友達

記憶

 僕は凛香にクッションをすすめた。彼女はその上にちょこんと座ると、僕を見上げた。かつてない光景だった。この殺風景な部屋に、目を見張るほどの美少女が座っている。僕は小さなテーブルを挟んで彼女の正面に座った。

「やあー、なんて言うか、殺風景だね」

「素直な感想をありがとう」

 凛香はぐるりと部屋を見まわして、楽しげに笑う。もてなそうにも、僕には何も無いのだ。生まれてこのかた、趣味なんてものを見つけられない。僕の人物設定はひどく素朴だ。だから、部屋もこんな様相を呈している。

 話すなら、今しかないだろう。そう思った。凛香は、理解してくれるだろうか。話したあと、彼女がどんな顔をするのか、必要以上に悪いものを想像してみて、寒くなる。自分を落ち着かせるため、右手を頭の後ろへ遣って、髪の毛をくしゃりと掴んだ。

「どうしたの?急に黙り込んじゃって」

 凛香は僕の不審な態度をさとってか、困惑に近い感情をおもてに出して、僕に訊ねる。

「あ、いや、ちょっと考え事をね」

 僕は未だに悩んでいた。『できるだけ誠実に』凪咲の声が聞こえたような気がした。

 開け放った窓から、柔らかな春風が入り込んでくる。それが凛香のポニーテールをほんの少しだけ揺らしたのを、何故か僕は、つぶさに観察していた。それを終えると同時に、僕は決断した。

 ありえない事だった。けれど、それを言ったら、僕の人生にこんなことが起こっていること自体が既に可笑しい。僕は凛香を見習って、抵抗することを諦めた。

「あのね、僕は、ちょっとおかしいところがあるんだ。きっと、頭のどこかが悪いんだと思う。だから、今から桜城さんに話したいことがあるんだけど、聞いても信じられないと思う。それに、気持ち悪いと思うかもしれない。それで…えーと」

 いざ声に出すと決意が揺らいで、僕はまとまりのない日本語を話した。心臓が煩い。明らかに緊張していた。怖くて凛香の顔を見られない。

「奏陽くん」

 言い淀んだ僕を見かねたのか、凛香は僕の名を呼んだ。僕が顔をあげると、彼女は真直ぐな視線をもって僕を見据えた。

「大丈夫、なんて軽いけど、きっと。わたしは、ちゃんと聴くよ」

 凛香は静かで、けれど思いやりに満ちた言葉をくれた。僕はしばらく凛香の顔を見つめた。不思議に澄んだ瞳は、ちっともぶれない。僕はようやく観念して話し始める。


 僕の記憶は不完全だ。

 自分で表現するのはなんだか難しいので、凪咲の言葉を借りると、『脳に映像がほとんど無い』。

 僕の記憶は、すべてセンテンスで保持される。客観的なセンテンス。そこに、僕の匂いは無い。僕は自分の記憶を、自分のものだと認識できない。ちなみに、『文じゃカッコ悪いから、センテンスって呼ぼう』と提案したのは凪咲である。

 とはいえ、実際に頭の中にあるのだから、それは間違いなく僕の記憶なんだろう。しかし、それはちっとも実感を伴わない。ただ、そこにあるだけ。僕は何かを思い出すとき、国語の教科書か、陳腐な小説を読んでいるような気がしてくる。誰かによって書かれた、自分とは独立したものが、そこに在るのだ。

 例えばこんな調子。

『僕は病院で凪咲に会った。頭を撫でてもらった。すこし嬉しかった。看護師が入ってきて、凪咲を見た。凪咲が頷いた。僕は病室を出た』

『廊下で人にぶつかった。それは凛香だった。凛香と一階で話した。凛香は体が弱い。余命二年。僕に興味があると言った。僕は凛香と別れた』

 こんなことが、頭の中に書き込まれるのだ。実際には、もっと丁寧な描写が残っていることが多い。注意してほしいのは、これらが何らの映像や感情も、僕にもたらさないということである。

 僕の記憶は一日しかもたない。その日のことは、普通の人と同じように憶えている。自分の感情や、物事の細部まで。ただ、どうやら一定以上に長い睡眠をとると、それらは全部センテンスに置き換わるらしい。これもセンテンスとして憶えている。以前、実験したらしいのだ。

 例えば今日の出来事。僕らはテストを終えて、三人でファミレスへ行って、談笑して、今に至る。僕の記憶は滑らかだ。そして何より、それは確かに僕の記憶であると認識できる。

 これが、今夜眠って次の朝には、すべて客観的なセンテンスに置き換わっている。『テストが終わった。陽向と凛香とファミレスへ行った。ご飯を食べて話した。凛香を家へ連れていった…』こんなふうに。

