触れる
凛香は病院での宣言通り、僕に話しかけてきた。最初の接触は放課後ではなく、英語の授業中だった。
ペアをつくって教科書の英文を読んでみろという指示のもと、僕は隣の陽向と、真面目に取り組んでいた。陽向の発音は完璧で、僕はそれを真似ようとして、何度も陽向にダメ出しされた。
「ああ、ちょっと大袈裟すぎる。そんなに舌を巻かなくていい」
「やっぱり難しいな」
そんなことを言いながら数分が経った。しかし教師はやる気が出ないのか、ペアを変えてもう一度、なんて言い始めた。僕らはうんざりしながらも、素直に従った。別に、このまま続けてもバレやしないのだろうけど、周りも従っているようだったし、僕らは別れた。
そこへやってきたのが、凛香だった。
「あ、八代くん。やろうやろう」
近くにいた背の高い男子生徒にじろりと睨まれた。恐らく、ほとんど関わりのない子だ。けれど、どこかで見たような気がする。たぶん気のせいだ。
「うん」
僕は席を動くことなく、凛香は陽向の席に座った。ちらりと教室の隅のほうを見ると、陽向は大人しそうな女の子を捕まえて、楽しそうに談笑していた。彼は変わり者であって悪人ではない。あくまで『ヤバい奴』なのだ。おそらく、嫌いだという人間は少ないのではないだろうか。僕の推測が正しいとも思えないけれど。
「さて、いきなりだけど、君の家はどこ?」
「ほんとにいきなりだね。ここの近くだよ」
僕は教科書を机に置くと、凛香の瞳をちらと見た。澄んでいて、綺麗な瞳だと思った。この背後に死への覚悟を隠しているなんて、到底思えない。
「お、じゃあ、徒歩通学だったり?」
「そうだね。わざわざ自転車買うような距離でもないし」
僕の家からこの高校までは、歩いて十五分と言ったところだ。自転車があればもっと快適かもしれないが、わざわざ買う気にはなれない。それに、朝と夕方、ぼんやりと歩いて登校するのは嫌いじゃない。
「そっかそっか。わたしも、この近くなんだ。どっち?」
僕は背後にあたる方角を指した。
「あちゃー、反対かあ。まあいいや」
「え、なにが?」
凛香は僕の顔を見つめる。その瞳があまりに純粋で強い光を持っていたから、僕はなんとなくそれを憶えていられそうな気さえしてくる。
「放課後、君に会いに行くよ。だから家の場所を教えてほしい」
嫌だ、と切り捨ててしまいたかったけれど、結局僕にはできない。大きいものには逆らわない。これも凪咲の教えだ。僕自身も大切なことだと思う。
「…じゃあ、放課後、一緒に帰る?」
凛香は満面の笑みをもって頷いた。
凛香は校門で突っ立っていた僕のところへやって来た。僕は彼女を認めると、あえて足早に歩き始めた。しばらくして凛香が追いついてきて、僕に並ぶ。不満げに僕の脇腹を肘でつつくと、トゲのある声で言う。
「待っててくれてもいいじゃん」
「ごめん、人が多かったから」
僕はそっけなく答える。彼女は身体の距離が近くて困る。男の本能みたいなものは、こんな人間でも生きているらしいので、嫌なわけではない。むしろ本能では少し喜んでいる、ような気がする。ただ、僕は気持ちが蓄積しないから、あまり近づいてこられると困ってしまうのだ。それに、やはり下手に目立ちたくない。
彼女はまだご立腹だ。
「だから、そういうのは気にしないでほしいって言ったのに」
病院での哀しげな怒り顔を思い出す。その裏には、凛香なりの苦悩が潜んでいるのだろうけれど、まだ駄目だ。いや、気にしなくてよくなる時なんて来るのだろうか。たとえ凛香が僕に良くしてくれたとしても、僕はそこに到達できるだろうか。
「ごめんね、まだ慣れなくてさ」
凛香は膨れるのにも飽きたのか、今度はなんだか意地悪な目をして僕を見つめてくる。
「さては、モテないんだ?」
背後から自動車が接近していた。それにいち早く気づいた僕は、その動向をちらと窺いながら答える。
「うん、勿論モテない。君には解らないかもしれないけど、そんな人間もいるんだよ…って、ちょっとごめんね」
凛香の肘の辺りに腕をまわして、抱き込むように引き寄せる。ここは歩道がない。通れないこともないだろうけれど、僕は念のために彼女を避けさせる。これでクラクションなんて鳴らされたら気分が悪い。
「あ、ありがと…」
