ファミレス

「『君たちは人を見るか。笑えるね。僕にはちっともそう思えない』君も大変なんだな」

「そうなんだよー、別になりたくてこうなったわけじゃないってのにさ」


 僕はファミリーレストランの窓際で、机に頬杖をついて、ぼんやりと最近のことを思い出していた。テーブルの縁に立て掛けられたラミネート加工済みのメニューを見つめながら。二人の話はほとんど聞き流していた。

「あ、でもね、この前、この顔で良かったって思うことがあってね」

 こうなるとは思っていなかった。まさか、二人がここまで意気投合するとは。

 陽向が柔軟すぎるのだろう。へんな喋り方やクセの強い思考を除けば、彼は存外とマトモである、はずだ。誰とでも仲良くできるかと訊かれると否定せざるを得ないが、偏見や差別意識の薄い人間となら上手くやれると思う。たぶん、だけれど。

「へえ、聞かせてくれるかな?」

「奏陽くんがね、わたしに見蕩れて、溝に落ちそうになったの」

 僕は口をつけかけたグラスをゆっくりと机に戻す。隣に座った陽向が怪訝な顔でこちらを見る。やはり顔に出ていたらしい。思い出すと恥ずかしくて消え入りたい、ような気がする。認めよう。見蕩れていた。そう書いてあるから、たぶん間違いない。自然に笑い返したつもりだったが、上手くいっていなかったらしい。僕を貶めた側溝を恨む。なんであそこだけ蓋がないんだ。

 僕は十秒ほど、二人の顔を交互に見る。凛香はやっぱり意地悪な目をしていた。自分の魅力を解っているのかいないのか、ちっとも判らない。今は誰が見ても悪女にみえることだろう。陽向の方は、口元を普段と違ったふうに歪めて、明らかに僕を馬鹿にしている。彼は基本的に優しいが、付き合いの深い、らしい、僕に対しては容赦のないところがある。

 僕は弁解の言葉を考えて、諦めた。『できるだけ誠実に』だ。

「…ああ、そうだよ。見蕩れてたよ。あの角度はずるいでしょう」

 よく解らないけれど、凛香はわざと人を上目遣いに見てくる時がある。やはり悪女なんだろうか。

 陽向は僕の自白を聞いて吹き出した。

「や、少年。君が少女に見蕩れるなんて、珍しすぎるじゃないか。キャラクターが崩壊してるぞ。ああ、見てみたかったな」

 陽向は最後の一言だけをどこか真剣なトーンで言って、僕の肩をぽんぽんと叩いた。いつか復讐してやると思いつつ、僕は彼を睨みつける。爽かな微笑が返ってくる。やめろ、そんな良い顔で見つめ返してくるな。

 僕らの様子を見ていた凛香は「やったあ、脈アリだ」とかふざけたことを言いながら、手元のクリームソーダを啜った。彼女は甘党らしい。以前聞いたのだ。「コーヒーは?」と聞くと、「それは別」と答えた、と記憶している。

 このままでは僕の気が済まないので、僕はヤケになってへんな提案をしてみる。凛香と出会ってからの僕は少しおかしい。かき乱されて、いつも通りではいられない。きっと、凛香が一息に距離を詰めてくるからだ。そしてなぜか僕の方も、それを突っぱねられないのだ。

 端的に言って、感情の起伏が大きくなった。そして、死にたいと思う回数が、少しだけ減った。

「陽向、君は笑ってるけどね、やってみたら解るさ。桜城さん、こいつにもあの笑顔を見せてやってよ」

「いいよー、工藤くん、こっち向いて」

 断られるかと思いきや、すんなりと受け入れられてしまった。さすが、人気者は柔軟だ。陽向は陽向で、なんの躊躇いもなく凛香の顔を見つめた。凛香はあの日の笑顔を再現した、らしい。確かにこんなふうだったかもしれない。

 それから数秒、奇妙なにらめっこが始まった。僕はやはり、凛香の笑顔に見蕩れていた。今は作られた笑顔だと判っているのに、どうしてこれほど自然にみえるのだろう。この体質の唯一のメリットを活かして、僕は感動を再体験していた。

