#10 異世界犯罪捜査事情

 これは現実じゃない。

 震える総身に幾度もそう言い聞かせながら、俺はある女と対峙していた。

 薄暗い天然自然の洞窟に、しかし人工的な梁や柱が張り巡らされた隠れ家の中。そう、隠れ家である。誰の隠れ家かとは言うまでもないだろう。


「どうかしましたか? ――――カノプス」


 この場の主の名前で俺を呼んで、女は意味深に微笑んだ。褐色の肌と栗色の髪を生まれ持った古式ゆかしいエルフ種族。控えめに言っても美人であるし、チャイナドレスめいた布面積少なめの衣装に必要最低限の装甲がついた格好は目に眩しい。

 これが日常のどこかであれば思わず赤面してしまうような相手なのだが、俺の中には下世話な感情なんて微塵も生まれやしなかった。そんな余裕は皆無どころか、俺は極度の緊張を押し隠すので精一杯だったんだ。

 女の名前はユイリィ=アズエル。カノプスの腹心にして、組織の中ではヤツの次に高い地位にいると目されている……ひらたく言えば、とびきりの要注意人物。俺が遭遇してしまったのはそういう女だった。

 この女に正体がバレることはそのままレプリカ作戦の失敗と俺の死を意味する。だからこそ、俺は何としてもこの場を切り抜けなければならない、の、だが……


 言葉が、出てこない。

 やるべきことはわかっている。これまで何度も言われてきたとおり、俺はただカノプスを演じればいいのだ。それはわかる。

 だけど、カノプスを演じるってどういうことだ? これも何度かあらかじめ説明された気がするんだが、こんな時に限って脳みその端に引っかかって思い出せない。そうこうしているうちに頭が真っ白になっていき、とうとう何も言えなくなってしまう。

 アズエルは沈黙する一方の俺に首をかしげ、それから訝しげに鼻を鳴らした。誰がどう見たってそうだとわかる、明らかな疑念のサインだ。


「……カノプス? ご気分が優れないのですか?」


 彼女の言葉は主を気遣うものでありながら、その行動は徐々に疑いの色に染まりつつあった。アズエルは一歩また一歩と油断のない足取りで俺へと迫り、魂を射貫かんばかりの鋭い眼光を浴びせてくる。

 心臓が早鐘を打つ。鼓動が肋骨へと伝わって、耳にまで響いてくるような錯覚に囚われ始める。

 落ち着け。これは現実じゃない。何度か繰り返した練習のひとつにすぎないんだ。落ち着いて、何か気の利いた台詞をひねり出せ。


「あ、いや、その……大丈夫、だ」


 我ながらぎこちないことこの上なく、何のひねりもないありきたりな台詞だった。

 アズエルの顔色がさっと変わる。俺がダメだと確信するのと同時、彼女は太股あたりに吊られた鞘から短刀を抜き放ち、俺の喉元へ突きつけて――


「――ダメダメ、ダメでござるよ、観行どの。そこはもっとアドリブを利かせた感じで乗り切らねば」


 やたらフランクなござる口調でそう言った。


 びー。

 やる気に欠けるブザー音が鳴り響くや、アズエルと俺を囲んでいた世界が崩壊する。現実と見紛う精度で描画された立体映像は徐々に単純化されたテクスチャの集合となり、最終的には90年代あたりの積み木みたいなローポリゴン同然になって消えた。

 そして、真実の世界が息を吹き返す。俺は体育の授業みたいなジャージ姿で無機質な灰色の壁に囲まれただだっ広いホールのような空間に立ち尽くし、目の前には依然としてアズエルがいた。いや、アズエルに見える別人と言うべきか。

