遭遇
廊下に出て、来た道を引き返していく。今度は反対に、多くの人とすれ違った。世界が唐突に動き出したみたいだった。僕はうつむき加減に歩いていく。
凪咲のことを考えていた。
だから僕は、曲がり角の向こうからやってくる人に気づけなかった。ぼんやりしていて、その人影を認めた後で、すぐに立ち止まることができなかった。そして、見事にその人とぶつかる。
「ああ、すみません。怪我とか…」
僕が謝罪する前に、その少女が声を発した。僕と同じ高校の制服を着ていた。そして、僕を見上げて目を見開いた。いっぽう僕は、頭のデータベースから、彼女の特徴に合致する人物を探していた。それは案外すぐに見つかった。自信がないけれど、そんなのはいつもの事だ。
「桜城さん?」
僕は、恐らくはその少女のものと思われる名前を呼んだ。彼女は小さく頷き、すぐに笑って僕と目を合わせた。
男女問わず人気があり、いわゆるクラスの人気者である。誰もが憧れるが、未だに恋人をつくらない、らしい。あくまで噂に聞いただけだ。
なんにせよ、僕が簡単に思い出せるくらいに特徴的な存在だった。
「八代くんは、なんでここに?」
彼女はほんのすこしだけ首を傾げて、僕に訊ねる。その小さな動きでさえも、なんだか完成されたもののように思われた。僕は凛香の顔を見たままで答える。
「知り合いの見舞い。桜城さんこそ、なんでここへ?」
彼女は微笑んだまま、僕に背を向けた。肩の下くらいまで伸びた髪の毛がふわりと揺れて、甘く香る。
「せっかくだから、下でゆっくり話しましょう」
僕は凛香に従って隣を歩いた。凛香は女の子にしては背が高い。二人ぶんの足音が冷たい廊下に鳴る。病院の廊下はスリッパの音ばかりが耳について、あまり好きじゃない。
一階の待合室まで下りると、凛香は唐突に足を止めて、僕にソファを勧めた。僕はてっきり彼女も座るものだと思い込んで従ったのだが、彼女はふいとそっぽを向いて、どこかへ歩いていった。その動きを目で追って、彼女が飲み物を買うつもりなのだと知る。僕は白い床をぼんやりと眺めながら、凛香をじっと待った。
「お待たせ。炭酸とコーヒー、どっちがいい?」
戻ってきた凛香の両手には、缶とペットボトルがあった。僕は返答に迷って、彼女の好意を素直に受け入れることにした。と言うより、それしかないだろう。
「炭酸で」
「アタリだね。わたし、炭酸飲めないんだー」
凛香はからからと笑いながら、僕にペットボトルを渡し、隣に腰掛けた。とりあえず礼を言って受け取ったが、僕は困惑していた。先程から、すっかり凛香のペースに飲まれている。それでも、僕は抗うことをしない。
それが一番だ。大きなものには抗わない。
「炭酸、嫌いなの?」
「なんかね、チクチクするし、お腹いっぱいになるし」
凛香は前を向いたまま答えて、プルタブを持ち上げた。かるい音がして封が切れる。僕はその様を横目に捉えながら、ペットボトルのキャップを捻った。一口飲んでから、またキャップを閉める。正直、喉なんて渇いていない。
「で、なんで桜城さんは、ここへ?」
「んーと、八代くんには話してないよね。実はね、わたし、身体が弱いんだ」
「それは、病気で?」
凛香は頷き、僕の知らない病名を言った。それはちっとも日本語に聞こえないのだった。
「中学生の頃からそんな感じで。去年、家で倒れて、やっと原因が判ったんだ」
凛香は缶の上のほうを持って揺すると、また一口含んだ。それからようやく、僕のほうを向いて話し始める。
「だから、体育とかは今でも見学。お医者さんは、もっても二年くらいだろうって」
凛香はあっけらかんと言った。僕は絶句する。その言葉に、まったく翳を見つけられないことも怖かった。けれど頭のどこかでは、それを冷静に受け止めている自分も居て、それがすこし腹立たしい、ような気がした。たぶん気のせいだ。