 一方の陽向は、眉ひとつ動かさずに微笑みを保ち、凛香を見つめ返していた。この二人がこうしていると、まるで映画のワンシーンのようだった。空気まで柔らかくなったみたいで、僕は思わず首を振った。

 先に音をあげたのは凛香だった。緩く引き結んだ薄い唇がふるふると震えたかと思うと、ぷっと吹き出した。陽向は未だに表情を変えない。悔しいような気がするが、男前である。

「…君をなめていた」

「にらめっこには自信があるんだ」

 陽向は得意げに笑むと、コーヒーを含んだ。ブラックだ。

 凛香は笑いながらも悔しがっていた。

「あー、なんか負けた気がする。てかイケメンだな、もう!」

 凛香が認めるくらいだから、きっと陽向は相当なイケメンなのだろう。やはり残念だ。

 しかし、こうでなければ今頃いっしょに居ないと思う。すると、この映画みたいな光景も見られなかったというわけだ。なんだか不思議な感じがした。ちょっとしたことなのだ。陽向が僕を気に入っているのも、僕が凛香と病院で会ったのも。

 運命、なんてらしくもない言葉が脳裏を過ぎった。

「しかし、工藤くんがこんなに面白いひとだと思わなかったよ。もっと堅いイメージがあったからさ」

「仕方が無いさ。人は偶像を創りたがるものだからね」

 たしかに陽向は、大抵の人からすると近寄り難いの一言に尽きるのかもしれない。

「また話そうね。あ、そうだ、陽向くんって呼んでいい?」

「『名前なんて記号だよ、君。好きにしたまえ』」

 僕も昔、言われた記憶がある。

「やった、じゃあそうする」

 凛香には口調なんて、何の問題にもならないみたいだ。


 平日の昼下がり、住宅街は静かだった。都会ではそうもいかないのだろうけれど、ここは中途半端な田舎だから、いつものことだ。憎き側溝をそれとなく睨みつけながら、僕は凛香と歩いていた。

 陽向は用があるらしく、レストランを出るとすぐに帰って行った。彼の家はすこし遠いところにあると記憶している。凛香も帰ると思っていたのだが、僕の家に来たいと言ってついてきた。僕は拒めず、今に至る。

 あれから、凛香は決して、僕の家に来たいとは言わなかった。宣言通り、彼女は僕のボーダーラインに触れてこなかった。

 だから、凛香はそれなりの決意のもと、今日の提案に踏み切ったのだろう。

「今日は落ちないんだね」

 隣を歩く凛香がくすくすと笑う。返す言葉もない。僕が特殊なのではない、と信じたい。いや、それは無理か。けれどこれに限っては、陽向の方がおかしい。

 これまで通りの考え方を貫くなら、彼女を家に招くのは避けたかった。なんだか、これ以上はどうやって接すればいいのか、僕にもよく解らないのだ。

 そろそろ限界だろう。僕の体質を、いい加減に説明しなければ。しかしこの体質は、凪咲以外には打ち明けていない。小さい頃は、これのせいでずいぶん苦労した。正直に話すことは、やはり躊躇われる。

 陽向は、僕の線引きを判っていて、それ以上踏み入ってこない。たとえ僕が冷たくあたっても、彼は全部解っているみたいに僕を許してくれる。やはり変わり者だ。

 凛香が、もっとつまらない人間だったらよかった。あるいは、僕を幻滅させるような人間だったらよかった。そうすれば、僕はあの日から、凛香を突っぱね続けることができただろう。そもそも、間違っても涙をみせたり、一緒にいてほしいなんて言わなかっただろう。

 なんだろう、この感覚は。凛香は、どうしてこうも、ああ、よく解らない。たしかに、僕は自分の寂しさゆえに人を諦めきれていない、ということは解った、らしい。でも、それだけでは説明できない何かが、凛香にはあるのだ。