 ぽん、と破裂音がして、その姿が煙に包まれる。まばたきを挟んだ次の瞬間にはもう、悪の女幹部は無精ヒゲの忍者に変わり果てていた。


「だああああまたダメか! 練習だってわかってるのになんでトチるんだ俺は!」


 俺が床に這いつくばって慟哭したとおり、たった今まで繰り広げられていたこれは現実じゃない。捜査局による仮想訓練の一環だ。

 いくら遠野観行とカノプスが外見的にほぼ同一と言ったって、人格はまったくの別人である。だから俺が偽物を演じるためには、カノプス的な言動や行動を何から何まで身につけなくてはならない。

 だから本番の潜入までの決して長くない数日間は、もっぱらその演技指導に費やされている。思っていたよりもハードな日程だけど、これで理想の異世界転生を手に入れられると思えば安いものだ。


「基本的にはまあまあなのでござるが、アズエルと遭遇する想定になると難ありよな。さてはあれでござるか? 女性に免疫がない?」


 たった今まで迫真の演技でアズエルに化けていたウロギリさんが、厭らしい笑みを浮かべながら言った。しかし俺の失敗の理由はそういうのじゃなくて、単なる緊張と能力不足だ。

 だいたい免疫うんぬんを言う前に、


「中身がおじさんだってわかってる相手って女性に入ります?」


 そうなのだ。そりゃあ俺だってアズエルの姿を目にした最初こそちょっとドキドキしてしまったが、ウロギリさんの変装であると知ってからはむしろ何とも言えない気味の悪さがある。


「演じるからには中身も女性のつもりでいるでござるよ」


 胸に手を当てながら不満げに言い返すウロギリさんを俺は無視した。若く見積もっても三十代はいってる男性に真剣な顔でこんなことをのたまわれた時のいたたまれなさを想像してほしい。沈黙以外に返してあげられるものがあろうか。

 俺はやるせなさに浸りながら、部屋の隅から自分用の椅子とペットボトルを引っ張ってきて腰掛けた。ウロギリさんも同じようにして、大儀そうに伸びをする。

 だいたいいつも、訓練の流れはこんな感じだ。さまざまな状況下を想定した仮想ミッションをこなし、終われば適当にだべりながらの休憩および演技指導。ある程度余裕が戻ってきたらまた訓練。どこまでもその繰り返しだ。

 だからまあ、俺としては疲労こそあれ慣れたもので、さて次の訓練はどんな状況だろうと考えながらペットボトルをあおっていたのだが――


「では、アイリスどのに絶妙に微妙な感じなのは別の理由でござるかな」


 ウロギリさんがいきなり変なことを言い出したせいで、盛大に吹いてしまった。


「なんでここでアイリスさんの名前が出てくるんすか!?」


「数日前のアレからどこかしら不安定でござるからな。アイリスどの。珍しくも」


 難しく鼻を鳴らすウロギリさんの言うとおり、俺はあの銀髪の少女とはあまり良い関係を築けないままでいた。訓練の合間に顔を合わせる機会自体は何度かあって、そのたびに謝ろうと思いはするのだが、同時にあの二度の衝突を思い出して、何も言えないままに後ろめたさだけがつのっていく。

 別に友達でも仲間でもなんでもないのだから、仲がよろしくないならよろしくないで放っておけばいい話ではある。が、残念ながら俺の神経はそれで平然としていられるほど太くない。ウロギリさんに不意を突かれてあからさまに狼狽したのがその証拠だ。


「聞けば、食堂以前にもひと悶着あったのでござろう? どちらに非があるという話でもなかろうが、早々に謝っておけば互いに気も晴れ、寝覚めもよくなるでござるよ」


 ウロギリさんはそう言ってにっこりと微笑んだ。おせっかいな忍者もいたものだ。忍者ってのはもっとこう、寡黙で実直で任務に忠実、口を開くのは最低限ってのが相場じゃないのか。

