希望
それから一週間、凛香は毎日、僕の帰路に現れた。僕らはやはり、あの公園で話した。彼女は決まって缶コーヒーを飲んだ。僕は甘いものをとっかえひっかえしていた。
基本的に、彼女は当たり障りのないことしか話さなかった。学校のこと、友達のこと。ときどきは、深刻な話もした。彼女の寿命のこと、友達とは何か。
そんな会話の中で、僕は戸惑いを覚えた。いつも通りの感覚は僕につきまとい、僕は凛香に対して他人行儀な態度を貫いていた。けれど未だに、僕は凛香を拒絶できないままだった。
考えた。独りで、ずっと考えていた。僕は死にたいと思っていたはずで、それはいまでも変わらない。けれど同時に、僕はこの状況を変えたがっていた。もし、僕が凛香と上手くやれたら?何かを持っていられたら?そんなことに成功した例は一つもなかったけれど、期待してしまう。これまで、こんな状況に巡り合わなかったから、余計に。
ただ、そうして希望を抱けば抱くほど、この体質が余計に意識されて、諦めるべきだとも思った。
ジレンマ。僕は慣れきった絶望と、生きる希望とに板挟みにされ、悩んでいた。
月曜日。
ベッドの上で半身を起こした僕は、まっさらになった感情を見つめた。いつからだろう。僕は朝起きる度に、自分に嫌気がさすようになった。それで、死にたいなんて考えるようになった。凪咲なら、笑って許してくれるだろうか。いや、なぜ許しを求めているのだ。なにも悪いことはしていないのに。
僕は自室を出ると階段を下り、キッチンへ向かった。そこで適当に朝食を済ませる。母は今日もいなかった。最近、朝早くからどこかへ行ってしまうのだ。もう慣れたことだけれど。父は既に出勤している。家には僕一人だ。
身支度を済ませると、制服に着替えて学校へ行く。また、一日が始まる。まるで変わらない胸の内にうんざりするのにも飽きてしまって、僕は何も考えずに歩いている。ぼんやりと、ただ前ばかりを向いて。同じ制服を着た生徒や、通勤途中のサラリーマンや、ゴミ袋を携えた主婦なんかとすれ違う。僕は誰も意識しないし、誰も僕を意識しない。なんの変哲もない、ただ穏やかな、街路樹の並ぶ歩道。まるで僕の人生みたいだと思った。
『奏陽は、一日一日を、新鮮な気持ちで生きられるの。それはきっと、素晴らしい長所ね』
かつて、凪咲が僕にくれた言葉を思い出す。あながち間違ってはいない。ただ、それが良いことだとは思えない。だって、僕はこんなにも苦しいのだから。
誰かの人生を生きる日々は、この上なく虚しい。僕はいつも通りに壊れている。なんて、大袈裟かもしれないけれど、ふとそんなフレーズが浮かんできて、我ながら少し笑えた。
教室で、僕の居場所は陽向の隣、窓際の一席だ。陽向はすでに着席していて、いつものように文庫本を開いて、なにやらブツブツ言っている。彼は独り言も多いのだ。
僕はできるだけ人の少ない場所を通って自席へ向かった。
「や、少年。今日も美しいな」
平気でこんなことを言うから、一部の女の子達には同性愛者だと思われているらしい。しかし、彼は同性愛者ではない。というのは、以前訊いたことがあるのだ。
「『君、人の上辺ばかりで解った気になるものじゃないよ』」
陽向は持っていた文庫本をぱらぱら捲り、そんなことを言った。本人が言ったのだから間違いないだろう。
陽向が僕にプロポーズまがいの事を言ってきた理由は未だに判らない。こんなふうに僕を褒める理由も知らない。ただ、彼のこういう言動には慣れきってしまって、僕は大して何も思わない。「おはよう」くらいの意味だと思っている。
「おはよう」
僕はそう応え、席に着いた。今日も平和な光景に、欠伸が出る。
「あ、あの、工藤くん」
教科書を引っ張り出していると、陽向が話しかけられていた。大人しそうな女の子だった。たぶん、きのう陽向のパートナーとなって話していた子だ。盗み聞きするつもりはないけれど、隣で話しているとどうしても聞こえてきてしまう。僕は露骨にならないように、頬杖をついて窓のほうを眺めていた。
