日常

 三月の空気は奇妙な寂しさを含んでいる。終わりの季節、なんて在り来りだけれど、これならば厳しく冷たい冬の空気の方に、何かを掴んで放さないような心強さを感じる。

 卒業式は終わって、僕らはテストに追われていた。それもようやく今日で終わり、教室の空気は一気に弛緩する。あちらこちらで遊びの計画について話し合われる中、僕は窓際の席でぼんやりと頬杖をついていた。


「『汝、時の経ちたるを悔いるか?それは生命への冒涜である。生命は時間の内に宿れしものなれば』」

 先程から右隣でこんなことを言い続けているのは、僕の知人だ。右手で文庫本を開いて、そのページを読み上げている。どんな本を読んでいるのか、僕はちっとも知らないけれど、いつもこんなことを言っている。

「『ああ、しかしそれでも、私は過去へ還ることを希う。何人も止める能わず。私はただ、彼の腕に抱かれて死にたい』」

 僕は彼の声を全く無視して、ぼんやりと窓外を眺めている。もう五分くらいは経ったように思うけど、彼は一向に止めない。面白半分でもう少し放っておくことにした。やがて彼の声は意識からフェードアウトし、代わりに一人の少女に関することで、頭が一杯になる。たくさんのセンテンスが、僕の意識を支配しようとする。はっきり言って、僕には珍しいことだった。


 病院で凛香に会ってから、もう三週間が経った。あれ以来、彼女は毎日のように、僕に話しかけてくるようになった。しかし、学校では他の人間を振り切れないのか、あまり話しかけてこない。彼女の周りには、呼ばずともたくさんの人間が集まる。

 僕が話しかけられるのは放課後だ。僕らの家は想像以上に近かった。凛香は日頃の仲間たちのもとからするりと抜け出すと、通学路をぼんやりと歩く僕のもとへ急ぐ。勿論、見たわけではないけれど、容易に想像できる。教室を出る時には数人の友達に囲まれて歩いているのに、必ず、僕の帰路に現れるのだ。一人きりで。

 僕らは飲み物を片手に、下らない雑談を交わした、と記憶している。凛香についての情報が、みるみる増えていった。凛香は、一見すると傲慢にさえ感じられる勢いをもっている。それが、初めのうちは耐えがたかった。彼女が僕に何を望んでいるのかを考えると、とてもいい気はしなかった。ただ、凛香は根気強く、優しかった。僕がどんなふうに応じようとも、決してめげない。そしてとうとう、僕の心が折れた。

 センテンスをひとつずつ読んでいく。ネガティブなことはほとんど無かった。

 ただ一度、どうやら感情を爆発させてしまった、らしい。限界だったのだ。なにもかもが。


「『ならば行け。二度と戻って来るでない。この世に天使が降り立つ時、汝は必ず罰されよう』…やあやあ、少年よ。いつまでそんな態度をとり続けるつもりかね?」

 僕は時計を確認した。合計で十分ほどが経っていた。彼の根気には頭が下がる。いつもの事だけれど。

「なに?」

「クールだね、君は。僕をここまで放っておけるのは、君くらいのものだよ」

 工藤陽向くどうひなたというのが、彼の名だ。なんとなく僕と名前が似ているが、まったくの他人である。高校の入学式の時に初めて会った。その頃から、ずっとこんな調子だ。周囲には『ヤバい奴』というレッテルを貼られ、もはや一周まわって一部の人間には興味をもたれている、らしい。僕よりも十センチほど身長が高く、顔立ちも整っている。これで寡黙だったなら、凛香の隣が相応しいような少年だが、なんとも残念なくらい変わり者だ。


 陽向との出会いは、衝撃的なものだったらしい。僕は教室に入ってから、初めての休み時間のあいだに、彼に告白された。彼は自分の席からわざわざこちらまで歩いて来た。そして、持っていたハードカバーを僕の机にコトンと置き、ある一文を指し示して、こう言った。

「『Let's get out of here, and I wanna take you there, a paradise. Let me love you and be with you』…どうだい?僕の気持ち、受け取ってくれるかな?」

 英語の部分は、陽向の持っていたハードカバーに書かれてあったから憶えている。陽向はどこで練習したのだろうと思うほど、滑らかに英語を発音した。そして抑揚の大きすぎるハスキーボイスで、僕にこんなことを言ったのだった。

 当時、僕にはこの英文の意味なんて解らなかったし、いきなりこんなことを言われて困惑した。そんな形容では物足りないほど、僕は狼狽えた、らしい。結果、「は?」という間抜けな音しか出てこなかった。すると彼のほうが困ったような顔をして、僕をじっと見つめた。その日は結局、そのままに終わった。