「余命二年ってこと?」
「そ。あ、でも別に、そんなに気にしなくていいよ。思ったよりもちょっと早かっただけ」
「治らないの?」
「臓器移植しかないらしい。一応、そういう手続きはしてるけど、なかなか順番がまわってこなくてさ。まあ、覚悟はできてる」
覚悟。その言葉を胸の内で反芻する。僕と同い歳の少女が、易々と言える言葉ではないように思えた。けれど彼女の声は凛と響く。そこにはなんの憂いも感じられなかった。
「…なんで、そんな大切なことを、僕に教えてくれるの?」
凛香は一瞬、ぽかんと呆けたように僕の顔を見つめ、それからくすくすと笑った。
「やだな、大切だなんて。友達にも普通に話してるよ。隠すようなことじゃない」
僕は背中に冷たいものを感じた。この美少女の背後に、死神が迫っているなどと、考えたこともなかった。衝撃が大きすぎるのだろう。僕は普段ではありえないくらい、他人事に頓着していた。
なにより僕の心を揺さぶったのは、やはり凛香の態度だった。彼女は最早、死を恐れていないようだった。
凛香は缶の中身を一息に飲み干すと、曖昧な表情を見せた。悲しんでいるようにも喜んでいるようにもみえた。
「運命、なんて恰好いいこと言うつもりはないよ。でもね、どうしようもないことだってあるでしょう?わたしだって、最初は嫌だと思った」
「…今は?」
「諦めた。考え方が変わった、のかもしれない。わたしは、永く生きられない、かもしれない。ただそれだけだよ」
凛香は斜め上をぼんやりと仰ぎ見ながら言った。僕は返す言葉が見つからず、ただ黙っていた。凛香はそれを見抜いてか、諦めたように笑う。
「…それに、ほら。治るかもしれないでしょう?」
まるで言い訳みたいに聞こえる。続けて僕に問う。
「ねえ、八代くんは、長生きしたいと思う?」
「…いや、それはないかな」
僕は素直に答える。たとえ目の前に余命二年の女の子がいるとしても、それは変わらない。僕は早いうちに、死んでしまいたい。
凛香は僕の反応が意外だったのか、僅かに瞳を大きくして、静かに続ける。
「どうして?」
僕は答えあぐねた。今ここで、彼女に僕の体質や過去を話す必要もないように思われる。しかし僕の自殺願望は、それらに依存している。どうやって誤魔化せば良いのか、判らなかった。
「なんていうのかな、生きていても、死んでいても、変わらないんだ」
結局、出来の悪い
凛香はますます僕に興味をもったらしく、距離を詰めてくる。僕は思わず身をひいた。凛香はその様子を認めて、「あ、ごめん」と謝ってから、それでも好奇の目を引っ込めない。
「よかったら、詳しく教えてくれないかな?」
僕は逡巡して、首を横に振った。これ以上は言わないほうがいい。大きなものには逆らわない、けれど、僕は身を護ることも忘れない。
本当は心のどこかで、どうでもいいと思っていた。けれど、ここは凪咲のいる病院だから、僕はそれを押さえつけて、生きてみようと努めていた。もし彼女と出会ったのがここじゃなかったら、僕は案外、ぺらぺらと全てを話していたかもしれない。
凛香は不服そうに口を尖らせて、「けち」と呟いた。そんな仕草も可愛いのだから、美人は得だと思った。僕なんかが真似ても、きっと頬を張られて終わりだ。凛香はころりと表情を変えて、再び僕に笑いかける。
「まあいいや。いずれ教えてほしいけど、それ以上に、わたし、君に興味が湧いてきた」
「え、僕に?なんで?」
「だって、余命二年の人間の前で死にたいって言った人、初めて見たもん。君は、みんなとは違うんだね」
みんなと違う。それは、すこしの棘をもって僕を刺激する。勿論、凛香にそんな意図は無いと判っているのだけれど、今の僕はそんなことに敏感になっていた。
