本心

 それから、さらに一週間が過ぎた。僕は教室で、陽向のノートを写していた。僕が病欠していた時のものだ。彼はノートの取り方が丁寧で、字も綺麗なので助かる。

「ほおう。それで、その人は、君を励ましてくれてるのか」

 僕は陽向に、凛香との事を話した。名前はあえて伏せておいた。どうせそのうちバレるかもしれないが、あえて言う必要もないだろう。こういう時に深く突っ込んでこないのも、陽向のいいところだ。僕は何度もそう思っている、と記憶している。

「いやあ、どっちかと言うと、受け入れてくれるって言った方がいいかも。生きろとも言わないんだ」

 あれから凛香には、その衝動について話した。そこまで話すつもりは毛頭なかったのだが、気づくと僕は、凛香と様々なことを話していた。

 それは、つまり気が緩んでいたことを示している。僕は、どこかで希望を求めている。

「なるほど。その人は案外、君のことをちゃんと考えてくれているのかもしれんな」

 凛香は、僕のことをどう思っているだろうか。友達?そうかもしれない。実際に、凛香は友達になろうと言ってきたのだから。そして彼女は、きっと悪人ではない。もとからそれなりに解っていたことだが、この二週間ではっきりした。

 僕は最後の一行を写し終わり、顔をあげた。もう、教室には僕と陽向しか残っていない。テストのため、昼前には放課となるのだ。これで今日の一夜漬けもなんとかなりそうだ。僕は改めて陽向に礼を言った。

「いいよ、こんなことなら。いくらでも頼ってくれ」

 彼の距離感は不思議だ。たぶん、僕を束縛しようとしないことが、大いに影響しているのだろう。薄情なわけでは、決してない。僕が望んだところまでしか、踏み込んでこないのだ。だから僕は自然と、僕のペースで、陽向へ近づいている。

「今日も、その人のところへ行くのか?」

 陽向はノートを仕舞いながら訊ねる。僕は少し悩んで、正直に答えた。

「悩んでるんだ。最近、その人と会うのが辛くなってきた」

 陽向は僕の顔をじっと見た。僕はただ黙って、彼の言葉を待った。ややあって、陽向は口をひらく。聞こえるはずのない秒針の音が聞こえた、ような気がした。

「少年。僕は決して、君を縛らない。だからこれは、純粋なアドバイスと捉えてくれ。君は、その人のところへ行くべきだ。行って、話すべきだ」

 陽向はそれだけ言うと、鞄を持ち上げて、普段通りの微笑にもどった。僕はため息を吐きながら、同じようにした。彼にはかなわない、と思う。全部見透かしているみたいで。

 けれど、陽向の言う通りなのかもしれない。ぶつかることになっても、僕はきちんと、凛香と話さなければならない。


 午後一時に公園で。そう言ったのは凛香だった。一度、家へ帰らないといけないらしい。僕もいったん家に帰り、荷物を置いて昼食を済ませると、公園へ向かった。

 凛香はもうそこに居て、僕を見つけると立ち上がって手を振った。片手には、いつものコーヒーがあった。

 僕は彼女に歩み寄り、片手を挙げながら挨拶した。続いて飲み物を手に入れると、彼女の隣に腰掛ける。かれこれ二週間、僕らは土日を除いて毎日話している。僕の方はちっとも慣れないが、彼女はもう、かなり僕に慣れただろう。限界だと思った。

