噂をたてられることを恐れて、僕は反対したのだが、凛香が譲ってくれなかった。駅まで一緒に歩きたいのだという。学校から駅までは十分ほどで着くのに、何故こだわるのか。実際に訊いてみたら、無言で睨まれた。よく解らないが、そういうことが大切らしい。
細かなこと、忘れてしまいそうなこと。そういうことを一つずつ積み上げていくことで、人生は彩られていく。凛香はどこか遠くを見てそんなことを言った。僕はそれ以上、何も言い返せなかった。
そんなわけで、僕らはこれから駅へ行って、電車に乗って、花畑へ向かう。僕も最初は耳を疑った。僕はこんなふうだが、凛香は立派な高校生なのだ。もう少し、若者らしいところへ行くものだと思っていた。
どうやら、凛香は花が好きらしい。詳しくはないが、とにかく、花が咲いているのを眺めるのが好きなんだそうだ。やっぱりちょっと変わっているのかもしれない。
もっとも、僕には行きたいところもなかったし、友達とどんな所に行くものなのか、そりゃ常識で知ってはいるけれど、実際は判らなかった。だから、全て凛香に任せることにしたのだ。それを告げると、凛香は張り切って計画を立て始めた。
僕らは電車に乗り込むと、隣合わせで座った。土曜日だからだろうか、電車は思ったよりも空いていた。景色がゆっくりと加速を始める。二人の影が床に伸びている。背中を照らす陽光が暖かい。
「奏陽くん」
「なにかな?」
「写真撮っていい?」
「え、ここで?」
一体何を撮るというのだろう。そう思っているうちに、凛香はスマートフォンを掲げ、僕に肩を寄せてくる。電車と一緒に心臓が揺れる。彼女の髪が甘く香った。
「はい、ちーず」
かちり。とても人工的な音がした。僕らは数インチの画面に切り取られる。戸惑いつつもカメラを覗く僕と、肩をくっつけて楽しそうにピースサインをみせる凛香。二人はどこかぎこちなく、けれどなんだか楽しげに並んでいる、ようにみえる。
凛香は写真を眺めて頷き、スマートフォンを鞄に仕舞った。僕はようやく落ち着いてきた心拍を感じながら、右手を頭の後ろへ遣った。なんだかくすぐったい。こんなものだろうか。
「記念にね、いろいろ残しておきたいんだ」
残しておきたい。その言葉が引っ掛かった。まるでそうは見えないが、彼女は余命宣告を受けているのだ。意外なことに、難しい病気でも穏やかな日々は送れるものらしい。もちろん、見えないところで様々な治療を受けているに違いないのだが、僕の目には健康体にみえる。医学の進歩も大したものだと思った。
僕は返答に困って、曖昧に頷いた。残しておきたい。それは、先の保証がないから出てくる言葉なのか、たんに思い出を大切にしたいだけなのか。怖くてとても訊けない。
「これから沢山、思い出を作らなきゃだしね」
凛香は上機嫌に言う。そう、僕が凛香の手を取ったあと、彼女が提案したのである。
『実感がもてないっていうのは、もうどうしようもないからさ。たくさん思い出を作って、少しでも、君がわたしや陽向くんのことを友達だと思えるようにしよう』
そう言ってくれた。素直に嬉しかった。この体質を否定しないばかりか、まっすぐ向き合って、救おうとしてくれているのだ。凪咲以外に、こんな人は居なかった。
けれど、凛香の身体のことを思い出す度に、僕は思うのだ。彼女は、こんなことに時間を使っていていいのだろうか。たとえ、彼女が僕のことを気に入ってくれているとしても、僕はなんだか悪いことをしているような気がする。
電車は淡々と走り続けた。僕らはあまり話さなかった。凛香にはよく解らない気安さがある。受け止めてくれるような気がしてくるのだ。僕でさえそんなことを思うのだから、これは彼女の天性の才能なのかもしれない。人を緊張させないのだ。
そのうち、凛香は眠ってしまって、僕にもたれかかってきた。また心臓が揺れたのを感じて、でもなんだか隣を見るのも気が引けて、前ばかりを見ていた。
僕は、昨日から一つの習慣をはじめた。日記をつけて、翌朝読み返す。これは、昔にもやってみたことである。凪咲に言われて、僕は毎日、日記を書いてみた。
しかし、あまり効果はなかった。自分自身が書いた、自分の正直な感情が表れているから、頭の中のセンテンスよりは感情移入しやすかった。けれど、それは所詮、『他人』が書いたものに他ならない。日記を書いたという記憶さえも、僕の中ではセンテンス化されてしまうのだから。