「君の家にお邪魔するのは初めてだね。家の人とか、大丈夫?」

 凛香はいまさらに問う。隣を見遣ると、屈託のない澄んだ瞳が僕を貫いた。ふいと視線を逸らして答える。

「大丈夫。誰もいないから」

「あ、そうなんだ。よかった」

 不思議な少女だ。無邪気、と言うには何かが足りないが、露骨な負の感情が感じられない。かと言って何かを内側に閉じ込めているふうにも見えない。人の事なんてよく解らないけれど。

 なんとなく、凛香が病院で言っていたことを思い出す。一種の潔さ。彼女はとても美しかった、らしい。

 僕の内面は、すこし変わったのかもしれない。否定できない。相変わらず、朝起きる度に空っぽになって、凛香のことも、ほんの少し特別な存在としか認識できない。

 ただ、僕は寂しいから二人と一緒にいる。最近は、そう思えるようになってきたのだ。こういうふうに考えると、抵抗も少なく、気が楽だった。気持ちが蓄積せずとも、自分に深く根づいた感覚なら信じられる。それを基にして、二人との関係に納得している。

 だから、反対に怖くなってきた。陽向はともかく、凛香と親しくすればするほど、僕はズレていくような気がした。凛香にとって、僕は、少なくとも他人ではなくなっているだろう。そんなことは、センテンス化された常識だけでも理解できる。

 とすると、必然的に僕と彼女のあいだには温度差が生まれてしまう。それは避けねばならない。そう思うことは、僕自身にとっても意外なことだった。これまでの僕なら、そのまま壊れてしまえ、なんて投げやりに思ったのだろう。けれど今の僕は、どうしてもそう思えなかった。凪咲の『誠実であれ』という言いつけを守っているから?それだけでは片付けられない。僕は明らかに自分の意思で、凛香に向き合おうとしている。そんな意思が、僕にも芽生えていたのである。

 とはいえ、この温度差を埋めることは不可能だ。だから、僕はいい加減に、理由を説明しなくてはならない。凛香が僕に失望する前に。愛想を尽かされてしまう前に。

「桜城さん」

「凛香って呼んでほしいなあ」

「…桜城さん。僕んちに着いたら、聞いてほしいことがあるんだ。僕が、あの日話せなかった『理由』について。これからも、僕らが、えーと、友達、で居るために」

 躊躇いながらも、できるだけ誠実な言葉を紡ぐ。僕は気恥ずかしくて、凛香の顔を見られなかった。しばらく返事はなかった。恐る恐る、隣に目を遣る。

 凛香は、とろけるような笑みを零していた。ファミレスで見たものと、まったく同じである。しかし、そこには本物の感情がこもっているようにみえた。思い上がりだろうか。僕はやっぱり、その笑顔に見蕩れてしまう。

「ありがとう!嬉しいよ。…ふふ、友達って言ってくれたね」

 凛香は普段よりもずっと弾んだ声で言う。僕は気を取り直して前を向く。僕のなかでは違っても、僕らの間柄は友達と呼ばれるそれなのだ。

「あ、うん、その、桜城さんを傷つけないためにも、ね」

「でも、無理してない?わたしに気を遣ってるんじゃない?」

 さすがに鋭い。本当はそれも否定できないが、口に出す場面ではないということくらいなら、僕にも判った。加えて、凛香のその言葉を受けいれることは、なんだか誠実ではない気がした。


 あ。

 僕は、彼女に解ってもらいたいのか。

 なぜだ?体質や感覚は、ちっとも変わっていないというのに。


「…ちがうよ。僕が、桜城さんに解ってもらいたくて、話すんだ」

 心臓が煩く暴れはじめる。本当に、これは何なのだろう。

 けれど、僕は答に触れた気がした。関係を壊したくないとか、誠実じゃないとか、それも嘘ではない。しかし、そんなものは建前だ。僕は結局のところ、解ってもらいたいのだ。凛香と、『友達』でいるために。

 凛香は僕の背中をばしばしと叩いて、上機嫌に応える。

「なんだか、今日は嬉しいこと言ってくれるね!感動しちゃった」

 僕は照れ隠しに歩調を早める。

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