 周囲で聞いていた女の子たちが明らかにざわついていた。美少年の奇行に、誰もが驚いていた。

 その日の帰り、病院に寄って、凪咲に英文を訳してもらった。凪咲は僕が紙に書きつけた英文を数秒見てから、笑って僕に突き返した。その訳を聞いて、僕は驚愕した。要するに情熱的な愛の告白、いや、プロポーズと言ったほうがいいかも知れない。そんな何かだった。

 凪咲はお腹を抱えて笑っていた。笑いすぎて涙が出てきたらしく、目元を拭う。

「僕はどうすればいいと思う?」

「友達になりたいんでしょう、きっとね。よかったじゃない。なってあげなよ」


 翌日、陽向は再び僕のもとへやって来た。僕はひとまず、昨日の態度を詫びた。いくら彼が突飛なことをしたからと言って、無視していいわけではないだろう。陽向はとても気障に、気にするな、というような旨の言葉を述べた。不思議なことに、この時の言葉は憶えていない。

 それから僕は、昨日の言葉の意味を確かめる。

「あれは、友達になろうってこと?」

「ああ、そうとも言えるかな」

「わかった。じゃあ僕らは友達になろう」

 僕はらしくもなく、そんなことを言った。あくまで凪咲の教えに忠実に動いたのだった。

『意地悪じゃないと思える人には、やさしくね。奏陽には友達なんて解らないかもしれないけれど、それでも、きっといつか、それが奏陽を助けてくれるから』

 陽向は僕の言葉に感激したらしく、頬を紅潮させ、僕に握手を求めた。彼があんまり僕の目を真直ぐに覗き込んでくるものだから、僕のほうも目を逸らせなかった。


 こうして、僕らは一応、友達になった。勿論、僕はよく解らないままだ。けれど、僕は陽向を嫌いでない。陽向は可笑しいくらいに真直ぐだが、僕が煩わしいと思うことをしてこない、らしい。たとえ僕が返事をしなくても、勝手にわけの解らないことを話し続ける。また、仲間意識を押し付けるようなこともしなかった。それが何よりありがたかった。

 まるで僕のことを全部解ってくれているかのように、彼は僕の隣に居続けた。それで、僕は陽向のことを友達とは呼べないけれど、ずっと一緒に行動している。二年への進級時に一度クラス替えがあったが、また同じクラスになった。おかげで僕は二年間、必要以上に退屈することがなかった。

 だから、彼には感謝している。それは確かだ。それ以上のことは、僕自身もまだ解っていない。ただ、陽向を他と区別して見ていることは確かだ。最近では、僕はけっこう能動的に、彼を求めている。


「…陽向は変わらないね」

 現実に意識を戻した拍子に色々なことを思い出し、ふっとそんな言葉が漏れた。僕が言うのも可笑しいかもしれないけれど。陽向は僕の言葉に顔を顰めて、手を伸ばしてくる。それを僕の額に当てる。大きく、白くて冷たい手だ。

「心配しなくても熱はないよ」

「本当かい?君にしては、言葉に熱がこもっていたから、心配したよ」

「褒めてるの?馬鹿にしてるの?」

「褒めてるに決まってるじゃないか。いつもそのくらいの温度で話してくれたら、僕は飛び上がって喜び、君の手の甲にキスするだろう」

 陽向が手を引っ込めるのを横目に見て、冷たい視線をくれてやった。彼は首を竦めて大袈裟に落ち込むと、仮面のような笑顔に戻った。顔立ちが整っているからだろうか。陽向の表情は作り物めいてみえるらしい。今もそうみえている。

 後で知ったことだが、陽向はアメリカ人の父と日本人の母をもつハーフである。母親に似たのか、どちらかと言うと日本人の特徴を多くもっているが、高い鼻や灰色がかった青の瞳などは、父の遺伝なのだろう。日本人離れした美しさがある。彼の英語がやたら流暢なのも、そのためだ。

「陽向はさ、どうしてこんな無愛想なやつと友達になろうと思ったの?」

 陽向は表情を変えないまま首を傾げて、しばらく考えた後、低い声で答える。

「Love at first sight. 理由なんてないのさ」

 相変わらず発音はネイティブスピーカーのそれだ。今のは僕でも判る。

『一目惚れ』いかにも陽向らしい回答だ。

 僕は「ふうん」と唸って、また前を向いた。陽向もようやく黙ったところで、担任教師が入って来た。


 教師が伝達事項を全て言い終わり、ようやく今年度も終わった。誰も彼もが春休みを目前に浮かれている。とうとう三年生になる。高校生活もあと一年というわけである。

「いよいよ、あと一年か」

 同じことを考えていたのか、隣で立ち上がった陽向が言った。珍しく、その声に現実的な情緒が含まれていることに気づき、そんなことに気づいた自分に驚く。どこにそんなセンテンスがあったのだろう。