「あの、本、好きなんだよね」
「ああ、大好きだよ。これがないと落ち着けなくてね」
「わ、私も、本好きなんだ。よかったら、そういう話したくて。と、友達に、そういう子いなくて」
「そうなのかい?これは光栄だね。ぜひ話そうじゃないか。じゃあ、まずは好きな作家を…」
陽向に話しかけてくる者など、滅多にいない。事務的に話しかけられるところなら見かけるが、こんなふうに雑談しに来るところは、ほとんど見た事がない。それこそ入学当初くらいではないだろうか。僕の憶えている限りでは、だけど。
そのうち、彼らの会話も耳に届かなくなってきて、僕はほとんど居眠りしていた。僕の意識を覚醒させたのは、凛香の声だった。それはすぐ隣から聞こえた。
「あれ?洋子、工藤くんと仲良いの?」
僕は陽向のほうを向いた。洋子と呼ばれた少女は、あたふたと言い訳を始める。聞いたことのある名前だった。先週、凛香が話していた。
「え、あ、いや、そういう、わけじゃ、ないけど」
僕は退屈しのぎに、洋子の特徴を覚えてみることにする。関わりのない人間は覚えないことにしているが、僕にも、気まぐれを起こすくらいの人間らしさは残っていた。それに、顔と名前が一致する人間は、一人でも多い方がいい、はずだ。
「へえー、洋子も隅に置けないねえ」
洋子は髪が長く、それが肩の前に垂れている。オレンジ色で細いフレームの眼鏡をかけている。身長は凛香より十センチほど低くみえ、小柄だ。瞳は凛香に劣らず大きく、垂れ目で、やさしげな印象を与える。なにより覚えやすいのは、右目の下に泣きぼくろがあることだった。
「ち、ちがうよ、そんなんじゃないって」
凛香は楽しそうにケラケラ笑って、不意に僕のほうを見た。そしてこちらに近づくと、小声で「放課後ね」と耳打ちする。僕は曖昧に頷いた。
いつも通り、ベンチに座った僕らは、たわいない話を始める。
「もうすぐテストでしょー?やだなあ、勉強とかしたくない」
「素直だね。僕もだけど」
僕は日頃、両親を心配させない程度に勉強している。それ以上はどうでも良かった。どうせ大学へ行っても、このまま虚しく生きるだけなんだろう。それならば、勉強する意味もないのだろう。そう思っていた。
「生きてられるかどうかも判んないのに、勉強しろって言われてもねえ」
凛香はいきなり深刻なことを言ったが、その声はちっとも深刻じゃなかった。力が抜けていて、ぜんぜん気にならない。僕はそれが可笑しくって、つい笑ってしまった。
「なあに、なんかへんなこと言った?」
「いや、ごめん。あまりにも、軽く言うものだから」
「あー、まあ、ね」
凛香もつられて笑った。
「わたしは、今を生きる。それだけで充分」
「今を生きる、か」
凛香は僕なんかよりもずっと、生きる意志に溢れているように思われた。余命二年という現実を受け入れて、なおも自分の人生にしっかりと向き合っている。僕なら自暴自棄になって、なにもかも投げ出しているかもしれない。
僕は空を見上げる。まだすこし肌寒い。三月は始まったばかりだ。ついこの前、卒業式が行われた。来年はいよいよ僕の番だ。
これから、僕は一体どうなってしまうのだろう。
僕がぼんやりしていると、凛香は不意に声色を変える。
「ねえ、そろそろ君のことを教えてくれないかな?」
その声は優しくて、熱を帯びていた。凛香は僕に興味があると言った。そろそろ、訊かれるのではないかと思っていたのだ。
どこまで話すべきだろうか。僕はじっと考えて、慎重に切り出した。
「ちょっと、例え話をするけど、いい?」
「いいよー、ドンと来い」
「記憶喪失になった人がいたとしてさ。その人は、今までの記憶を全部失くしてるの。それで、あるとき、神様か誰かが、その人に記憶を戻してあげるんだ。ただし、実際に返ってきたのは本だった。その人は自分のことを知ったけど、ちっともしっくりこない」
凛香は頷く。
「そりゃあ、本読まされたってねえ」
「実感なんてないよね。簡単に言ってしまうと、僕はそんな感じなんだ」