 僕は事実を知ることができる。なにが起こって、どうなったのか。その時どう思ったのかも、ある程度知ることができる。だから、生活に支障をきたすことはない。必要であれば細部を想像で補ったり、誤魔化したりしておけば、少なくとも人に気づかれることはない。

 また、教科書に書いてあるようなことは覚えられる。例えば、ニュートンの運動方程式はF=maだ。客観的な事実なら、きちんと覚えられるのだ。だから勉強も、人並みにはできる。

 問題は、それがまったく客観的な、僕と独立したものとして与えられることにある。確かに、僕はファミレスに行ったのだろう。そこで、二人と食事をしたのだろう。凛香にからかわれて、恥ずかしかったのだろう。だが、それだけである。僕が楽しかったのも、恥ずかしかったのも、たとえ憶えていたとしても、まるで他人事だ。

 同じこと。例えば僕が誰かに一目惚れして、その人を心の底から好きになったとしても、翌日の僕に残るのは客観的なセンテンスだ。『誰の、どこが好きか』僕はこれを読んで、必要であればもう一度恋をしなければならない。なんと無意味で虚しいことだろう。

 そんなことを、生まれた時から繰り返してきた。今日が昨日の続きであることは当たり前なのに、僕にはそれが解らない。特に小さい時には、それが致命的な欠陥となった。僕は、自身の人格さえ解らなくなった。

 と言っても、さすがに遺伝子に刻まれたようなことは、たとえそれが主観的なことであっても忘れないらしい。というより、繰り返されるから、自然と学習するのだろう。例えば、僕は凛香と同じで甘党だ。苦いものはどうにも苦手だ。こういうことは、もう思い出す努力も必要ない。当たり前となっているのだ。最近では、それも板についてきたみたいで、奇妙な記憶に依らず、自然と僕の言動を支配している。だから、僕も完全に壊れているわけではないのかもしれない。


 人にも物にも、愛着がもてない。正確には、一日限りの愛着しかもてない。勿論、僕にまったく根っこが無いとは言わない。生まれつきの感性は存在する。ただ、それがまったく進化しないのだろう。

 いっときには、僕も何かを保っていようと奮闘したものだ。積み上げられたセンテンスの山を見て、なんだか虚しくなったのだ。しかし、その行為自体も虚しくなってやめた。長い長い時間をかけて、ようやく少しの変化が見られるばかりだった。物に対しては僕の気力が続かないし、人に関しては、向こうが痺れを切らしてしまう。『お前はいつまで他人行儀なのだ』と。

 だから僕には友達がいないし、欲しいとも思わなくなった。気持ちはいつまでも新鮮なのかもしれないが、それはひたすら足踏みしているのと変わらない。

 正直に言うと、特別なのは凪咲と陽向だけだ。凪咲は僕を大いに助けてくれた人だから。陽向は、僕が関係を前へ進めなくても嫌がらないから。あとは、結局のところ、いつまで経っても他人と変わらなかった。そんなにじっくりと向き合ってくれる人もいなかった。当然だ。僕はみんなが普通に登っていく階段をゆっくりゆっくり、倍以上の時間をかけて、しかも転びながら登っていくのだ。上手くやれなくて、関わることを避けるようになった。


 僕は素直に、この奇妙な体質を凛香に話した。彼女は黙って聞いていた。驚いた素振りもみせず、ただ、何かを考えているようだった。それで余計に、僕はぺらぺらと洗いざらい話してしまった。

「なるほど、つまり、毎日記憶喪失してるってわけだ…んー、なんかそれも違うな」

 凛香はようやく目を逸らすと、腕を組んで唸る。僕はただ、彼女の言葉を待った。否定か、同情か。たぶんどちらかだ。

「あ!毎晩死んで、毎朝生まれ変わる。これだ!」

 すとん、と、何かが胸に落ち着いた。これほど的確な表現は、僕には思いつけなかった。素直に感動していると、凛香は何度も頷き、僕に、否定でも同情でもない言葉をくれる。

「なんとも言えないけどさ、とりあえず、君が前に言っていたことは解ったよ」

 僕は未だ、黙っていた。彼女は「やったー、一つ謎が解けた」とか言いながら、勝手に喜んでいた。

「変だと、思わない?」

 僕は恐る恐る訊ねる。彼女はしばらく考えた後、座り直してから、ゆっくりと話した。

「たしかに、わたしとは違うし、普通ではないんだろうけど。でもそんなこと言ったらわたしも他人のこと言えないし。正直、よく解らないかなあ。君の頭の中を想像するのも難しいし」