凛香は目を見開いて言った。なぜか、僕をまじまじと見ていた。僕は「いえいえ」と応えながら、凜香の腕を解放する。凛香はバツが悪そうに俯き、黙った。表情が判らなくて少し怖い。突然触ったから怒っているだろうか。
大袈裟だと笑いたくば笑え。僕は凪咲に生きる術を教わってから、それを慎重に慎重に、進化させてきたのだ。つまりはこれも、凪咲の教えの一部なのだ。
凛香は不意にこちらを向くと、僕に笑いかける。零れた、という描写が相応しいような笑みだった。顔のどこにも力が入っていないような、幸せそうな笑顔だ。思わずくらりとよろけそうになるのを堪えて、僕は笑い返す。やっぱり美人は得だ。僕は抵抗もできずに見蕩れた。
直後、ぽっかりと口をひらいた側溝に落ちそうになった僕を見て、彼女はもっと楽しそうに笑った。僕は胸の内がふわふわと定まらないまま、照れ隠しに減らず口を叩いた。
僕らはゆっくりと、一人なら十五分の道のりを二十分かけて帰った。
翌日、凛香はさっそく僕の通学路に現れた。僕は背後から近づいてくる彼女に気づいていながら、じっと前だけを見て歩いていた。
「や、し、ろ、くーん」
とん、とん、とテンポよく近づいてくると、凛香は僕の右肩を叩いた。僕は振り返るのもなんだか面倒で、そのままで返事をする。
「なに?」
「えー、テンション低いなあ」
凛香はお構い無しに隣に並ぶと、僕のほうを見て笑った。僕はそれを横目に見る。この子の瞳はなんだか苦手、らしい。けれど、ついつい見てしまう。
「でさ、わたし考えたんだけど、しばらくはあの公園で話そうよ。ほら、君の家の近くにある」
たしかに、その公園なら知っている。僕の家からほんの五分ほどのところにある、こぢんまりした公園だ。背の低い木でぐるりと囲まれ、寂れているが、むしろ落ち着いた雰囲気すら感じられる場所である。もはや公園というより、休憩処と言ったほうが正しいかもしれない。かつては遊具もいくらかあったみたいだが、いまではほとんど無い。子供よりもカップルや夫婦をよく見かける。
「ああ、たしかに悪くないけど、外でいいの?」
意外だった。わざわざ家の場所を教えさせて、家には来ないなんて。もっとも、僕としてはありがたいけれど。
「いやあ、本当はわたしだって君んちにお邪魔したいんだよ?勿論。でもね、なんか、君は嫌がりそうだなって」
僕は思わず立ち止まって、凛香の顔を見つめた。彼女もつられて立ち止まり、首を傾げた。
「…僕、もしかしてそんなこと言った?」
「ん?いや、言ってないと思うけど。でも判るんだよ。君はたぶん、そういう距離の詰め方を嫌うだろうってね」
ドクンと心臓が跳ねる。こんなことは滅多にない。僕はいま、感動していた。驚きと困惑が綯い交ぜになって、僕の胸中を満たしている。
生きている、と思った。本能のはたらきによって。
凛香は黙ってしまった僕を不審に思ったのだろう。右手を僕の顔の前で振って、呼びかける。
「おーい、八代くん?大丈夫?」
それで、僕もようやく冷静さを取り戻す。
「ああ、ごめん。ちょっとびっくりして」
凛香はきょとんとしていていたが、僕の言いたいところはすぐに判ったらしく、それで、くすくす笑った。
「すごいでしょー?なんとなく判るんだ」
凛香はおどけて言った。僕は減らず口をたたく気にもなれず、素直に褒める。
「ああ、ほんとに。心が読めるとかじゃないよね?」
凛香は一瞬だけ、いたずらっ子のような顔を見せて、「さー、どうだろうね」なんて呟いてから、ぽつりと続ける。
「勘だよ。これでも、いろんな人を見てきたから」
それで、なんとなく納得してしまう。たしかに凛香ほどの人気者なら、人は呼ばずとも寄ってくる。彼女が卓越した処世術を身につけていても不思議ではない。それにしても、超能力者みたいだと思う。
「その代わり!」
凛香は僕に半歩近づいて、人差し指を立ててみせた。
「名前で呼ばせて。それと、わたしのことも名前で呼んで」
「…呼ばれるのは、別に構わないよ。ただ、呼ぶのはちょっと」
感心していると、彼女はさっそく僕のボーダーラインに触れてくる。まったく、解っているのかそうじゃないのか、よく判らない。人は、よく解らない。
「えー、まあ、そうだと思ったけど」
「それも、判ってたの?」
「んー、なんとなくね」
彼女は僕に背を向けて歩き出す。僕もついて行く。
「ま、いいよ。わたしは諦めないからね、奏陽くん」
