第4話 事件現場にて



 水沼英二が住んでいた場所は、築四十年くらいになる木造二階建てのアパートの一室だ。


 栃木県内でも交通の便の良い場所ではあったが、築年数の古さからか、水沼英二以外の入居者はいなかった。


 ぼろいのにも関わらず、家賃がそれなりに高い事もあってか、入ろうとする人はいなかったという話だ。


 そんなアパートも水沼英二が焼死したことによって、建物の外観は焼けただれた跡はあるもののかろうじて残ってはいるが。内部は改装でどうこうできるレベルではなくなっていた。


「水沼英二だけは盛大に燃えた。だが、建物は木造なのにさほど燃えなかった。何故だ?」


 流香が車から降りたのを確認してから、俺は火事の現場を顎で指し示してそう説明する。


 現場はまだ『立入禁止』の黄色いテープが貼られており、現場を荒らしたりしている者はいないはずだ。


「人を燃料にしたのではないでしょうか? 一ヶ月あれば可能でしょうね」


 流香は現場をじっと見つめて、先に進もうとはしない。


 幽霊か何かでも見えているのだろうか?


「人が燃料になるはずがない。男の場合、体重の六十パーセントが水と言われているんだ。水分を多量に含んでいる人は燃料にはなり得ないんじゃないか?」


「警察だったら、知っているものとばかり思っていました。あなたには失望してしまいました」


 流香はため息を吐いて、蔑むような目で俺を見る。


「俺は何か間違った事を言ったのか?」


「いいえ、知識の問題です」


「ならば……」


屍蝋しろうです。屍蝋であれば、人は燃料になるのではないでしょうか?」


「あっ! そうか!」


 なるほど、屍蝋か。


 それは盲点だった。


「だが、それだと話がおかしくなる」


 屍蝋は、永久死体の一形態だ。


 腐敗菌が増殖しない状況下でのみ起こりうるのが屍蝋化のはずだ。


 腐敗菌が増殖しない環境下で、外気と長期間遮断された末、死体の腐敗が起こらず、体内の脂肪が変性して死体そのものが蝋状またはチーズ状に変化したのが屍蝋だ。


 蝋状になった死体は燃料になると言えば、燃料にはなる。


 しかし、だ。


 屍蝋というのは、乾燥した環境ではなく湿潤かつ低温の環境においてできあがる事が多い。


 わずかな時間で死体が屍蝋になるはずもなく、流香の発言は現実離れをした憶測に過ぎないような気がする。


「……そうです。屍蝋だけでは、完全な燃料にはなりません」


「違う。そうじゃない。屍蝋になるまで時間がかかるはずだ。そんなすぐに屍蝋にならないんだよ、人は」


「私は言っていたでしょう? 亡くなってから一ヶ月は経っている可能性があると」


「屍蝋化したから、今回の計画を実行したとでも?」


「ここでは屍蝋化した死体を使ったかどうかが知りたいだけです。犯人の動機、トリックその他の些末な事柄には全く興味がありませんし、そういった事柄は警察や探偵の領分でしょう?」