 僕は何をしてるんだろう。不意にそんな思考が頭を過ぎる。考えてはいけない。それは、いかなる経路を通じようとも必ず死につながる。

 僕は缶入りのミルクティーに口をつけると、やや緊張しながら切り出した。

「あのさ、桜城さん」

「凛香」

「…桜城さん。今日はちょっと、真面目な話をしたいんだ」

 凛香はコーヒーを含んでから、こくんと頷いた。僕は頭の後ろへ手を遣る。少し寒い。

「僕はね、その、人と上手くやれないんだよ。これまで、桜城さんを中途半端に遠ざけてきたのは、そのせいなんだ」

 凛香は胸の前で腕を組み、僕のほうを向く。

「具体的には、どんなふうに?」

「…前の例え話、憶えてる?」

「ああ、記憶喪失の話ね」

 僕は缶に口をつける。なんだか喉が渇いて仕方ない。

「あれは、ほんと下手な話なんだけど、僕のことを正確に表現していて。要するに僕は、自分の人生に実感がもてないんだ。それは、人間関係についても同じ。今も、僕にとって桜城さんは他人みたいなんだ」

 僕はなんとなく目を逸らして遠くを見る。全身の毛が逆立っているような感覚。内臓がふわふわと浮かび上がっている気がして、ちっとも落ち着かない。僕は怖がっている。それはそうだろう。人とまともにぶつかったことなど、数えるほどしかない。いつも殴られるか、逃げ出すかの人生だった。人に逆らわないことは、僕の生きる上での第一原則だった。

「つめたいこと言うなよー。ここのところ、たくさん話したじゃん」

 凛香は笑って答えた。やはり解ってもらえない。それはそうだ。僕だって突然こんなことを言われたら混乱する。冗談だと思う。

「それが、関係ないんだよ。僕は、ああ、そうだ。気持ちが蓄積しないんだ。どれだけ誰かと話しても、友達だなんて思えないんだよ」

 ここでようやく、僕は凛香のほうへ視線をもどす。じっと僕のほうを見ていた。大きな瞳はやはり澄んでいて、見透かされている感じがする。ふと気づいた。僕はいつだって、皆に見透かされているような気がする。だから余計に、人を遠ざけようとする。

「んー、わたし頭悪いからよく解らないけどさ。君は、わたしと居ることを、嫌だと思う?」

 凛香は頭を掻いて、制服のリボンをくるくると指に巻きつけながら言った。僕はその動きを観察しながら、考えてみる。凛香と居て、嫌だと思ったことはない。そもそも僕が人を避けるようになったのは、誰かと親しくなることを諦めたからだ。加えて、トラブルを避けるためだ。

「…そんなことはない、と、思うけど」

 凛香の細い指から、緋色のリボンがするすると解けていく。彼女は手元から僕のほうへ視線を移し、ゆっくりと話す。

「なら、いいんじゃないかな。わたしは、じっくり君と向き合っていくつもりだよ?それでもだめ?」

「…ごめん、上手く説明できてないから、よく解らないかもしれないけど。大事なことを伝えるね。僕は、君を傷つけるかもしれない。桜城さんが僕に近づけば近づくほど、きっと後悔する」

 凛香はしばらく黙っていたが、やがてコーヒーの缶を空にすると、口をひらいた。

「なら、君はわたしに気を遣わなくていいよ。わたしは、いくら傷つけられても構わないから」

「そんな…」

「いいの。だから怖がらないで。君を裏切らない、なんて言っても信じてくれないだろうけど、約束するよ」

 まるで解らない。傷つけてもいいだなんて。

「そんなことが、許されるの?」

「わたしは許す。はっきり言っておくけど、君にはそれくらいの価値があるの。あ、価値とか言い方悪いね。でも、それはほんと」

 僕は選択を迫られているのだろう。二択。しかも、今回に限っては全てが僕に委ねられている。慣れきった孤独への逃亡か、人と向き合うことへの挑戦か。思えば僕は、全てを諦めて逃亡を繰り返してきたのだろう。

 僕は立ち上がった。これ以上、ここに居てはいけないような気がした。

「今日は、もう帰るよ。また明日」

「約束だよ?」

 僕は曖昧に頷いて、公園を後にした。


 翌日、僕は一足先に公園へ向かって凛香を待った。しばらく校門で待っていたのだが、彼女はなかなか現れず、僕は痺れを切らした。自販機で炭酸のジュースを買って、ベンチに座る。ただ、黙って座っている。