僕が並ぶと、凛香は笑って言った。また、ほんの少しだけ心臓が揺れたのが判った。一体何なのだろう、これは。
まもなく、僕らは公園に着いた。やはり人は居ない。いつもの事だ。住宅街に、ぽっかりと切り抜かれたように、静かな空間がある。入口正面の壁際に、自動販売機が置いてある。木をベースにした小さな屋根がついていて、下にはベンチが一つ設置されている。足元はコンクリートで固めてあるので、雨天時も快適に過ごせる。カップルを見かける原因はここにあるのだろう。
僕らは並んで自販機の前まで行って、順番に飲み物を買う。凛香はやっぱりコーヒーを買った。
「好きなんだね、コーヒー」
「まあね。ブラックはさすがに無理だけど」
僕らは並んでベンチに腰掛ける。僕はサイダーを一口含むと、凛香に問う。ずっと気になっていたことだ。
「ねえ、桜城さんはどうして、僕に話しかけてくれるの?」
凛香はぼうっと前を向いたままでコーヒーを啜った。缶から口を離すと、ややあって答えた。
「わたしね、あんまり優しい人を見たことなくて。みんなさ、上辺ばっかりなんだよ。特に男の子は、良くなかった」
上辺ばかり。凛香は誰もが認める美少女だから、そんな男も寄ってくるのだろう。彼女は続ける。
「それで、嫌になっちゃってさ。でも君は、そうじゃなかった」
「なんで?僕、桜城さんとほとんど話したことないと思うけど」
凛香はやっとこちらを向いて、苦く笑んだ。
「んー。理由はね、わたしにも上手く説明できないところがあるんだ。いずれ、君にも解ってもらいたいと思うけど。まあ、今は置いといてさ。君、病院であんなこと言ったでしょ」
それは憶えている。僕はたしかに、凛香の命が永くないと知りながら、死にたいと言った。生きていても死んでいても変わらないんだと言った。
「あれね、衝撃だったんだよ?実は、君のことずっと気になってたんだけど、声かける機会もなくてさ。だから、病院で会えたのはわたしにとってラッキーだった。それで、ちょっと話してみたら、やっぱり面白い人だった」
前から目をつけられていたのか。そんな覚えは全く無いけれど、まあ、本人が言っているのだから嘘ではないのだろう。
「それで、友達になろう、か」
「うん。わたしはもっと、君と仲良くしたい」
この僕が、凛香に気に入られている。僕は応えかねた。凛香に問題はない。問題は、僕の方にあるのだ。体質。これが全ての原因だが、さすがに話せない。
「…できたら、いいね」
「つれないなあ。ま、ゆっくりやろう」
凛香は酔っ払いみたいなセリフを吐いて、缶を傾けた。
僕は彼女と、仲良くしたいのだろうか。よく解らない。ただ、なんにせよ、できないのだ。
「諦めては、くれない?」
僕は勇気を振り絞って訊いた。引き返すなら今のうちだと、判っていた。しかし、凛香はその逃げ道をいとも簡単に塞いでしまう。
「やだ。…まあ、君がホントのホントに嫌だったら、やめるよ」
そう言われると、ダメだった。嫌、ではないのだ。少なくとも、凛香は人の機嫌を伺うことができる。僕に対しても、下手なことは言ってこないだろう。凪咲の教えに頼らずとも、彼女が警戒すべき相手でないことは判る。
だからと言って、友達になるのは躊躇われる。ああ、こんなことなら昨日、きっぱりと断っておけば良かった。そうすれば、さすがに凛香も諦めたかもしれないのに。『できるだけ人に逆らわない』を遵守していたら、こうなってしまった。
もはや、僕が自らの意思で、凛香を拒絶するしかないのだろう。けれど、それは本望ではない。
正直に言って、僕は嬉しかった。病院では驚き、そして恐れたが、昨日、彼女が話しかけてくれたのは、嬉しかった。自分でも信じられなかったが、それは認めねばならない。僕はたしかに喜んでいた。
理由なんて、考えるまでもなかった。このまま生きていても、僕には確実な破滅が待っている。このままでは生きていけない。そのうち、ぽっかり自殺して終わりだろう。僕は、その運命に抗いたいのだ。あるいは単に、昨日の笑顔にやられたのかもしれない。もう自分でもよく解らない。けれどセンテンスが頭にある以上、僕はたしかに嬉しかったのだ。
「いや、じゃ、ないけど」
そうして、歯切れの悪い返事をする。凛香はいたずらっぽく笑って、缶の中身を飲み干した。
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