 流香は『立入禁止』の黄色いテープをくぐって、建物の方へと歩き出した。


「……その通りではあるんだが」


 流香は探偵ではないし、事件があったとしても、犯人だとか動機だとかトリックだとかには全くといって良いほど興味を示さないし、解明しようともしない。


 怪異、あるいは、現実離れしたものがあるかどうかが重要で、何かしらの痕跡があるとこうして調査に同行してくれたりするのだ。


 それで捜査の方向性が導き出せるのだから俺的には悪くはないのだが……。


「どこが現場か分かっているのか?」


 流香を追いかけて、横に並んだ。


「おおよその見当は付きます。私としては現場よりも台所に興味があります」


「水沼の生活がどんなのだったか知りたいとか?」


「いいえ、危険物があるかどうかが重要なのです」


「ガソリンとかを使って焼いたような形跡はなかった。その線はないんじゃないか?」


「トリックを仕掛けた嵯峨野正隆は故意に証拠を残している可能性さえあり得ます」


「どういう意味だ、それは?」


 流香はアパートの中に入り、燃え方が酷い方へと歩を向ける。


 一端立ち止まり、右目を閉じた。


 息を吸い込む。


 それでも、足りなかったのか、年相応のかわいげな音を立てて何度か鼻で空気を吸い込んだ。


「火葬場と同じ匂いに混じる油の燃えカスのような残香」


 流香はそう呟くなり目を開き、前へと進んだ。


「屍蝋化した死体を焼いた時にする匂いなのか、それは?」


「屍蝋を焼いた事はありませんので知りません。知っている方がおかしいとは思わないでしょうか? ですが、匂いには油が混じっているような気がします」


「……なるほど」


 流香は前から知っていたとばかりに水沼英二の部屋の前で立ち止まった。


 ドアが壊されているためか、手前にある台所は角度的に死角になるからかあまり見えないものの、水沼英二が焼け死んでいた部屋はしっかりと見える。


 部屋全体が黒焦げになってしまっていて、床は落ち、天井も焼けただれていて穴が開いている。


「姉も同じ考えのようです。この部屋で殺されたのではないのでしょう。魂の欠片が皆無です。他で殺された後、どこかで屍蝋化されたのではないでしょうか?」


 流香はそう言いながら、部屋へと踏み込んでいく。


 仕方なく俺も部屋へと入った。


 流香は奥へと行くかと思っていると、手前の台所で立ち止まった。


 台所は半分ほど焼けているだけで、奥の部屋に比べるとまだ台所としての形が残っている。


 流香は黒焦げになっている冷蔵庫を開けて、中を確認するも、探している物がなかったからかすぐに閉めた。


 次は戸棚を開けて、


「アルコール度数六十パーセント以上になると、第四類のアルコールに分類されます」


 これが事実ですと言いたげに、戸棚に置かれている酒瓶を指さした。


「そうか……第四類のアルコールは危険物か」


 そこに置かれている瓶に貼られているラベルを見て、俺は納得した。


 度数九十六度で有名なポーランドの酒瓶が四本も置かれていた。


 しかも、どの瓶も空になっている。


 近くでたばこを吸っただけで引火する事でも知られているお酒で、このお酒を扱う際は火気厳禁なのだ。


 これは燃料になり得るのではないだろうか。


「屍蝋にアルコールを含ませたのか、それとも、口から胃の中に流し混んだのかは知りませんが、第四類危険物を使って屍蝋に火を付けて燃やしたのでしょう。燃料に燃料をくべる事で、骨まで灰になるほど火力が発生するのかは検証のしようがありませんけれども」


 流香は戸を閉めるなり、俺の横を通り過ぎて、水沼英二の部屋を後にした。


「流香が確認したかったのはこれだけなのか?」


 俺もすぐに部屋を出て、そう問うと、


「はい。赤い宝石を使っていない可能性がゼロではないと思って期待はしていたのですが、すっかり裏切られてしまいました。もうこの世には存在していないのかもしれません」


 立ち止まってそう言うなり、また歩を進めた。


「何の事だ?」


「六角さんが見せてくれた動画の最後に見せつけていたでしょう? あの宝石です」


「あれがどうかしたのか?」


「賢者の石かもしれない……と思っていただけです。忘れてください。もし、賢者の石であれば、魔法使いの真似事の媒体として使っているのではと思っていただけですので」


「ああ、よく物語に出てくるアレか。あれが賢者の石なのか?」


 あの宝石はそんな大層な代物だったというのか。


 信じられないんだが。


「分かりません。嵯峨野正隆さんの部屋に同じ第四類危険物がなければ、残りの賢者の石を使って焼死した可能性が捨てきれません。お酒も、あの赤い宝石もなければ、の話ですが……」


 その辺りをもう一度調べなおす必要がありそうだ。


 上司に相談してみるか。


「でもな、賢者の石による人体自然発火とか、屍蝋化した死体を燃やしたとか言っても信じてはもらえなさそうだな」


「そうでしょうね。私も信じません」


「流香。君が言った事だろうが」


「実際に見たワケではありませんので。あくまでも状況証拠と個人的な想像に過ぎません。第一、証拠がありません。屍蝋にどうやって火を付けたのか、どのようにして人体自然発火を演出したのかは私には判じる事ができません」


 流香の言う通り、証拠はない。


 あの酒瓶などから嵯峨野正隆の指紋が検出されたりしない限り、証明は難しいだろうが、そんなものがあるとは思えない。


「この付近での一ヶ月から二ヶ月前の防犯カメラの映像を解析すれば、嵯峨野正隆さんの姿が写っているでしょうね。ですが、そこまでしか突き止められないことでしょう。どこで水沼英二を殺したのか、どこで水沼英二を屍蝋化させていたのかは、私にも皆目見当もつきません。私は退魔師であって探偵ではありませんし」


「その辺りは警察の仕事だな」


「ええ。では、帰りましょう」


「もう帰るのか? 嵯峨野正隆の現場には行かなくてもいいのか?」


「必要ありません。賢者の石は消滅している気がしますし……」


 流香はそれ以上何も言わず先を急ぎ、駐車していた車に乗り込んだ。


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