 独りきりで、僕はぼんやりと考えてみる。今日言うべきことを。昨日あんな形で終わってしまったからこそ、今日は誤魔化せない。僕は、凛香の言葉に向き合わなければならない。

 僕はどうしたら良いのか解らなかった。

 けれど昨日のことは、それなりに細かく憶えている。凛香の表情、口調。そのどれもが切実なセンテンスとして、残っている。彼女はたしかに、僕に歩み寄った。傷つけてもいいと言った。今日の僕にとっては他人事であって、まるで夢でも見ていたような気がしてくるけれど、これは現実で、僕は向き合わなくてはならない。それ以外に生きる方法を知らない。

 凪咲。僕は、どうするべきだろうか。

 これまでは、誰もが僕のことを煙たがり、望まずとも遠ざかってくれたから良かった。あるいは、道端に転がっている石ころのように、誰もが僕を意識しなかった。それで、問題なかった。小学生の頃のようなことにならなければ、何の問題もなかった。

 凛香は、僕の人生に現れたイレギュラーだ。僕は、単純に戸惑っている。嫌われることにも慣れているし、道端の石ころになりきるのにも慣れている。それが幸福であるかどうかはさておき、僕はそれを当たり前の事として、受け入れられるようになった。これからも、独りで生きていくのだと思っていた。

 いっそ、全部話してしまおうか。それも良いかと思われた。けれど、僕の薄弱な常識というか、生存本能というか、そんな何かが、僕の口を重くしていた。未だにその機能は失われていない。

「あ、やっほー、奏陽くん。待っててくれたんだ」

 僕は顔をあげた。凛香が手を振りながら近づいてくる。やっぱり心臓が揺れる。

「約束だからね」

 僕が答えると、凛香は一つ大きな息を吐き、にこりと笑った。彼女はいつも笑っている。その笑みはいつだって柔らかだ。

「ごめんね。なんか告白されちゃってさ。しつこくて」

 凛香は、僕の背後にある自販機で飲み物を買いながら言った。やっぱりコーヒーだった。僕の隣に座ると、缶を開ける。僕は心持ち多量のジュースを喉に流し込んだ。

「そっか。桜城さん、モテそうだもんね」

 凛香はこんな言葉を嫌うかもしれないが、僕はそう言った。こんな所にも、この体質の影響が出ているのかもしれない。いや、それは言い訳だ。単に、僕が下手なだけだ。

「…、否定したら、余計にウザい女になっちゃうから、しない、けど。誤解しないでね。わたし、好きでこんなふうになってるんじゃないの」

 凛香は前を向いて、静かに言う。どこか哀しげな瞳だった。

「誰も、わたしのことなんて知らないくせに」

 そのまま、ぼそりと続ける。僕には解らないが、これほどの美貌の持ち主には、それなりの悩みがあるのだろう。

 しんみりした空気が垂れ込めた、かと思うと、凛香は表情をころりと変え、僕のほうに向き直った。

「ま、今はどうでもいいや。そんなことより、君のことだよ。君は、わたしと友達になってくれるのかな?」

 僕はまた、ペットボトルに口をつけると、少し考えて、飲み物が喉を通るまでに決断する。

「…僕なりに、考えてみたんだ。昨日、人付き合いが下手だって言ったね。それを、もうちょっとちゃんと説明しなきゃって、思って」

 凛香は僕の顔を見つめている。彼女が黙って頷いたのを確認してから続けた。

「あのね、僕は、友達とか解らないって言ったけど、それは中二病でも比喩でも誇張でもなくて、本当なんだ。僕は、人を大事に思えないんだよ。理由は、ごめん、まだちょっと言えない。でも、それはほんと。相手が悪いわけじゃない。どれだけ良い人でも、僕はその人を好きになれないんだ」