しかし、言われてみればその通りだ。凛香は死を恐れていないようだったが、それでも、だろう。リアルな死を未来に見据えた人間に対して、死にたいなんて言うのは、喧嘩を売るも同然の行為だ。
凛香はお構い無しに続ける。
「ねえ、友達になろう?」
「友達…」
僕が彼女の言葉を復唱したのは、驚いたからではない。ただなんとなく、その言葉が新鮮に聞こえたからだ。友達って、なんだっけ?僕は考えてみるけれど、頭のどこにも定義文は載っていなかった。寧ろ辞書みたいな言葉が先に浮かんできて、我ながら笑えた。
凛香は僕の反応を拒否と捉えたのか、眉を曲げて不安を表した。僕は慌てて首を振る。
「あ、えっと、嫌なわけじゃなくて。あの、桜城さんは、可愛いし、人気者だよね?僕なんかとは…」
凛香は表情を一変させて、僕を睨んだ。怒っているのだと思ったが、瞳は妙に哀しげな翳を含んでいた。
「ごめんね、君に怒るのは筋違いだって解ってる。でも、そんな言い方はやめてほしい」
僕は気圧されて、素直に謝った。人のこういうところが怖い。下手に触れると、態度をころりと変えてしまう。その引き金がどこにあるのか、僕には未だによく判らない。
凛香は「こっちこそ」と返す。僕は気を取り直して続けた。
「その、ごめん、ほんと言うとさ、友達っていうのがよく解らないんだ。今までそんな人いなかったから」
凛香はきょとんと、目を丸くした。その反応は予想できていた。明らかに一般的な返答ではない。たとえ、本当に友達が一人も居なかった人間でも、こんなことは言わないだろう。そのくらいは、僕にもわかる。
けれど、僕には本当に解らないんだから仕方がないだろう。
ああ、認めよう。口が滑った。こんなことを言うつもりじゃなかった。正解は、「じゃあ、よろしくお願いします」だ。解っていたのに、どうして僕はそんなことを口走ったのか。
きっと、凪咲の影響だ。もうとっくの昔に言われたことを、僕は
『できる限り誠実にね』
僕は許容できる範囲内で、嘘を吐かない。
凛香はしばらくそのまま黙っていた。僕はすこし俯き、彼女の反応を待った。やがて彼女は、声をあげて笑い始めた。近くに座っていた老婦人がじろりとこちらを睨む。
「ちょ、桜城さん。ここ病院」
「あ、ああ、ごめん。だって、君がおかしいこと言うから」
凛香は声のトーンを落としたが、それでもまだ、そこには笑いが含まれていた。彼女はやさしく微笑むと、僕の顔を見て言う。
「大丈夫。君が解らなくても、わたしは多分解るから。んーん、この際解ってなくてもいい。解るまで、君に付き纏ってやる」
その声は優しい。なぜ、この子はこれほど他人に拘泥できるのだろう。僕とは思考回路がまるで違う。僕は半ば諦めて、笑い返した。
「付き纏うって、なんか怖いな」
「悪いけど、君に拒否権はないからね。わたしは今、君のことを猛烈に気に入った」
なんだか解らないけれど、気に入られたらしい。クラスでは名前すらほとんど出ない僕が、クラス、いや学校一の美少女に?
ふざけた話だ。あまりにも唐突な展開に、考えることすら馬鹿らしくなってきた。却って笑えてくるくらいだ。
凛香は急に立ち上がると、僕に向けて親指を立ててみせた。口の端を持ち上げて、なんだか気取ったような笑みを浮かべている。
「かく…期待しててね」
「そこで言い間違えないでよ」
僕が減らず口をたたくと、凛香はより嬉しそうに頬を緩め、僕に背を向けた。「じゃあ、また明日」
僕は同じ言葉を返しながら、遠ざかる彼女の背中を見送る。本当は一緒に帰っても良かったけれど、あえてそうしなかった。今日は疲れた。僕の人生には、これほどの起伏は要らない。そう思った。
どうせ、何も持っていられないから。
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