 凛香の口調はいつも通りで、そこに翳りは感じられない。寧ろ明るく聞こえるくらいだ。僕は無意識に正していた姿勢を崩した。ようやく、すこし落ち着いてきた。

 なんだ。僕も案外、意気地無しだ。それともこれは、相手が凛香だからだろうか。

「だから、わたしは同情もしない。最近、君と話すのがすごく楽しいの。わたしは、これからも君と遊びたい。正直に話してくれて嬉しい」

 彼女の言葉はいつだって真直ぐだ。誤魔化しがない。人の神経を逆撫でしない範囲で、凛香は無遠慮な言葉を選んでいる。きっと彼女は、人の機嫌を損ねないことに長けているのだろう。

 けれども、凛香は解ってくれているだろうか。現実的にもっともまずいのは、人間関係なのだ。

 他人は、いつまで経っても他人。

「あのさ、その、わけの解らないことばっかり言って悪いけど、僕にとっては、他人はいつまで経っても他人なんだよ。だから、僕には友情とか愛情とか、そんなものがほとんど解らない。少なくとも、実感するのは難しいと思う。だから、もし、桜城さんが僕のこと、友達だと思ってくれていても、僕はそう思えないんだ」

 凛香は首を傾げる。言っていることは解っても、上手く想像できないのだろう。それはそうかもしれない。僕だっていきなりこんなことを言われたら、すぐには理解できないだろうから。

「つまりね、僕にとっては、今だって、桜城さんは初対面、とは言わないけど、それに近い感じなんだ。憶えているよ、君が甘党なのも、余命二年だと言われていることも。でもね、それは僕の頭の中では、客観的な事実に過ぎないんだ。僕は君という人間を、知っているだけ。僕が君のことを知ったという実感は、まるでないんだ。だから、そうだな、わかりやすく言えば、ずっとお見合いを続けているような気分なんだ。相手のことは知っているけれど、会うのは初めて、みたいな」

 凛香は胸の前で腕を組み、しばらく考えている素振りを見せた。そして、一度深く頷くと、僕の瞳を捉えて言う。

「じゃあ、さ。その、センテンス?が増えたら、実感も増してくるんじゃない?ほら、小説だって、読めば読むほど、感情移入しちゃうじゃない?」

 凛香の言うことには一理ある。たとえば凛香と凪咲では、僕のもっているセンテンスの量が違いすぎる。センテンスは多いほど、その人物に現実感をもたせる。そのとおりだ。

 けれど。

「確かにそうなんだけどね。それでも、僕はみんなのように滑らかに、人間関係を進めていくことができない。とてもゆっくりと、しかもいくつも測り違えながら、そんなふうにしか、進めていけない」

 一つ一つのセンテンスは客観的なものだ。僕はやはり、自分自身に実感をもてない。普通の人のようになれる可能性はある。しかし、とても時間がかかる。

「だから、僕はきっと、薄情なやつだと思われる。そうなる前に、桜城さんには…」

「やだ」

 言い終わる前に、凛香は即答した。きつい口調に反して、彼女は優しげな笑みを浮かべている。

「だから、いまさら離れろっていうの?」

「ち、違うよ。僕はむしろ、君を傷つけたくなくて」

 本当は、人なんて煩わしい。誰にも打ち明けなかったし、言っても信じてもらえないだろう。僕は傍から見ると薄情、よくても堅物にみえるわけである。

 けれど、凛香は。なぜかは解らないけれど、僕は彼女を突っぱねられない。理由のひとつは、彼女が真摯に向き合ってくれることにあるのだろう。いくら実感がもてずとも、その記憶は僕を励ましている。

 だから、距離を詰めてこられると戸惑ったり、煩わしく思ったりもするけれど、それでも、僕は凛香を拒絶したくない。

 僕は、彼女のことを案じて、僕のことを解ってもらいたくて、打ち明けたのだ。

 それなのに。

「…やっぱり、君は綺麗だ。真白。哀しい白」

 なんで、この子は。

「わたしには、君を救えないかもしれない。でも、挑戦させてくれないかな」

 こんなに、楽しそうに笑うんだ?

「奏陽くん。わたしは、冷たくされてもいい。鬱陶しいと思ったら、突っぱねてくれていい。だから、怖がらないで」

 胸がずきりと傷んだ。また理由が解らない。彼女に会ってからというもの、僕はへんだ。凛香は僕のほうに手を差し出してくる。

 それは、やはり救いの手にみえてしまうのだった。

「…わかった。ありがとう。僕も頑張ってみるよ」

 僕はその手を掴んだ。彼女の手は、小さくて温かかった。

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