 ここまで早口に言って、言葉を切る。二人の間を、春の柔らかな風が吹き抜ける。背後で木の葉が擦れる音がした。

 凛香は何度か頷いてから、また視線を前へ戻した。日が長くなったから、まだ明るい。コンクリートの切れ目から、タンポポが突き出ている。

「…うん、まあ、なんとなく解った。それで、君は、わたしに諦めてほしいの?」


 なんて残酷な質問だろう。

 思えば、僕が自ら人を拒む理由なんて無いようなものなのだ。ただ、僕は人と親しくできない。どう足掻いても、そこに到達できない。

 幼い頃に、心に傷を負い、トラウマになっている。不用意に人を求めることはなくなったし、そんな欲求を持つことも、僕にとっては難しい。

 それでも。

 それでも、僕だって、何かを持っていたかったんだ。まだ、僕は人間に絶望できていない。


「…そんなわけ、ないじゃないか」

「え?」

 初めから独りで生きていくつもりなら、凛香の話に真面目に応じる必要なんてない。それがやがて破滅に繋がることを了解して、それでも歩いていく覚悟があるのなら。

 そうだ。僕が凛香を突っぱねられない理由。なんだかんだと言っても、陽向を特別視している理由。考えるまでもない。僕には無理なんだって解ってる。でも僕は、それを信じてみたい。

 そんなふうに手を差し伸べられたら、つかみたくなってしまうだろう?

「僕だって、何かを持っていたい。人間になりたい」

 視界が霞む。気づくと、僕はぼろぼろと涙を零していた。一度溢れ出したそれは、念じたって止まってくれなかった。凛香が困惑している気配がありありと伝わってくる。

 毎日死にたいと思うような現実。どうにもならない自分自身に嫌気がさした。今だって、凛香は僕にとって『友達』ではない。僕は、ほとんど冷静な思考を伴わないまま、感情を爆発させている。それくらいに、僕の感情は弾ける寸前だったのだ。

 死にたい。死んだ方がましだ。何度思ったことか。この空虚な人生。誰もに愛されず、誰も愛せず。何も持っていられない。当たり前のように空っぽが続くだけの、くだらない日常。

 それでも、ねえ、生きたいと思ってしまうだろう?だって、僕はまだ生きているのだから。本当に吹っ切れているのなら、とっくに自殺している。

「ちょ、ちょっと奏陽くん。大丈夫?」

 これ以上取り乱しては、凛香に申し訳ない。などと思いつつも、僕は涙を拭い拭い、泣き続けた。

「大丈夫、じゃないかもしれない。でも、桜城さんは気にしなくていいよ。ただ、ひとつ訊きたい」

 凛香は不安げな瞳をにわかに細めて、目尻を下げた。なんだか凪咲に似ている、ような気がした。

「なあに?」

「僕がたとえ、人でなしだとしても。たとえ、君に寄り添えなくても。一緒にいてくれる?」

 僕は霞む目で、凛香を見つめた。声が震えていた。またあの感覚だ。内臓が浮き上がるような恐怖。人に深く踏み入る時の、なんとも言えない緊張感。


 凛香は、優しく笑んだままで答える。

「わたしでよければ。君の孤独に、寄り添いたい」

 とうとう涙は止まらないまま、僕は立ち上がった。これ以上凛香に見られているのも気恥ずかしくなってきて、背中を向けて言った。

「ありがとう。今日は、もう帰らせて」

「あ、ちょっと待って」

「なに?」

 仕方なく振り返ると、凛香も立ち上がっていた。

「なんか、耐えられなくなったら、いつでも言ってね。わたしは、君の味方、に、なりたいから」

 それで余計に涙が出てくる。僕は小さく頷いて、今度こそ、公園を後にした。一度も振り返らずに、家まで走って帰った。


 ベッドの上。僕はまた、目を覚ます。昨日の事が思い出される。

 ああ、そんなことを言ってしまったのか。これから、どうすれば良いのだろう。

 今日も、他人の行動を背負ってベッドから抜け出た。



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