歩み寄る
病室
リノリウムの床を、天井の蛍光灯が青白く照らしている。左右に病室のドアが並んだ、ゆったりとした幅の清潔な廊下を歩いている。この三階へ上がってきてからというもの、不思議なくらい、だれともすれ違わない。病院の職員にすら会わない。
院内はひたすらに静かだった。そのさまは、もはや不気味に感じられる。僕は目的の部屋の前で足を止めた。ここへ来るのも慣れたものだった。
ドアはスムーズに開いて、僕の目に光が飛び込んでくる。自然の与える光は、どうして人工的な光とこんなにも温度が違うのだろう。不思議でならない。
その光源、窓際に置かれたベッドに、彼女は仰向けに横たわっていた。首だけをこちらに向けて僕を見つけると、口元を緩めて微笑んだ。
「いらっしゃい。また来てくれたんだ」
僕は曖昧に頷いて彼女に歩み寄った。そばに置いてある見舞い客用のパイプ椅子に腰掛けると、鞄から文庫本を取り出して彼女に渡した。タイトルも本文も英語で、僕にはさっぱりなものだった。
「これで合ってる?」
「合ってる合ってる。ありがとう」
彼女は愛しそうに文庫本の表紙を撫でると、僕の顔を真直ぐに見て言った。彼女の瞳は不思議な色をしている。なんとも形容できない。無理に言い表すとすれば、透き通った藍色。僕はこの目に見つめられると、たちどころに素直な少年に戻ってしまう。死にたいだなんて、口が裂けても言えないような気がしてくる。たとえ、朝起きる度にそう思っているとしても。
彼女の髪はもっと長くて、いっときには腰くらいまで伸びていたのだけれど、それも、邪魔になるからと言って、肩の上でばっさりと切ってしまった。それは誰に対する配慮なのか。とても訊けない。恋人の好みに合わせて、その長髪を大切にしていたのだから。
彼女が文庫本に目を落として、ページをぱらぱらと捲り始める。その、白くて細い指先で、紙をつまみ上げるようにしてページを繰る様が、僕は好きだった、らしい。彼女のくせはすっかり僕のものになってしまった。僕は本を読む時、左手で背表紙を支えながら、右手で大切にページを捲る。
僕はその様子をぼんやりと視界に収めながら、これまでの事を思い出す。神様は、なぜ僕をこんな身体にしたのだろう。未だに思う。もっとも、最近はそんなことよりも死にたいと思うことのほうが多いけれど。僕にとって、明日は今日の続きではなかった。
「学校はどう?上手くやれてる?」
彼女はパタンと音をたてて文庫本を閉じると、それを枕元に置いてから僕に訊ねた。僕はしばらく考えた後、「うん」と返事をした。
半分ほんとうで、半分うそだ。
僕はちっとも目を動かさずに答えたけれど、彼女の瞳は全部を見透かしているようにみえた。僕はたちまち狼狽して、それで、補足を加えて、結局は本当のことを言ってしまう。
「友達はいないよ。でも、みんな普通に接してくれる。いじめにも遭ってない」
「…そう。ならいいけど」
彼女はやさしく笑んで、腰のあたりまで下げていた布団を胸元まで引き上げた。
「いつもどおりでしょ?」
僕は母親に叱られて言い訳をする子供みたいに言ってみる。彼女はこんな状態でもやさしい。僕の心配ばかりしている。歳は五つしか離れていないし、彼女は病身でも充分に美しいけれど、なんだか僕よりずっと年老いているように感じられる。『お母さん』というのとも違う。僕はいつもそんなことを思っては、結局、彼女を『お姉さん』と形容している。
「別に、責めてるわけじゃないんだから」
彼女はくすくすと笑って、僕の頭のほうへ手を伸ばしてくる。その手はふわりと、僕の髪を抑えた。僕は目を細める。純粋で子供のような好意を、彼女に向けていた。
「へんに緊張しなくていいのよ」
そう言って、彼女は僕の頭を撫でた。僕はなんだか泣きそうになる。彼女にはすべてお見通しなのだろうか。僕の体質が、未だにどれほど僕を苦しめているのかも、彼女なら解ってくれるだろうか。
僕は話題を変えたくて、彼女の手を取ってベッドの上に戻し、それを軽く握った。彼女は同じくらいの力で、僕の手を握り返した。
「母さんも、
凪咲は困ったように眉を曲げて、天井を見上げた。僕はその横顔を観察した。もうずいぶん長い付き合いになるけれど、この人の胸の内は読めない。
「おばさんによろしくね。でも、あんまり気にしないでって伝えて。私は、まだ大丈夫だから」
「…それは、本当なんだよね?」
「ええ、もちろん。
凪咲は僕のほうへ身体ごと向き直った。僕は凪咲の笑顔を見て、その言葉を信じることにした。そうするしかなかった。
不意に、病室の扉がひらいた。若い女性の看護師が、男性医師を連れてやってくる。僕は凪咲に目配せした。凪咲が小さく頷いたのを確認すると、立ち上がってベッドに背を向ける。近づいてくる二人に軽く会釈してから、病室を出た。背後で、医師が決まり文句のような問診を始めた。
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