 もっとも、それはそれでコミュニケーションに困っていただろうことは明白だし、ウロギリさんの気さくな人柄には初対面からずいぶん助けられていると言っていいんだけどな。


「……わかりました。次に逢ったら、ちゃんと謝ります。しっかり、胸を張って」


 俺は半ば自分に言い聞かせるようにそう言った。そうだよな。モヤモヤしたままでいてもいいことなんてひとつもない。アイリスの方も何かしら抱えているというのならなおさらだ。


「善き哉」


 満足げに笑うウロギリさんの背後、訓練室の扉あたりで何やらゴミ箱でも蹴倒したような物音がした。脳裏にアイリスの顔が浮かんで、まさかと思った俺は反射的に椅子の影に隠れる。


「自分の言葉をわずか二秒で裏切ったでござるな……」


 ウロギリさんが何か言ってるが、いくらなんでもこれはタイミング的に早すぎる! もっとこう、俺が心の準備とかいろいろ大事なステップを踏んでからにしてもらわなければ、その、困る。

 そうやって椅子の影でひたすらビビり倒していると、またゴンとかガンとかいう硬質の物音がした。何かがおかしいと思って顔を出すと、今度はがたがためきめきという幾らなんでもあの少女とは不似合いな音がして――


「やあ、やってるかな」


 その金属ボディには小さすぎる扉を無理矢理くぐって、ナイトラスがぬっと現れた。頭でもぶつけたのか、扉の枠がやけに凹んだり歪んだりしている。さっきの物音の正体はあれだったらしい。


「いや、すまない。責任者としてもっと顔を出すべきなんだが、色々と準備や折衝で忙しくてね。訓練の調子はどうかな」


 ナイトラスは照れ隠しでもするみたいに頬をかきながら(当然メタルな頭部の頬なのだが)ウロギリさんにペットボトルの緑茶を渡し、尋ねた。よくよく感情表現が豊かなロボ……いや、人である。


「集中力の持ちにやや難があるでござるが、おおむね良かと」


 え、俺はそんなに良くやってたのか。てっきり赤点レベルだと思っていたら、思わぬところで褒められてちょっと嬉しくなってしまう。


「観行くん本人の所感は? 多少は慣れてくれたかな」


「最初に比べれば、多少マシになってきたかと思います」


 と言うより、最初が一番大変だった。


 まず、カノプスという男になりすますにあたって、俺は奴の振る舞いや言動を記録した山のような映像と格闘することになった。自分とまったく同じ顔の男――いや、今やもう一人の自分かもしれない男を、ひたすら観察し模倣するのである。

 それを何度か続けたところで、脳が拒否反応を示し始めた。事態の複雑さを処理しかねてのことか、それとも俺ではなくなった俺という存在の不気味さに耐えられなかったか。とにかくビデオを見るたび猛烈な吐き気に襲われてはトイレに駆け込んでいたものだ。