けれど、これから僕は、凛香と友達になるのだ。それなりの努力は必要だろう。じっとしては居られなかった。凛香と居るとき、僕は多少生きている気がするのだ。擦り切れて、もう何もかも諦めてしまっていた。何も持っていられない。空っぽだった。だから生きていても死んでいても変わらなかった。
でも、それは結局のところ、僕が塞ぎ込んでしまった結果なのだ。そんなことを言ったら、凪咲はどうなる。僕は本来、彼女でさえも親しい者と認識できないはずだ。しかし僕は明らかに、凪咲を特別視している。陽向も然りだ。
つまり。このシステムは、僕が思っているより不完全なのではないか。ずっと目をつぶっていたから気がつかなかっただけで、時間はかかっても、何かを積み上げることは可能なのではないか。そう、思えるようになったのだった。
その難しさは、僕が一番よく知っている。しかし、今は味方がいる。陽向だって、僕が歩み寄れば喜んで受け止めてくれるだろう。それで、僕もすこし、歩いてみようと思った。今後、こんなに善良な人々は現れないだろう。それに僕はまだ、自殺できない。そこまで絶望できていない。凪咲に心配させ続けるわけにもいかない。僕は、そう、最後の抵抗をしようとしていた。
もうすぐ目的の駅に着く。電車が減速を始めた。凛香はまだ、僕に体重を預けている。ちらりと盗み見た寝顔はひどく無防備だった。
「桜城さん。着いたよ」
僕は凛香に声をかける。「んっ」と小さく声を漏らして、凛香が跳ね起きる。
「ああ、あ、ごめん!寝てた」
凛香は頭を下げて大袈裟に謝る。僕は凛香の肩をつかんで顔をあげさせる。
「どうして謝るの?」
「え、いやだって、なんか君に失礼だったかなって」
こういう気遣いができるから、凛香はクラスでも人気なんだろう。僕は苦く笑んで応える。
「僕はそんなの気にしないよ。むしろ黙ってても許してくれることに、感謝してる」
僕は人との距離感が、ほとんど解らない。これまでは他人行儀に振る舞うことで平穏を保ってきたが、これからは考えていかなければならない。それが自然にできたならば、すべてが解決するのに。これは繊細な問題だ。
だから、凛香の態度はむしろありがたかった。いきなりあれこれと話されても、僕は距離を測りかねて、不器用に笑うばかりになるだろう。
少しずつ、少しずつだ。僕は、自分を納得させながら、凛香に近づいていかなければならない。
凛香はようやく頬を緩めて、「ありがとう」と言った。僕らは電車を降りる。
駅をでて、しばらく歩いた。この近くに、菜の花畑があるのだという。いま見頃で、多くの人で賑わっていると、ローカルニュースでも取り上げられていた。けっこう綺麗なところらしい。
「おっ、あれかな」
隣を歩く凛香が、道路を挟んで反対側を指した。十メートルほど先に、看板が出ている。
『県内屈指の絶景!菜の花畑はこちら』
木製で、まだ新しかった。桜とかならともかく、菜の花がそんなに綺麗なものだろうか。いや、花が好きな人には堪らないのかもしれない。
「もうすぐだね」
「だねー。なんかさ、お土産とか、ご飯とかも買えるらしいから、見てみよ」
「うん」
そんなことを言っているうちに、看板のもとにたどり着いた。看板の脇が広い駐車場になっていて、既にほとんど満車となっている。コンクリートでしっかりと舗装された坂道を、多くの人が行き交っている。僕らも坂道を登り始めた。どうやらこの上に花畑があるらしい。
確かにそれは、大したものだった。視界が一気にひらけたかと思うと、目の前に眩しいほどの黄色が飛び込んできた。無数の黄色い花々が揺れて、遠くの方は絵の具で塗ったようにみえる。ところどころに歩道が設けられているらしく、人々は花畑の中を歩いていた。僕は思わず声を漏らす。
「これは、たしかに」
「うん。すごいね」
凛香は早速スマートフォンを取り出すと、近くの花を撮り始める。僕はその背中を眺めながら、訊いてみる。
「花、好きなの?」
彼女はくるりと振り返って、にっこりと笑った。背後に壮大な花畑が広がっているからだろうか。僕は心臓が潰れそうなくらい胸を締められた。
「うん。花を見るのも写真を撮るのも、趣味じゃないんだけど。それ自体が好きなの」
独特な表現だと思った。趣味とは違うらしい。けれどその純粋さに感心する。好きだから、そうする。実に正しい。
僕には解らない感覚だけど、いつかはそうなれるだろうか。いつかは、正しい人間に。