 つられて立ち上がった。僕らは自然と肩を並べて歩き始める。

 廊下には、まだ人の姿が多かった。右手の窓から見下ろせる中庭には、桜の木が一本植えてある。この中庭は陽当たりが良く、毎年、見事に桜が花開く。と言っても聞いた話であって、実際に見たのは一回だけだが。入学式の時には、あの桜の下が人気の撮影スポットとなる。

「少年、君は、進路は決めたかね?」

 ぼんやりと桜を眺めていた僕は、唐突な質問に困ってしまう。進路など、考えていなかった。

「まだ」

「そうか。…僕もだ」

「わたしもだよ」

 真後ろから聞こえた声に、心臓が跳ねる。振り返ると、やはり凛香がいた。今日は、髪の毛を後ろで一つにまとめている。

「桜城さん」

 彼女の顔と名前は、もう問題なく一致する。もとより特徴の多い顔なのだ。覚えやすかった。それは陽向についても然りである。

 凛香は僕の顔を見上げる。見上げられるほどの身長差は無いはずだが、凛香が少し腰を屈めるような体勢でいるので、そんなかたちになる。なんだか不服そうにみえる、と思ったら次の瞬間には不満を投げられる。

「いつになったら名前で呼んでくれるのかな?」

 凛香はあれ以来、名前で呼ぶように言ってくる。それは彼女なりの距離の詰め方なのだろうけれど、僕には煩わしかった。

「そういうの、苦手なんだって言ったでしょう?」

 凛香はかるく頬を膨らませると、僕の隣に並んだ。そんなに行儀良くしたいわけではないけれど、三人も廊下に並ぶのはすこし気が引けた。しかし彼女はそんなのお構い無しだ。

「少年、桜城さんと仲が良いのか?」

 見上げると、陽向が困惑気味に僕を見ていた。僕は視線を前に戻し、真直ぐ歩きながら答える。

「病院で偶然会ってね。それ以来、桜城さんに気に入られてる、らしい」

 僕はありのままの事情を説明した。陽向はあっさりと納得してしまったらしく、「そうか」とだけ呟いて、また黙ってしまった。

「工藤くん。わたしのこと、知ってる?ってさすがに知ってるか。一年、同じクラスにいたもんね」

「ああ、勿論だとも。君は目立つからね」

 陽向のほうを盗み見ると、そこにはやはり、整った微笑があった。これで変わり者じゃなかったら、彼は相当モテるのだろう。

 陽向はこんなふうだが、本の内容をしつこく朗読してきたりするのは、僕と二人きりの時だけだ。日頃は、確かに本の言葉を引用しつつも、案外ふつうに話している。しかし口調はこのままだ。理由は僕も知らない。もう二年の付き合いになる、らしいけれど、僕は彼のことを深く知らない。知りたいとも思わなかったし、陽向はそれを強要しないから、僕は彼の隣に居られる。

「前から思ってたけど、イケメンだよねえ。ハーフなんだっけ?」

「ああ。半分はアメリカ人だ」

 二人は僕を挟んで会話を続ける。なんだか息苦しい。僕が居場所を見失いかけた時、ようやく下へ続く階段に着いた。ここは狭いので、並んで歩けない。僕らは陽向を先頭に下りる。


 玄関にたどり着き、僕は靴を引っ張り出しながら、凛香に訊ねた。

「そう言えば、今日は友達と一緒じゃないの?」

「あー、うん。なんか皆して映画見に行くって言ってさ」

「え、じゃあ、なおさら」

「だって、ホラー映画なんだよ?ムリムリ。わたし、部屋で停電になってもパニックになるもん」

 初耳、のはずだ。凛香は怖がりらしい。かく言う僕も、怖いものはめっぽう苦手だ。子供の時から備わっている感覚は、未だに変わらない。

「気持ちは解るな。僕もそういうのダメなんだ」

「でしょでしょ?よかったあ、奏陽くんまで行こうって言いだしたらどうしようかと思った」

 僕は凛香の言葉に頬を緩めてみせながら、ふと気になって、先に靴を履き終えた陽向に訊く。

「陽向は、怖いの平気だっけ?」

「僕かい?そうだね、得意とは言わないけれど、わりと平気だ」

 なんだかイメージ通りで安心する。こういう時に、イメージと事実が一致しないと、僕はたちまち不安になる。理由は僕にもよく解らないけれど。


 僕らは再び、並んで歩き始めた。今度は凛香を中心にして歩く。まだすこし肌寒いが、空気はずいぶん春めいている。淡い青空が頭上いっぱいに広がって、遠く、細く千切れた雲がゆったりと漂っている。穏やかな春風が頬を撫でる。

「ね、せっかくだから、ご飯行こうよ」

 凛香は僕と陽向を交互に見ながら言う。

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