#11 ここではないどこかに生まれ直すなら
午前中の訓練が終わると、だいたい二時間ほどが休憩……すなわち、ヒマになる。なので俺はウロギリさんから渡された分厚い本を読んでいた。
『転生証人保護プログラム・捜査協力者のための転生先ガイド』という長ったらしいタイトルを冠したこの一冊には、捜査局に協力した証人を『逃がす』ための候補地となる異世界が詳細な情報とともに記載されている。
例えばいくつかの風景写真、例えば民族や生活習慣、例えば文化や法律。そういった世界ごとの特徴を今のうちにしっかりと吟味して、ある程度転生先の希望を決めておいてくれ、ということらしい。
希望の転生先を探すという以上に、この本はかなり有用な暇つぶしになった。記載されているのはあくまで捜査局が証人の転生先として適当だと判断した比較的安全な異世界だけなのだが、それでもけっこうな数にのぼる。
それら異世界の歴史や文化をひとつひとつ読んでいっては、人々の暮らしぶりだとか空気の匂いだとかに思いを馳せる。これがまた面白いんだ。
マグマと岩に囲まれた灼熱の世界に暮らす有鱗種族の人々は、毎日どんな言葉を交わして笑い合っているのか。
機械と人間が融合しつつあるサイバーパンクな世界には、どんな匂いの風が吹いているのか。
ひとつ、またひとつと未知の異世界があることを知っては想像を巡らせるたび、自分を取り巻く世界がどんどん広くなっていくようで、暇つぶしはたちまちそれ以上の楽しみになった。
だから今日も、俺はそんな調子でニヤつきながらページをめくっていた。剣と魔法の世界、獣と人が共に生きる世界。精霊と絆を紡いだ術士たちの世界。世界を思い描いては、そこに生きる自分を想像する。そんな楽しい繰り返しが、期せずしてあるページで止まった。
列挙される転生先候補のなかに、懐かしい名前を見つけてしまったから。
――『グラスタリア』。
俺が人生で最も入れ込んだゲーム、アクションRPG『アイゼンブライド』の舞台。それが俺の転生先になるかもしれない世界として、ガイドの一ページに記載されていた。
思わず、唾をごくりと飲み込んだ。詳細な記述へ目が滑りそうになって、慌ててページを手で覆い隠す。
見たくないというわけじゃない。興味はある。だけど、見ていいものかどうか判断がつかなかったんだ。疎遠になってた昔の友達と突然街で出くわして、何をどう話せばいいのかわからないみたいに。
……正直言って、こんなところで出くわすことになるとは思わなかった。
なぜって、端的に言えば『アイゼンブライド』は売れなかったゲームだ。数年前の作品であることを差し引いても知名度は低めだし、人気だってお世辞にもあるとは言えない。というか、今でもネット上なんかではゲーム通気取りにクソゲー扱いされまくってる。
そんな風に世の中の隅に追いやられた不遇な作品を覚えているものが、まさか俺以外にあるとは思わなかった。たとえそれが、一冊の本にすぎなかったとしても。
まあ、道理といえば道理だ。捜査局的な世界観で言えばすべての世界は最初からそこに存在していて、たまたま物語でこの地球と繋がっただけなんだから。そこにゲームとしての評判が関係あるわけもない。
そう、大事なのは物語だ。アイゼンブライドはけして悪評通りのゲームじゃなかった。ただ、すこぶる運が悪かったというだけで。
たとえば同じ開発会社の姉妹作の間で似たような戦闘システムが続いてプレイヤー側が食傷気味だったこととか、アイゼンブライド発売の二ヶ月後には次世代ゲーム機の発売日が控えていたこととか、主人公が女の子だから硬派を気取ったゲーマーにちょっと敬遠されてたこととか。
そういう気の毒な巡り合わせがいくつも重なってしまったせいで、結果としてかの作品は期待ほどの売り上げを残せなかった。あのゲームを好きだった奴はちゃんとここにいるのに。
でも、好きであるからこそ、あんまり売れなかったって理由もよくわかる。アイゼンブライドという物語はものすごく挑戦的というか、悪く言えばかなり邪道だったから。
――竜の加護に守られたオディール王朝のもと、数百年の間を平和裏に存続してきた王国グラスタリア。
グラスタリアの第一王女であり、男勝りの性格と可憐な容姿に尋常ならぬ膂力を兼ね備えた天衣無縫の『鉄騎姫』アルティアは、市井の友人たちと共に結成した自警団の団長として国民が抱える小さな問題を解決しながら、日々の平穏を謳歌していた。
奔放に国中を飛び回っては自警活動に勤しむアルティアに父王は頭を痛めていたが、彼女はその天真爛漫な人柄ゆえに民に慕われてもいたのだった。
導入はこんな感じ。いかにも伝統的な剣と魔法のファンタジーの雰囲気だ。鉄騎姫アルティアとして国中を駆け巡っては世直しをして感謝されているうちに、プレイヤーはこの物語が爽快な勧善懲悪モノなんだと騙される。他でもない俺も騙された。
――あるとき、アルティアに隣国カーマネイトの皇子ハイヴスとの縁談が持ち上がる。アルティアは婚約に乗り気ではないながらも、ハイヴスの人となりを知るため、そして見聞を深め王家にふさわしい者となるためにカーマネイトへの旅立ちを決意するのだった。
しかし旅の途上、アルティア一行を謎の一団が襲撃し、そしてまたグラスタリア本国への奇襲によって父王が落命したとの報が入る。アルティア一行を襲撃し父王の命を奪った彼らこそは、グラスタリアの建国神話において伝承の悪魔とされてきたネビリムの民であった。
ネビリムによる侵略と蹂躙を目の当たりとして、生まれて初めて『力が欲しい』と心から願ったアルティア。彼女は仲間たちの力を借り、グラスタリアを守護する竜が眠る遺跡を探し出す。
そしてアルティアは幾多の苦難を乗り越え、遺跡に眠る竜と対面する。愛する国と国民を守る力を求めるアルティアに、しかし竜は語った。彼がグラスタリアに貸し与えていた力は『国を守護する』などという生易しいものではなく、『敵対するすべてを滅ぼす』力だったのだと。
悪魔と呼ばれ忌み嫌われ続けてきたネビリムの正体こそは、かつてグラスタリアに領土を奪い尽くされ、彼らが平和を享受する代償に苦しみを負い続けた者たちであったのだ。
アルティアは真実の重さにに揺らぎつつも王の血を継ぐ者として認められ、竜の力を宿す凄竜剣アンベルドルクを手に入れてしまう。
……これである。序盤でプレイヤーが過ごした平和なグラスタリアの風景は、実はネビリムと呼ばれる異民たちに犠牲を強いることで成立していたものだったのだ。
当然、プレイヤーは何がなんだかわからないモヤモヤした感情に苛まれる。知らない間に罪を負わされていたんだから、そんなの知ったことじゃないと逃げたくもなる。
でも、それはアルティア自身も同じだった。
――アルティアは竜の力が生み出してきた罪の重さを受け入れられずに苦悩する。この国の平和と幸福を保つために踏みにじられてきた人々を、また竜の力でもってねじ伏せていいのか。
そこに、カーマネイトからの使者が到着する。曰く、彼らにはネビリムを攻撃し、残存したグラスタリア国民を救う援軍の用意があると。
しかしカーマネイトの力を借りることは、ネビリムとの全面戦争と同義であった。そうなればアルティアたちは竜の力を以て民族を滅ぼすという、かつてのグラスタリアによる迫害の再現を演じることとなる。
アルティアは葛藤する。かつての犠牲者を今また犠牲にして民を救うのか。ネビリムの復讐を受け入れて、苦しむ民を裏切るのか。
究極の選択だと思う。もちろん、アルティアは王女という立場の人間だ。前者の答えを選ばざるを得ない。だけどそれは、物語の序盤で多くの人々を助けてきた彼女にとっては決して正しい答えじゃない。
だから、アルティアは選んだ。どちらでもない答えを。きっと一番難しくて、きっと誰にもわかってもらえないだろう選択を。
――やがてネビリムの大軍勢を前に、アルティアは勇ましく宣言する。グラスタリア王女の名において、これまでネビリムに対し行ってきた迫害の正式な謝罪を。そして、ネビリムによる今日に至る攻撃への報復の放棄――そして、婚約の破棄と王家の解体を。
けれどそれは、決してグラスタリアの敗北と蹂躙を認めるものではなかった。むしろ宣戦布告だったのだ。見えない罪を民の肩に背負わせるのではなく、アルティア=ラム=グラスタリアという個人が自らの覚悟のもとに罪を背負い、竜の力を振るって戦うという。
要するに『全部こっちが悪かったから、今まで受けた攻撃への仕返しはしない。だけどこれから先も民を苦しめ続ける奴は許さない。文句のある奴は全員かかってこい!』ってことだ。
シビれたね。恥ずかしくなるくらいに自分勝手で、だけどこれ以上ないくらいにまっすぐな意思表示だ。それを一歩も譲らずに叫び通すアルティアの姿は、控えめに言ってものすごくカッコ良かった。彼女の外見は可憐なお姫様でしかないはずなのに、俺の目には不思議とそれまでに出逢ったどんな主人公よりも頼もしくて素敵なものに見えたんだ。
そしてアルティアと仲間たちは、ふたつの罪を背負って戦い始めた。ひとつは誰かを助けたいという願いのもとに、ネビリムというかつての被害者を踏みにじるという罪。もうひとつはネビリムをこれ以上傷つけさせないために、報復を望む国民とすら敵対する罪。
アルティアは人を救いたいという純粋な願いのために、国民からもネビリムからも憎まれる悪になったんだ。
国民を救い、ネビリムを救い、かつて誰からも好かれていたはずのアルティアは憎しみをぶつける敵と責任を押しつける味方のどちらからも非難を受け、石を投げられ続ける。
もはやどっちが敵でどっちが味方なのかすらわからないのに、それでも彼女は雄々しく立ち上がって叫ぶんだ。
『世界のすべてに悪と呼ばれてもいい。後悔しても良い。泣いてもいい。それでもわたしは、誰かを助けることを選び続ける』と。
――そして少しずつ、アルティアの流儀に感じ入る者が生まれ始める。憎むべき敵に尊厳を認め、民を守るために抗戦し続ける不器用な鉄騎姫の在り方が、国民のみならずネビリムをも動かし始める。
徐々に支持を集め始めたアルティアたちの陣営はアンベルドルク新共和国と名を変え、ネビリムとの部分的な和解を果たし、ついに平和への道を歩き始めるが、そこへ突如としてカーマネイトの軍勢が侵攻を始める。
婚約も、ネビリムの襲撃による王の落命も、すべてはグラスタリアが有する竜の力をカーマネイト国がアルティアごと手に入れんがための陰謀だったのだ。
カーマネイトを守護するもうひとつの竜の力を振るう皇子ハイヴスとアルティアは激闘を繰り広げ、ぶつかり合う二匹の竜はお互いをも滅ぼさんばかりに膨れ上がり、そして……
……おしまい。
はあ。思わず溜息が出る。何度思い出しても胸が熱くなる。こんなの最後まで書き切ったシナリオライターは天才だな。
とはいえ中盤以降はこの通り、何か私生活でイヤなことでもあったのかってくらいの重い展開が続くから、ウケが悪かったのもうなずける。
だけど、それでも俺はこのゲームが好きだった。自分たちが罪を背負っているとしても、誰かを助けることがその罪の繰り返しになるかもしれなくても、それでも誰かを助け守ることを貫き通したアルティアが大好きだった。
彼女の物語から、俺は何か大事なものをもらった気がしてた。少なくともあの頃はそういう痛い思い込みこそが絶対の真実で、現実でも通用すると思ってた。
思えば最初に異世界転生を夢見たのも、あの作品との出会いがきっかけだった。
とはいえ、あの頃望んでいたそれは今みたいな人生のやり直しだとかチートだとかハーレムだとかじゃなくて、もっと陳腐で身の程知らずなものだったんだけど。
あの頃の俺はただ、大好きなキャラクターが生きる、大好きな世界を冒険してみたかった。自分の足でアルティアが歩いた旅路を辿って、画面越しでは感じられない風の匂いや人の営みを感じてみたかった。
そして、願わくば、進んだ旅路のどこかで彼女に逢って……
……痛い。
ものすごく痛い。
考えてたら胸がかゆくなってきた。プレイしたのがちょうど中一から中二あたりだったから痛いのは当然なんだけど。
それにしたって過去の俺よ、好きな作品のヒロインに会ってどうこうなんていったいどこの夢小説だよ。乙女か。
自分で自分に恥ずかしくなって、顔が急に熱くなる。そういうのはもう一切放棄したはずだったのに、どうして今になってまた自分の痛さを掘り返すんだ俺は。
いや、理由はわかってる。ここにいるからだ。単なる創作物としか思っていなかった物語の登場人物がみんな実在しているというこの環境、まかり間違えば痛さ全開の夢も叶いかねないデンジャラスな現実の只中に身を置いているからだ。
こうしてみると、マリナ先輩のアンケートにアイゼンブライドの名前を書かなかったのは正解だった。仮にアルティアが捜査局にいたとして、俺が彼女のファンだと知られたら恥ずかしいことこの上ない。悶死するかもわからん。
……やっぱり、いるんだろうか。アルティアは。捜査局に。いつだって人助けをせずにいられない少女だったから、こういう組織には協力していると考える方が自然だ。となると、いつどこで出くわしてもおかしくないんだよな。
心の準備という意味でも、いっそマリナ先輩あたりに訊いて確かめてみるべきだろうか。捜査局での彼女は何をどう間違えたのかオタクと化しているから他の作品世界にも詳しそうだし、風紀課にもちょくちょく顔を出してくるから話す機会には困らないし。
どうするかなあとひとしきり悩んだところで、俺はついさっきまで読んでいたガイドの存在を思い出した。そういえば、グラスタリアのページに差し掛かったところでページを覆い隠したままだった。
この手をどけてみれば、どこかにアルティアに関する記述のひとつくらいは見つかるかもしれない。理想を言えば「なお、この世界の姫君はただいま捜査局で働いています。応援よろしくね!」みたいな、そんな感じのわかりやすいやつが。
覚悟を決めて、手をどけた。今こそ確かめてやるんだと目を見開いて……俺は一瞬、ページを間違えたのかと思った。
グラスタリアを示すページには、何もなかった。
いや、きっと記述自体はあったのだろうけど、それらは上から貼り付けられたとおぼしき真っ白なシートによってすべてが覆い隠されていた。
外部の人間に読ませたくないのか、シートの隅へ申し訳程度に記述された説明書きは異世界の言語と思われる文章がメインだった。ある程度の知識や資格を備えた捜査局の職員向けの文章なのかもしれない。
その中から、かろうじて。やけに不穏な一文だけが読み取れた。
――なお、本世界はXXXX/XX/XX付けで世界主連合よりA級の荒廃および再建指定世界に認定された。
――よって、本局では再建の完了まで、本世界への証人の渡航および転生を全面的に禁止するものとする。
荒廃と、再建……?
再建はともかく、荒廃ってなんだよ? ものすごくアホな理解だが、要するに荒れ果てたってことか? 俺の知らないところで、グラスタリアにそれほどの何かが起こったと……?
あるいは、物語の中で戦争が起こって、グラスタリアが滅びかけたことを指しているのか。
いや、それじゃタイムスタンプが合わない。アイゼンブライドの発売はもう数年前になる。そこを仮に始点とすると、物語で語られた期間がせいぜい一年。なのにこのページの日付その数年後、つまり昨年だ。
異世界同士で時間の流れが異なるとか、そういう俺のまだ知らない理屈があるのか。それとも、やはりグラスタリアに俺の知らない何かが起こったということか。
「……どういうことだ……?」
俺はどう見ても自分の言語能力には難解すぎる文章を必死に追って、疑問の答えを探そうとする。
が、それよりも先に誰かの手が背後からすっと伸びてきて、ガイドをつまんで持ち去っていった。
「おい、ちょっと――」
今すっごい真面目に考えてるところだったのに! 全力で抗議してやろうと振り向くと、そこでは澄ました顔のアイリスがぼさぼさの銀髪をいじりながら、たった今まで俺が読んでいたそのページをつまらなさそうに見ていた。
俺はまずこの遭遇に驚き、次にこれまでの二度の衝突を思い出し、そして彼女への謝り方をまったく考えていなかったことに気づいた。
そういう諸々が脳裏に蘇ってくるにつれて、それまで意識の外にあった現実の風景もまた戻ってくる。
どうだ。俺は刑事ドラマのセットみたいな風紀課の一室で、ずっとソファに腰掛けながら呆けていたんだ。
ガイドの中の世界観に入り込みすぎて、完璧に現実を忘れきっていた。今の自分がどこで何をしているのかさえ。
慌てて時計を見ると訓練の開始予定時間をとっくに過ぎていて、彼女がどうして今ここで俺の読書を中断したのかにもなんとなく察しがついてくる。
どうやって弁解したものかと思案していると、アイリスは分厚いガイドを苛立たしげに閉じて、それからなぜか俺に向けてにっこりと微笑んだ。
「……そう。旅行のプランニングに忙しかったわけ。邪魔をしてごめんなさいね」
威圧感の籠もったスマイルから放たれたそれは、控えめに言っても痛烈な皮肉だった。毒ナイフみたいな口撃をまともに受けて、胃の辺りがぎゅっと苦しくなる。
「……ごめんなさい。訓練に行くの、忘れてました……」
目を泳がせながら頭を下げると、
「いえ、今日の訓練はなしよ。色々と予定が変わったから、現地の協力者とちょっとした打ち合わせに来てもらう」
さらりとした口調だけど、やっぱりこの間の衝突が響いているのか、どこかにトゲがある気がする。
……って。協力者に、打ち合わせだって?
「予定が変わったのはいいけどさ。それはいったい、どこでやるんだ?」
訊くと、アイリスは事も無げな一言で、また俺の世界観にヒビを入れた。
「もちろん――異世界に決まってるでしょ?」
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