湿っぽい思考を振り払うように首を振ると、僕は凛香に笑い返した。彼女といると、自然に笑える。感情なんて、もうほとんど残っていないと思っていたのだが、どうやら眠っていただけだったようだ。良いようにも悪いようにも、人間はそう簡単に割り切れない。凛香に出会って思い知った。
僕らはしばらく、花を見て回った。凛香は写真を撮りながらも、電車での沈黙を取り返すように、たくさん話した。
「ところで、なんで花が好きなの?」
僕が訊ねると、凛香はしばらく明後日のほうを見て、考える素振りをみせた。それから僕のほうに向き直ると、静かに答える。
「なんかさ、綺麗な命だと思わない?一粒の種から生まれて、雨風に耐えて、綺麗な花を咲かせて、命をつなぐ。当たり前のことかもしれないけど、とっても綺麗なことだと思うんだ」
必死に生きて、命をつなぐ。生き物の本質なのだろう。たしかに花は、それを判りやすくまっとうしている。僕は凛香の言葉を咀嚼してみて、なんだか悲しい気持ちになった。
「なんか悲しそうな顔してるね。どうしたの?」
「え、あ、顔に出てた?」
「なんとなく判るよー。そういうのに敏感だからね」
相変わらず超能力者みたいな鋭さだ。僕は黙って頷く。
「ごめんね、へんなこと言うけど。命って、そんなものなのかなって思ってさ」
まったく、気障もいいところだ。けれど嘘ではない。命の本質は、見つめてみるとなんだか儚かった。
「生きて、命をつなぐ。立派なことだと思うけど、ドラマチックでもないし、子孫以外に、とりたてて遺るものが無い。花みたいに判りやすく、美しいものを咲かせられたら、そうでもないのかもしれないけれど」
凛香は立ち止まり、僕の顔をじっと見た。僕も立ち止まった。
「…そうだね。人間は、そんなふうにはなりにくいもんね。判りやすく示せるものなんて、なにも。でも、だから、わたしは自分の人生が全てだと思ってる」
僕が意味を解りかねて首を傾げると、凛香はふっと微笑んだ。悲しげな微笑だった。澄んだ瞳は、しっかりと僕を捉えている。凛香は幼い子供に言い含めるように言う。
「生まれてきた意味も、生きる意味も知らない。どうでもいい。わたしが生きて、見ているものが全て。死んだらおしまい。それだけ。わたしは、それでいいんだと思っている」
不思議なことに、凛香の声に絶望の色はなかった。そう思うことで、彼女は死の運命を受け入れたのだろう。このまま臓器が手に入らなければ、彼女は死んでしまうのだ。信じられないことに。
「…なんか、ごめんね」
「どうして君が謝るんだよー。大丈夫。わたし、こういう話、結構好きだよ。いっつもしていたいとは思わないけど。君には、わたしの事も解ってもらいたいしね」
凛香はあくまで明るい声で言う。覚悟。それは本物なのだろう。僕は話題を変えたくて、彼女より先に歩き始めた。
そうして、僕らは花畑を堪能した。そばにあった店に入って、二人で昼食を摂った。二人とも名物だという蕎麦を注文した。本格的な蕎麦は食べたことがなかったが、あっさりしていて美味しかった。
それから、土産を買った。彼女は友達に、と言っていた。僕は特に贈る相手を思いつけなかったので、とりあえず陽向に買って行くことにした。こういうところから、始めていかなければ。
「あ、奏陽くん、これ見て」
それは、菜の花を摸したストラップだった。先端には、小さな花の形をしたガラスがついている。
「ストラップか」
「うん。これなら目立たないしさ、お揃いで買わない?」
「おそろい…」
外国語のように聞こえる。それではまるで恋人みたい、などと思うのは、僕が人間を知らないからか。友達というのは、そんなものなんだろうか。
判りやすく戸惑った僕に、凛香はやさしく語りかける。けれど、なぜか目を合わせてくれなかった。心持ち、頬が紅い。
「こんなことしなくても、わたし達は友達なんだけど、物は、結束を強くするの。それを見る度に相手を思い出すし、言葉よりも判りやすいから」
なるほど、確かにそうかもしれない。凛香は僕のことを想って言ってくれたのだろう。
「じゃあ、そうしよう」
僕らはお揃いのストラップを買った。
帰る前に、花畑を一望できる高台に登った。僕らはそこで、花を背景に写真を撮った。今度は、僕も自然に笑えた。
たぶん、僕に必要なのは安心だ。一日限りの実感を、記憶無しに信じられるような安心。凛香や陽向は、それを与えてくれるだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます