#9 食べてからでもいいですか?
ウロギリさんに導かれるままに捜査局ビルの上層階へ足を踏み入れてみると、そこは大規模なカフェテリアになっていた。
適当な席を選んで腰を下ろしてみると、周囲には受付で目にした以上にさまざまな外見のさまざまな人々がひしめいていた。皆ワイワイと談笑しながら食事に舌鼓を打っている。
トカゲ頭の獣人、緑色の肌から葉や花を生やした植物娘、透明ヘルメットをかぶった宇宙人。あまりのジャンルの多彩さに目がチカチカしてきた。
「何にする? なんでもあるわよ」
と、アイリスが分厚いメニューを手渡してくる。何を注文したものかと開いてみて、俺は瞠目した。
冗談抜きに、マジでなんでもあったから。
カレーライスやラーメン、オムライスといった定番はもちろん、毒竜骨のフライドスナックやらバイコーンのにんにくバゲットサンドやら灰色魔女煮込みやら、ありとあらゆる物語の料理が網羅されていたのだ。ご丁寧なことに、各異世界別の付箋までついている。
あまりの感動に、軽く泣きそうになる。だってそうだろ? ロマンあふれる物語の世界に憧れる人間なら、必ずその世界の料理に興味を持つはずだ。主人公やお気に入りのキャラクターたちが味わうそれと同じものを、一度でいいから口にしてみたいと思うはずだ。
けれど物語において料理の製法なんてものがいちいち仔細に説明されているわけもなくて、というかそもそも原料さえ現実には存在しないわけで、こういう憧れを持った人間はままならない食欲を持て余したままその後の日々を過ごすことになる。コラボカフェなり自作なりで再現料理を口にしてみても、何かが違うと失望するのが相場だしな。
とにかくきっと誰もが一度は憧れただろうそれらが今、現実の料理としてメニューに並んでいた。まさかこんなところで夢のひとつが叶ってしまうとは。
俺は迷いに迷った挙句、リノセア・ブリトーを注文した。これは昔好きだったゲームに出てきたファストフードみたいなもので、具体的には現地の肉やら野菜やらをトルティーヤによく似た皮で巻いたもの……つまりは、実際のタコスとかブリトーの異世界版だな。
だから正直期待のハードルは低めに押さえていたのだが、なんと味は抜群だった。ローストビーフみたいな柔らかで味わい深い肉と、みずみずしくて爽やかな香りの野菜類が見事に調和している。ひと噛みするたびに甘辛いソースが口内に広がって、画面を通してしか見たことのない異世界の風景が脳裏へ色濃く描き出される。
なんだこれ。美味すぎる。こんなにうまいもんがこの世にあっていいのか。
俺はしばらく未だかつてない感動に打ち震えていたのだが、ふとアイリスへ目をやったせいで、見事にその感動を台無しにされた。
彼女の目の前にあるものをできるだけ端的に表現するなら、俺が注文したのと同じリノセア・ブリトーの山である。比喩ではない。マジで十人前くらいあるんじゃなかろうかというそれを、アイリスはそれを次から次へともっぎゅもっぎゅと口に詰め込んでいた。これまで基本的にクールで無愛想で表情に乏しいやつであったのに、その姿には何やら小動物みたいな愛嬌があった。
さっきのことについてなるべく早く謝っておきたかったのだが、このぶんだと会話ができるようになるまでしばらくかかりそうだ。幸いウロギリさんの方は早々にマグロ丼のセットを食べ終えていたので、俺はかねてよりの疑問を尋ねてみることにした。
「それにしても、なんで俺の姿に化けてたんですか?」
ウロギリさんは湯呑みからずずっとお茶をすすって、
「むろん、カノプスの組織を騙すためでござるよ。追手を差し向けていたはずの観行どのが逃げ延びたと知れば、カノプスは当然捜査局の関与を疑うでござる」
というか、確信するだろうな。何しろアイリスときたら、ものすごく盛大に大暴れしていたわけだし。
「となれば、レプリカ作戦も当然予想されてご破算よ。そうさせぬため、拙者は観行どのに化けて断崖絶壁からひと落ちするのを目撃されてきたわけでござるな」
すごいことをサラッと言ったな、この人。そっちにも興味があるにはあったが、なにぶん聞くのが怖すぎるので、俺は聞き慣れない単語の方に食いついた。
「レプリカ作戦って?」
「あなたを偽のカノプスとして潜入させる計画のこと」
アイリスがブリトーをもぐもぐと食みながら答えた。ついさっきまでは文字通りの山盛りだったはずのブリトーが、いつの間にやら最後のひとつになっている。肉恐竜みたいな健啖ぶりだ。
しかし、レプリカ作戦は上手いこと言ったもんだな。常に誰かの肉体を奪い成り代わっては捜査局から逃れてきたカノプスに、今度は俺が偽物として成り代わるわけだからな。よくできた意趣返しになっていやがる。
あれ、しかし、偽物というと――ちょっと話がおかしくなってこないか?
だって、ウロギリさんはついさっきまで俺に化けて立派に偽物をやってたんだ。それができるなら、別に俺がいなくたってカノプスに成り代わることは出来るはず。とすると、そもそも俺を連れてきた前提がおかしくなってくる――
とまで考えた俺の頭に何か重いものがクリーンヒットして、それまでの思考はどこかにぶっ飛んだ。
今度は何だよと目をやれば、床にクマみたいなぬいぐるみが転がっていた。これがどこからかぶつかったのか。無骨なガンベルトを巻いたそのぬいぐるみに、拾い上げようと手を伸ばしたのが間違いだった。
「ぶん投げるなっつってんだろうが!」
ぬいぐるみだと思い込んでいたそいつが、突然ぞわぞわと動き出し――牙を剥いて吠えやがったからだ。
「ご、ごめんなさい!」
驚愕というよりは単に気圧されて思わず謝ると、ぬいぐるみはひらりと床へ身を躍らせてから首を横に振る。
「いやいや、お前さんじゃない。おい! リク!」
ぬいぐるみが猛々しく呼んだ方から、今度は子供が駆けてきた。
いかにも幼年向けのキャラものの服を着た男の子だった。子供はウロギリさんとアイリスをそれぞれ一瞥してから、最後に興味深げに俺の顔を覗き込んだ。
「ね。アニメの人? ゲームの人?」
その奇妙な質問に聞き違いを疑ってから、ようやく意図するところに気がつく。
捜査局は物語として知れ渡っている世界の住人の集まりだ。ここでアニメかゲームかを訊くってのは、すなわちどんな異世界から来たのかを尋ねているのだろう。
それはそれでどう見ても普通の地球人だろと言いたくなったが、そういえば俺はファイアランスの世界で手に入れた魔術師ローブを着たままだった。これじゃどこからどう見たって、ファンタジー世界の魔術師見習いだもんな。
俺は期待に添えない申し訳なさに苦笑しながら、本当のところを包み隠さず答えた。
「遠野観行。どこにでもいる普通のオタクの学生だよ」
「ぼくはね、あいだリク」
そうか、リクくんか。見たところ小学生にもなっていないだろうに、ちゃんと初対面の人に名乗れるのはえらいな。そしていい名前だ。別に珍しい響きじゃないが、だからこそご両親が熱心に考えてつけた名前であることが読み取れる。
そこをいくと俺なんて『みゆき』だからな。女の名前だとかお前は男じゃないとか、小中高とからかわれ続けたもんだ。父さんも何を考えてこんな名前をつけようと思ったのやら。
「まったくよ。別にイヤってわけじゃねえけど、クマだから子守係って安直すぎねえか?」
日頃の苦労がしのばれる口調でぬいぐるみが言った。俺が返事に困っていると、ウロギリさんが軽く笑って、
「なんならサスペンスの死体役と代わるでござるか? 拙者、子供は好きでござるゆえ」
「おまえらとの交代は死んでも勘弁だ」
アメリカンに肩をすくめて毒づいたクマは優しげにリクくんの背を叩いて、ほれ行くぞ、と促した。一ミリも知らないぬいぐるみではあるけれど、やはり子供の世話が向いているように思える。
リクくんは自分よりも小さなぬいぐるみに手を引かれながら、バイバイと手を振り去っていった。ウロギリさんはもちろん、意外なことにアイリスも優しげに笑って手を振り返した。
……子供には、そういう顔をするんだな。
それにしても、どこからどう見ても日本人のお子様だったよな。なのにカフェテリアに集う異世界人に構われながらぴょこぴょこ跳ねているさまは、やっぱりどう見たってちぐはぐに映る。
「あの子ってさ、普通の子供だよな? 俺基準の普通って意味だけど……」
だから、気になって尋ねた。それだけの話だったのだが、なぜかアイリスもウロギリさんも、揃って表情を曇らせ顔を見合わせた。
微妙な反応を訝っていると、アイリスは躊躇いがちに、
「……父親がね。あなたの前に、カノプスに成り代わられた人間だったの」
ここでも出てくるのかよ、そのイヤな名前が。
カノプスに肉体を奪われることが何を意味するのか、さすがにまだ忘ちゃいない。カノプスが今俺の姿を使っているということは、その父親はおそらく……
「両親が失踪して児相に保護されたところを、まるで気まぐれみたいに襲われた。たまたまうちの局員が居合わせたからその場はなんとか切り抜けて、今はこうして一時的に保護してる」
重い話だった。俺は相づちを打たなかった。両親、というあたりが気になったが、訊かない。訊くべきじゃない。訊けば、俺はまた余計なことを考えてしまう。
俺はここにきてようやく悟った。この捜査局では、最初から見ざる聞かざるを決め込むべきだったんだ。そうでもしなければ次から次へとロクでもない真実が湧いて出て、俺を縛りつけていく。
「でも、楽しそうだったよな」
だから投げやりに、思ってもないことを言った。無難な言葉でやりすごせば、目の前の重たい現実に向き合わなくてすむと思ったのだ。
「ある意味、ここは夢の中だもの。あなたにとってもそうでしょう?」
確かにそうだ。この捜査局には俺がこれまで夢見てきたものが、夢でしかないと切り捨ててきた憧れが現実に存在している。
リノセア・ブリトーの味はもちろん、マリナ先輩の姿を目にした時も俺は正直嬉しさに気絶するかと思ったし、ナイトラスやウロギリさんみたいな愉快なやつらを前にしたときだって、俺はこの最悪の状況を心のどこかで楽しんでた。
「でも、いつかは現実に戻らなくちゃいけない。父親がもういないという痛みや苦しみに、向き合うときはくる」
自称・現実の住人らしく、アイリスが急に厳しいことを言う。やめてくれ。そういうのは出来る奴と出来ない奴とがいるんだ。向き合うかどうかは本人に任せて、そっとしておいてやればいいじゃないか。
彼女は俺を見ていた。ついさっき、風紀課でそうだったように。今回もまた。次に何を言うのかはわかりきっていた。
「ボスが言ったことをもう一度言うわ。カノプスの組織は、もはや異世界だけの脅威じゃない」
知ってる。
「これから先、奴の犠牲になる人間はますます増えていく。体と人生を奪われた者だけじゃなく、その周りの人々にも危害が及ぶ」
揺れる。知っている顔が思い浮かぶ。近所の人、コンビニの店員。仕事で家を空けてばかりで、お互いまともに会話もできてない父親。でもそういうのはもう俺とは関係ない。関係したくない。だからこそ、俺は異世界転生を望んだんだ。
「あなたがあなたの人生を取り戻して当然と言ったのは、ごめんなさい。わたしの考えが浅かった」
そうか、わかってくれてありがとう。だからそこでやめてくれ。君が次に何を言うのか、俺にはもうわかりきっているんだから。
「それでも、協力してほしいの。今、自分の意志で奴らを止められる人間がこの捜査局にいるとすれば、それはあなただけだから」
予想通りの内容で、けれど予想以上に悲痛な頼みだった。真剣なのは痛いほど伝わってくる。俺だって、ここまで言われて何も感じないほど冷血じゃない。
カノプスはとんでもなく危険な奴だ。捕まえなくちゃいけないのはわかってる。誰かがやらなくちゃいけないことだともわかってる。
それでも、俺は。俺には、できないんだよ。
不要な記憶が、消せない傷が、瞼の裏でまたうずく。
目の前で大好きな世界が踏み砕かれたあの日。
くだらないものだと嗤われたあの日。
くだらないんだと悟った、負けたあの日。
俺はそういうのを何もかも無駄だと――――――
限界だ。
「――イタいんだよ! そうやって勝手にストーリー作って、人を主人公に仕立て上げて、動かそうとすんのはやめろ!!」
思わず卓を殴りつけていた。手元のコップが落ちて割れる。だけど俺は止まれなかった。
「そりゃ、俺だって何も思わないわけじゃない! 自分がどうにかできるなら、したほうがいいとも思うさ!」
周囲のあらゆる種類の視線が俺たちに集中して、自分が怒鳴っていることを今さら自覚する。だけど止まれない。
「でもな! ここは現実だろ! いい感じの台詞に感動して、コントローラーのボタン押して、それで全部がうまくいくような話じゃない!」
「わかってる! それでも……」
「わかってねえよ!」
たじろぎながらも懸命に応じようとするアイリスに、俺は一丁前に罪悪感を覚えた。だけどそれよりも先に、コンプレックスが誘爆する。
「君は強いだろ! 見てくれだって良い。俺とは全然違う。俺は物語の主人公でも、その頼れる仲間でもないんだ!」
だから、無理だ。カノプスを捕まえるなんて出来ないんだよ。なんにもできないんだ。俺は何者にもなれないんだ。
「強くないし、っていうかもともと引きこもりだったし、特別な力なんてない。神様みたいな誰かに選ばれたわけでもない!」
そういうどうしようもない自分をわかっていたからこそ、俺は転生を望んでた。
ダメな自分の何もかもを全部投げ出して、やり直したかったから。
情けなさ過ぎて泣けてきた。
ああもうなんなんだよカノプスも捜査局も。どうせ選ぶなら俺みたいな名無しのモブじゃなくて、もっと完璧なヤツを選んでくれればよかったのに。
惨めに垂れてきた涙や鼻水をひと拭いすると、ふいに誰かの手のひらが目の前に差し入れられた。
「ご両人とも。その辺にしておかれよ」
厳しい顔をしたウロギリさんだった。いつの間にか卓上に乗っかって、俺とアイリスを両手のひらで制し黙らせている。
「ほれ。みな、散れ散れ。見物人がいては、喧嘩は白熱する一方でござるから」
大仰なジェスチャーに手裏剣を投げる動きを織り交ぜて、ウロギリさんは周囲に集まりつつあったギャラリーを帰らせた。
「喧嘩なんてしてません!」
反駁するアイリスだが、若干声が震えていた。やり過ぎたかもしれない。
「互いが思いの丈をぶつけ合うのは、まごうことなき喧嘩でござるよ。ともすれば、いずれ良き思い出に化けることもあろう」
ウロギリさんは苦笑いしながら俺の方を向いて、
「……が、観行どの。いくつか確認してもよいでござるか? すでに説明は受けられたとは存ずるが、なにぶん拙者は同席しておらぬゆえな」
はい、と頷く。なんだかアレだ。先生に説教されている小学生の気分だ。
「察するに。観行どのは、カノプスに奪われた肉体や人生ににさほど関心がないのでござるかな」
「……はい」
正直、俺の体を悪用するカノプスに思うところはある。だが、危険を冒して元の人生を取り戻したところで、あるのは元通りのどん詰まりだ。だったら、今のままでいるほうがずっといい。
いや、これはこれでカノプスに命を狙われているという問題が棚上げになるが。それについて考えるのは俺の役目じゃない。捜査局の仕事だ。
結局は、何もしないことがベストなんだ。あの引きこもりの日々と同じように。
「うむ。まあ、世界を越えて生きる者ともなれば、誰にも多かれ少なかれ事情があるでござる。深く追求はせぬが……」
ウロギリさんはしみじみと語りながら辺りを見回す。カフェテリアにひしめくごた混ぜのオールスターを。
「……なればこそ。おぬしは異世界で新しい人生を手に入れるべきではござらんか?」
一瞬、俺は文脈を見失った。どういうことだ? ウロギリさんの言葉はまるで、俺に二度目の異世界転生のチャンスがあるかのような――
「異世界転生証人保護プログラム。捜査局が観行どのに提示できる報酬のひとつでござる」
報酬? そんなもんあったのかと眉根を寄せてから、ナイトラスが言っていたのを思い出す。捜査局は可能な限りの支援と報酬を約束する、だったっけ。
おそらくナイトラスとアイリスはそこについてもきっちり説明してくれるつもりだったんだろうけど、さっきはその前に俺がバカ爆発してしまったんだ。
「言わずじまいになってたわね」
おそらくは俺と同じ瞬間を思い出したんだろう。アイリスが整った眉をハの字にして補足した。
しかし――難しい言葉がいろいろくっついてるけど、『転生』だって?
「ちょっと待った。なんですかその、転生……証人保護? って」
まさか本当に、失敗した転生をもう一度やり直すチャンスがあるということか?
「何と言ってもなあ。要は米国の証人保護プログラムの変形でござるよ。組織犯罪への捜査協力はすなわち、協力者が報復のリスクに晒されると同義にござる」
証人保護プログラムなら洋ドラで観たことがある。麻薬がらみとか組織犯罪で警察側の証人になった者が名前を変えて別人になり、他の土地で新たな生活を送るというやつだよな。もっとも俺が観た話じゃ証人は居場所がバレて殺されてたが。
「それを防ぐため、捜査局はより確実性の高いシステムを構築したのでござる。世界主連合との連携により、『転生』および、転生先での生活保障を組み込んだ、異世界転生証人保護を」
ウロギリさんが腕組みしながら語ったその内容は、俺の耳には次のように聞こえた。
「……つまり。雑にまとめると。もしも俺が協力して、そんでカノプスを捕まえれば、ほかの世界に転生してラクができる?」
いやいや、ないな。これはない。我ながら都合よく解釈しすぎだ。すいません勘違いでしたと謝りかける俺に、信じられないことにウロギリさんはウムと頷いた。
「まあ、ミもフタもない言い方ならば、そうなるでござるかな」
……マジか。思わぬ展開に、心臓がどくんと跳ねる。いやいやそんなわけがない。そこまでうまい話はない。どこかに落とし穴があるに決まってる。
俺は期待に躍りかける自分をなんとか黙らせて、勤めて冷静に尋ねた。落とし穴があることはわかってる。下手な希望が幻だと宣言してくれればそれでいいんだ。
「どこの世界に転生させてもらえるか、とかは選べるんですか?」
まさかそんなワガママは通らないよな。「違うわこの愚か者めが! 成敗してくれる!」みたいに否定されるに決まってる。
ところが。
「ある程度の選択はきくでござるよ。住み心地が悪いところに放り込んでは、捜査局の信用問題になるゆえな」
……マジか!
思えばこの捜査局に足を踏み入れてからというもの、俺は色々と想像やら予想やら常識やらをことごとく裏切られてきた。しかしここにきて、やっと望み通りの答えが返ってきた気がする。
「特別な能力がついたりなんて、しませんよね?」
俺は苦笑しながら尋ねた。まさか。まさかなー。いくら異世界だなんだって言ったって、そんなにうまい話が転がってるわけが……
「無論。路傍で野垂れ死にされては本末転倒でござるからな。決して生活に困らず、かつ選択の余地がある程度の能力は付与されるでござるよ」
「……マジか!?」
これはあれか。念願だったチートでハーレムで、いやハーレムはさすがにないだろうが、とにかくそういう理想の異世界転生への入り口が、今まさに俺の目の前にあるってことか。
カノプスを逮捕できれば、夢にまで見たそれが現実として叶う。どうにもならなくなった人生を埋め合わせ、取り戻すことができる。あとは何もかもがうまくいく人生を手に入れて進むだけだ。
いや、待て、明らかにうまい話だけどよく考えろ、俺!
確かに報酬は喉から手が出るほどに魅力的だ。しかしカノプスは危険なヤツで、俺自身すでに殺されかけてる。挑めば間違いなく死の危険と隣り合わせになるんだぞ。
いやでも、ワンチャン、うまくいけば二度目の異世界転生が、今度は能力もちゃんとある理想の異世界転生が叶うわけで……それが手に入るなら……
俺は頭を抱えた。状況判断の天秤はほとんど釣り合っている。魅力的なエサと落とし穴、欲望と恐怖心。どっちに転んでも得で、どっちに転んでも後悔しそうな気がする。
やっぱり。だけど。いや。しかし。俺はそんな逡巡を幾つか重ね、迷いに迷った末にぐちゃぐちゃな思考を落ち着かせ、なんとか言葉を搾り出した。
「……や」
それは情けないことに、「やるよ」ではなく。
「やっぱ無理」の「や」だった。結局は恐怖心が勝ったんだ。
だって、仕方ないだろ。レプリカ作戦とやらに挑めば命が脅かされることは間違いない。もしもそこで死んでしまえば、俺はどうなる? いくら異世界転生が現実に存在すると言ったって、二度目の人生や三度目の人生が当たり前に貰えるもんだとは思えない。
推測だが、転生なんてのはごくごく一部の幸運なケースで、普通はきっと死んでしまえばそこで終わりなんじゃないか。じゃなきゃ人が命を大切にする意味なんてない。
だから、死にたくない。レプリカ作戦なんて、できない。
俺はその結論に従って安全な道を選ぶべく、言葉を続けようとして。
ふと――小さな子供の姿を、思い出した。
クマのぬいぐるみに手を引かれながら俺たちに手を振る、小さな男の子。
カノプスに父親を奪われて、いつかはそのつらい現実に向き合わなければならない男の子。
あの子がいつか戻る現実の世界に、カノプスが平気な顔をしてのさばっていたら。
それは別に俺には憂う必要のないことのはずで、だから頭の中にあったのはほんの一瞬で、次の瞬間には思考の枠から追い出したはずだった。
なのに、どうしてだろうか。頭の中の天秤が、
ほとんど釣り合っていたはずの、苦渋のノーを導かせたはずのそれが、
かたんと音を立てて。
「やるよ」
気がつくと俺は、それを言ってしまっていた。
自分でも理由はよくわからない。主人公でもなんでもない、特別なものなんて何もない俺が、どうしてこんな格好のついた選択をしてしまったのか。
だから、頭のなかにあることをそのまま言った。
「理想の異世界転生が叶うならさ。危険でも、やってみる価値はあるから」
言ってみると我ながら納得がいく。俺はそういう奴なんだ。異世界転生がしたい。チートでハーレムな。それをずっと望んでたんだからな。
なんの傷も澱もない新しい人生を掴む。捜査局に協力することでそれができるなら、断る理由はどこにもない。かつての人生を惜しむ理由はなおのことだ。
危険はある意味で報酬の保証でもあるんだ。カノプスが超弩級の危険人物であるからこそ、このあまりにも大きすぎる報酬にも納得がいくというものだ。
「そうだ。異世界転生のためだ。やる。やります! カノプスだろうがなんだろうが、俺が必ず逮捕してやる!」
勢いで宣言する俺にウロギリさんは若干引いていて、アイリスは呆れたような冷めた視線を投げていた。
そういうわけで、日々が始まった。
俺が生まれ変わるまでの、ごく短い日々が。
生まれ変わることの、その本当の意味も、俺はまだわかっていなかったけど。
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