例え話にしては捻りがないが、思いつかなかったのだから仕方が無いだろう。なんとなく凛香に納得してもらえたら、それでいい。
「…よく解らないなあ」
「話が下手だよね、ごめん。でも、今はこれで納得してほしい」
凛香は胸の前で腕を組むと、しばらく唸っていた。僕は目を逸らし、遠くの雲を見つめる。ゆったりと、薄く引き伸ばされている。掠れた絵の具みたいだった。
「…とりあえず、虚しいことは確かだね。うん。今はそれでいいや」
凛香のこういう所は本当に好ましい。彼女はきちんと人との距離を測れる、らしいから、深追いはしてこない。
だから僕も、彼女ならあるいは、と思ってしまう。
翌日、僕は陽向と食堂へ向かった。隅のほうの空席を確保すると、僕らはそろって食事を始める。食堂には他のクラスの生徒も沢山いるので、陽向を連れていると目を引いてしまう。特に女の子たちは、みんな陽向のほうを盗み見る。今だって、彼から少し離れたところに座っている短髪の少女が、彼をちらちらと見ている。
「…陽向も大変だな」
「なにがだい?」
そんなことは何処吹く風で、彼はうどんを持ち上げる。いつもうどんばかり食べている。
「なんでもない。うどん、好きなの?」
「まあね。このシンプルさが良い。着飾らないのは素敵なことだ」
相変わらず褒め方が独特だ。そんな陽向を眺めつつ、僕は自分のラーメンに手をつける。
「ねえ、陽向」
「うん?」
「陽向ってさ、死にたいとか思ったこと、ある?」
僕は言ってから麺をすする。薄味で素朴なものだが、不思議と美味しい。僕は大抵、これを食べている。他のものも試してはみた、らしいのだが、このラーメンよりは良い印象を残さなかった。
陽向はしばらく黙っていたが、ふっと笑うと、僕の顔を見て言った。
「命を投げ捨てるは罪、死を救いと履き違えてはいけない。…僕は死ぬ前にやりたいことがあってね。それまでは、どうしても死ねないのさ」
「やりたいこと?」
「心が純粋で、美しい人と結ばれること。これだよ、君。僕の憧れさ」
一見、難しそうだが、陽向なら簡単にできるのではないだろうか。洒落た服を着て街を歩いていれば、向こうからやってくるだろう。
しかし僕がそう言うと、彼は否定した。
「案外、難しいものなのだ。なかなかいないよ、そんな人はね。君は綺麗すぎるし」
最後の一言は相変わらず意味が解らない。だが、そんなものかと、なんだか納得してしまう。あれこれ言っても、僕は陽向のことをある程度信用しているらしい。
「少年、君は、死にたいのか」
「…まあ、ね。そう思っていた」
陽向は箸を置いて水を含んだ。
「今は、思っていないのかい?」
「ちょっと、気になる人がいてさ。その人を見ていると、僕もまだ、生きていてもいいのかなって」
陽向は困ったように眉を曲げ、僕を見る。僕もまた、陽向の表情を観察する。まるで実感は湧かないけれど、僕は幾度となく、この顔を観察しているのだ。
「…少年。僕は君を尊敬し、ある程度理解しているつもりだ。だから、踏み入ったようなことは言わない。けれどね、どうか、そんな悲しいことは言わないでくれ。君の命を肯定できるのは、君だけなんだぞ」
僕の命を肯定できるのは、僕だけ。たしかにその通りである。だれも認めてくれはしない。けれど、それはみんな同じなのかもしれない。だから、どこかで妥協して、我慢して生きている。
「そっか。そうかもしれない…ごめんね、こんな話しちゃって」
「いいんだ。君は無理をしなくていい。ただ、ここに味方がいることを、忘れないでくれ。友であるとは言わない。僕は、必要ならば君に寄り添う」
その言葉があまりにも優しくて、僕はつい泣きそうになる。最近、自分でも感情が制御できないことがあるのだ。大抵はベッドの中で、ひたすら静かに泣いている。
捨てたものじゃ、ないのだろうか。
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