「では、おおむね順調だね。実質的な潜入は一時間から二時間程度だから、集中の


持続に関してはほぼ問題なしかな」


「え。そんなに短くていいんですか?」


 俺は耳を疑った。潜入というからにはきっと結構な長丁場になるものだと怖がっていたのに、それが一時間や二時間だとは。ちょっとばかりイージーすぎやしないだろうか。

 けれどナイトラスは首を横に振り、重苦しい声音で言った。


「と言うよりは、厳しい制限時間として考えてほしい」


 ナイトラスは椅子になるものが欲しかったのか、しばし周囲に目を巡らせる。


「カノプスは各異世界における拠点を定期的に巡回・視察している。まるで多くの事業を抱える実業家のようにね」


 しかし結局は見つからなかったようで、結局灰色の床にドスンと腰を下ろした。


「我々はそれに乗じて、『拠点を視察に訪れたカノプス』を観行くんに演じてもらうわけだが……あんまり長居をすると、その……よくないんだ」


「……本物にはち合わせる?」


「そうだ。たとえ観行くんが百パーセント完璧にカノプスを演じられたとしても、本人を前にすればすべてが瓦解するからね」


 今さらのことではあるが、ややこしい話である。俺の肉体を乗っ取っている奴を、当の俺自身が演じなくてはならないとは。どっちが本物なのかわからなくなってくるな。


「逆に言えば、私たちは本物が絶対にそこに居ない時間帯を狙うわけだ。風紀課が誇る潜入のスペシャリストが、視察予定を手に入れてくれたおかげでね」


 潜入のスペシャリスト? いったいどこの超人だろうと思っていると、ポンと何かが弾けるような音がして、見るとウロギリさんの姿がいかにもな悪人ヅラの男に変わっていた。

 なるほどな。顔や姿を自由に変えられるなら、どこにだって潜り込み放題だろう。警察っぽい組織としては便利このうえない能力だ。

 とまで考えて、俺はかねてよりの疑問を思い出した。


「前から思ってたんですけど、どうして俺なんですか? ここまでのことができるなら、俺じゃなくてもウロギリさんが潜入すればいいんじゃ……」


 というか、そうしなければおかしいと思うのだが。

 変装や変身の能力は古今東西の物語の中で最もポピュラーなもののひとつだし、その手の力の持ち主が捜査局にウロギリさん一人ということはないだろう。

 だったらその人たちの力を借りさえすれば、わざわざニセモノのカノプスなんて連れてこなくてもいいんじゃないだろうか。

 俺としてはものすごく理にかなっているはずの疑問を、凶悪な顔のウロギリさんはなぜか楽しげに笑い飛ばした。


「いや、まったくその通り。当たり前の考えでござる。しかし、そう簡単にはいかぬのが世の常でもあってな」


 またも炸裂音がして、ウロギリさんの姿がもとのオッサン忍者に戻る。


「観行どの。考えてみられよ。便利な魔法や能力が数多く存在し、各々の世界で犯罪や捜査に利用されている……ということはでござるよ? それらへの対抗策も、またしかりではござらんか?」


「あー……」


 なんとなく、わかる気がする。この捜査局で数日を過ごしたことで、やっとわかりかけてきたと言った方がいいか。

 物語によって繋がり連なるという無数の異世界。この複雑な世界観はアニメやゲームといった単一の物語世界とはちょっとばかり趣が異なる。

 言わば、壊れカードが規制されずにバランスが壊れっぱなしのカードゲームとか、甘めのアップデートで無法地帯化したネトゲみたいなものだ。

 日々世界が繋がるごとに新たなスキルや能力が出現し、研究され、個々のプレイヤー……つまり実在の人々はその利用法や組み合わせ、対抗策を考える。

 その中にはもちろん限度を超えて悪用を企むような奴らがいるが、この連なる世界には運営やGMのような絶対的な神が存在しない。そこがゲームとは決定的に違う部分だ。

 だからこそ捜査局という組織が設立され、今まさにカノプスのような犯罪者を逮捕しようと奮闘しているのだろう。


「要は、俺の考えるようなことなんて想定されていて当たり前なんですね」


「うむ。ゆえに、潜入捜査や敵対組織などのスパイに対する警戒はひときわ厳重でござる。クリアランスの低い一構成員の立場ならば誤魔化しも効くでござるが、さすがに幹部やボスともなると、複合ディスペル・チェックで即バレでござるな」


 よくわからないけど、言葉の響きからして空港の金探とかボディチェックみたいなもんか。


「結局は単純な手口が最善になるってことですか。犯罪映画によくあるみたいな」


「うむ。肉体的にまったく同一な人間、言ってしまえば究極のそっくりさんでござるからな。唯一テレパスのたぐいが危険でござるが、連中もまさかボスを相手に心を覗く無礼は冒せぬ」


「暴力と権力で成り立つ犯罪組織の、構造的弱点というところだね」


 チート能力でなんでもやりたい放題なんて、現実にはなかなかうまくいかないということか。

 言われてみればとても理にかなったことではあるのだけど、ちょっとロマンが殺がれてしまったような気もする。なんとも世知辛い話である。

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