4.認識の分化のはじまり
シュワノールは、まるで私が存在しないかのように、話を進める。
「人はみな、生まれたばかりの時には、なんにもわからないものなの」
「そりゃ、そーでしょーね」
「生まれた時のこと、覚えてるの?」
「そんなわけないでしょ」
「なーんだ。ちょっぴり期待して、損しちゃったわ」
「悪かったわね」
「そうね」
「なに?!」
「それでね、生まれてからだんだんと、自分と自分以外とが、違うんだってことがわかってくるの」
「そんなことぐらい、すぐにわかるでしょうに」
「そうでもないのよ。たとえば、赤ちゃんが、よく、指をしゃぶっているでしょう」
「うん、そうね」
「あれは、指が、自分の一部だってことを、確認しているの」
「わざわざ?」
「そうよ。だって、最初は、本当になんにもわからないんですもの」
「そんなもんですかね」
「だから、昔は赤ちゃんの指しゃぶりを、みっともないからって、無理にやめさせていたらしいわ」
「へー」
「結局、それが自分というものを認識し、自分とそれ以外を区別して、認識が分化する元になるのにね」
「まあ、そうおっしゃられても」
「しばらくすると、赤ちゃんも、自分をお世話してくれるものに、気がついていくの」
「まあ、父親とか、母親とか」
「そうね。まあ、祖父母のこともあれば、叔父叔母のこともあるでしょうね」
「で? お世話してくれる人がいるってわかると、どうなるの」
「自分と、自分の回りっいうだけじゃなくって、自分以外に、意思を持ったものの存在が感じられてくるのね」
「そりゃそうでしょうね。おっぱいやミルクの世話から、おむつの世話から。泣き出した時にあやしてくれたりしたら、誰かの存在を感じるようになるかもしれないわね」
「そう、だから、さっきの指しゃぶりと同じように、赤ちゃんにとっては、泣くってことが、ともかく重要なの」
「なるほどね。赤ちゃんには、泣くことしかできないものね」
「それだけじゃなくって、自分が泣くことによって、誰かがなにかをしてれるってことに、気がついていくのよ」
「そうか。まだ言葉もわからないし、そうやって回りのことがわかっていくのか」
「だから、赤ちゃんには、泣くってことも、成長していくのにはとっても大事なの。あんまり泣かない子がいい子だとかいってる場合じゃなくって、むしろ心配なのよ」
「なるほどねえ」
「だから、あんまり構いすぎるのも問題なの。赤ちゃんが泣き出す前に、何でも先回りしてやってしまうと、赤ちゃんの自意識が育たなくなる危険性があるの」
「なるほど」
「逆に、泣こうがわめこうが、一切世話をしないような親だと、それもまた、発育に悪影響を与えるのね」
「難しいものねえ。でも、私たちはみんな、そういう道を通って、育ってきたのよねえ」
「そうよ、だからこそ、誰かさんみたいな、ほとんど認識がわかれていない人をみると、とても興味があるのよ」
「誰かさんって、ほとんど一人の人間に特定できるじゃないの」
「そうお? 気のせいなんじゃないの」
「あのねえ、ふざけるのはよして」
「まあ、純粋に学問的な興味だから。コーヒーでも飲む?」
「だから余計に腹が立つのよ。紅茶の方がいいわ」
「まあ、それにしても、そのだれかさんといい、反社会的なビラを置いておく人といい、なんだか不穏な感じがするわね。ホット、アイス?」
「まあ、先人が工夫の末に、今日(こんにち)の豊かな人間性を育てる社会が出来上がったんですものね。ホット」
「それでも、まだまだ、改善の余地があるってことかしらね。レモンかミルクは?」
「それにしても、問題は、あのいまいましいメッセージをさらしたやつだわ。ミルク」
「それをどうやって突き止めるかってことよね。砂糖は?」
「なんか、いいアイデアないの? 甘い」
「ないわけじゃないけど。甘いはクッキー」
「なによ、どんなアイデアよ。クッキーは固い」
「まあ、そんなにすぐに効果が出るようなもんじゃないけど。固いは石頭」
「そんなこと言わずに、早く教えなさいよ。石頭は頑固」
「まあ、誰かを犯罪者にしかねないんだから、軽はずみな発言はできないわ。頑固は風呂場の黒ずみ」
「でも、なんにも報告しないってわけにはいかないわ。って、ミルクティーは?」
「私は、カフェオレにしようかしら。ジュミちゃんは、安物のティーバッグでいいわね?」
「なんで私が安物のティーバッグなのよ」
「ただのお湯よりは、いいでしょ」
「ともかく、ちゃんとしたものを飲ませなさいよ」
「はいはい。まったく、認識の分化が未発達な人は」
「なぁにい!」
だが、シュワノールは、そのままキッチンに行ってしまうのだった。
一人取り残された私は、はたしてこの研究所に来て、あのシュワノールって研究者に会ったことが、はたして正解だったのかどうか、疑問に思えてきた。
そして、このあと、事件の捜査がどうなっていくのか、気が気ではなくなってきた。
だが、なにもりも気になっているのは、いったいどんなミルクティーを飲まされるんだろうか、ということなのだった。
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