最終章 番台

 日曜の夜、ひなた湯の閉店まであと1時間のところで、より子が突然、現れた。柱時計の22時の時報が、ちょうど鳴り止んだ頃合いであった。


 もうあのお嬢さんは来ない、と決め込んでいた文治は、虚を突かれた。

 しかし、昼過ぎに達夫がやってきて、そして帰った後、彼女が現れたらどうするか、ということについてはすっかり腹を決めていたので、その決定に従い、落ち着き払って、言った。


「いらっしゃい。」

「あの。」

「はい。なんでしょう。」

「昨日のことなんですけど。」

「昨日。ああ、タオルを忘れたお嬢さんでしょう。タオルは取っておいてありますから、ちょっと、」

 目を合わせず事務的に喋る文治の言葉を遮って、より子は尋ねた。

「何故ですか。」

 文治は、ここで初めてより子の目を見て、想定外の質問にきょとんとしてしまった。

「何故、というと、忘れ物のことですか?ウチはね、一週間は忘れ物を預かるって事になっていましてね。」

「違うんです。忘れ物の話じゃないんです。あの、」

 一瞬、間を置いて、それから堰を切ったようにより子が言った。


「あの、勘違いだったらとても恥ずかしいのですけど、私のこと、ご存じなんですか。昨日入り口でそんな風に私を見ていらっしゃった気がして。というか私、すっかりそれで困惑してしまって。ごめんなさい、何を言っているんだ、頭がおかしいんじゃないかって思われるかも知れないですけど、でも、明日から仕事で私また毎日遅いし、水道管直っちゃったから銭湯に来る理由なくなっちゃったし、今日来なかったら永遠にこのことを忘れちゃうって思って、でもその前にどうしても、わけを聞かないといけないって思えてしまって、それで。」


 文治は俯き、そして右の手を顔の前で、大きく左右に振りながら、言った。

「いや、お嬢さんの言うとおりなんだ。すまない。」

 文治はさて、どう答えるべきなのか、何をどこまで話すべきなのかと、口をへの字に曲げ、両の目で右上を仰ぎ見た。やがて、観念した、とでもいった様子で、より子の方へ向き直り、話し始めた。


「お嬢さん、お名前は。」

「市井より子、といいます。」

「より子さん、ね。私は日向文治といいます。まあ、ひなた湯だからね、苗字は言わなくても、でしょうけど。」

「いえ。苗字だったんですね。」

「ええ。それでね、より子さん、」

 文治は自分が座っている番台を指さし、話を続けた。

「ここの番台には、4年前まで、私の家内のかず子が、ずーっと座っていました。かず子が肺炎で亡くなって、それからは、私がずっとここに座っています。」

 そういうことだったのか。より子は黙って、文治の話を聞いていた。文治は続けた。

「昨日、より子さんがここに入ってきたとき、私は、若い頃の家内が現れたと思ったんです。かず子は、より子さんに似ていたんだ。でもね、そっくりさんとか、生き写しとか、そういうんじゃ、ないんです。何か、あなたの中にある何か、私の言葉ではうまく言い表せないのだけど、そこに、かず子を見つけたんです。」

 より子は文治の話すことを何とか理解しようとするかのように、小さく頷きながら、話を聞いていた。

「より子さん。私も、勘違いだったら恥ずかしいんだが、あなたもさっきそうおっしゃって思い切って聞いてくれたから、遠慮なく聞くけれども、あなた、普段、あまり明るい人ではないでしょう?」

 より子はドキッとして、小声で答えた。

「そう、ですね。」

「初めて、お見合いで会ったかず子もそんな感じでね。でもね、私には、わかっちゃったんだな。この人のいいところが、誰かに見つけてもらえるのを待っている、とね。そして、私が、それを見つけちゃったんだね。より子さんを見たとき、私はかず子を見た、と思ったんだけど、もしかしたらより子さんの、そういうところが、見えちゃったんだね。」

 より子は、頷き続けていた。そしてハアーッと、深い溜息をついた。


 暫く沈黙が続いた。文治が口を開いた。

「より子さん、ひとつだけお願いがあるんだが、年寄りの頼みと思って、聞いてもらえないだろうかね。」

「なんでしょう。」

「ここの番台に、座ってみてくれないかな。」

「でも、お客さんが来ちゃったらどうしましょう。」

「いいよ。適当にやって。」

「・・・わかりました。」

 より子は答えた。


 文治は番台からより子に手を伸ばした。より子はその手につかまり、小さな段差に足をかけ、番台に登り、そして、座った。入れ替わりに立ち上がった文治が両手で、より子の両肩をポン、ポンと叩いた。

 より子が初めて見る番台からの景色は、両方の湯がシンメトリーに並び、男湯と女湯の絵は違う絵なのだけど、絵がつながっていてパノラマ写真のようになっており、とても、広々として見えた。

 より子の脇から、ひらりと男湯の脱衣所に降りた文治は、写真の構図でも決めるかのように、後ろ足でそろりそろりと、脱衣所の中央へ後ずさりしながら、やがてよい頃合いのところで止まり、腕組みをした。そして、番台の上のより子を見つめた。

 お見合いの前に、達夫が俺をここに連れてきたあの時。当時の俺は全く知らなかったけども、かず子はきっとあんな感じで、俺を品定めしていたんだな。そのことに思いを馳せると、ニッコリと、笑みがこぼれた。次に、両方の目に涙が溢れ、涙のせいでより子がぼやけて、より子と、かず子とが、二人重なって見えた。

 文治のその一挙一動を見つめていたより子の目にも、何故だか、涙が滲んできた。


 その時男湯に、ガラッと客が現れた。文治は慌てて顔を隠すよう下を向き、籠を片付けるふりをした。常連客である男性が番台を見ると、そこには普段見慣れぬ女性が、涙目で座っていた。

 より子は、急におかしくなって、クスクス笑いだし、そして悪戯っぽい声で、

「いらっしゃいませ。」

と、言った。

 不穏な空気を感じた男性客は、ささっと服を脱ぎ、ささっと湯に入り、カラスの行水の勢いで出て行った。より子はその一部始終を、微笑みながら、番台から眺めていた。


 やがて、文治とより子以外、誰もいなくなったひなた湯。時計は22時55分を指していた。

「さあ、閉めるか。私もこの心のうちをね、あなたに話せて、すーっと気が楽になったよ。おかげさんでかず子と出会った頃の気持ちをまた、思い出せたよ。より子さん、本当にありがとう。仕事頑張るんだよ。はい、バスタオル。」

 バスタオルを受け取りながら、より子が尋ねた。

「文治さん。閉める前に、お風呂に入っていっても、いいですか。」

「ああ、どうぞ。私は入り口を閉めて、男湯の方を片付けてくるから、ゆっくり入っていきなさい。」

「あの、私が入って、上がるまで、番台に座っていてもらえますか。」

文治は再び、きょとんとなった。

「あ、ああ。はい、わかりました。」


 文治が番台に座ると、より子は、自然な様子で、悠然と服を脱ぎ始めた。

 文治はそれを、ずっと、見つめていた。

 より子は、文治の視線をまったく気にしていないかのように、すべてを脱ぎ終えると、ゆっくりと、洗い場に、入っていった。

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やがて、忘れる。 東京ギャンゴ @tokyogyango

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