#8 もうひとりの風紀課
トイレで用を済ませて、手を洗う。
非日常のド真ん中でも何一つ変わらない日常のルーチンを一通りこなすと、熱くなった思考が冷めた。
そして、猛烈な後悔と自己嫌悪が押し寄せてくる。
やっちまった。俺は自分の身勝手でねじくれたコンプレックスを、考えうる限り最もみっともない方法で吐き出してしまった。
アイリスにもナイトラスにも悪気なんて一切なかったのに。彼らはただカノプスの逮捕に懸命だっただけで、偶然めんどくさい地雷を踏んでしまっただけなのに。
なのに俺ときたら勝手に腹を立てて拗くれて。ああもう、これは完全に俺のひがみだ。八つ当たりだ。主人公とか物語の住人とかそういう諸々は置いといて、単純に人としてカッコ悪すぎる。
今からでも戻って頭を下げるべきだろうか。だけど実際どう考えたって協力するのはヤバいしなあ。仮にあの地雷がなかったとしても、悪党のボスに化けるなんて作戦が危険かつ無謀であることには間違いないんだよな。
……というか、俺がこうして逃げおおせている時点で、カノプスへの入れ替わり作戦は失敗したようなものじゃないのか?
アイリスがカノプスの追手を派手にぶちのめした以上、遠野観行が捜査局にいると知れるのは時間の問題だろう。となればカノプスは当然次の誰かに入れ替わるはずだ。何しろ狡猾な異世界犯罪者のだ、俺が思いつく程度のことはとっくの昔に実行しているだろう。
いや、それを言うなら捜査局だってこれぐらいは織り込み済みだと考えたほうが自然か。とすればやっぱり俺をここまで連れてきたのは何もかも計算の上で、やっぱり入れ替わり作戦は今のところ順調なのか。うむむ。
犯罪者にしても警察にしても、きっと俺より数段頭が回るんだろう。そんな奴らの考えをいちいち推し量っても仕方がないので、俺は考えるのをやめた。無力な俺に出来るのは、目の前に差し出された選択肢を選び取ることだ。
とすれば、やはり……
「やっぱり、行って謝っとかなきゃなあ……」
正直言ってあまり気が進まないのだが、元はと言えば突然ちゃぶ台をひっくり返したのはこっちの方だ。命だって助けてもらったわけだし、頼みを聞かないにしてもせめて頭くらいは下げとくのが筋だ。
とりあえず、この陰気な顔の見栄えを少しでもまともにしておくか。蛇口の水をばしゃっと顔に浴びせて拭っていると、男の声が狭いトイレに響いた。
「――うむ。拙者もそれがベストと思うでござるよ」
……拙者? まるで古典的オタクみたいな一人称だな。幼児期に見てた忍者アニメを思い出しながら顔を洗い終えた俺は、何ともなしに声の主の方を向いて――
文字通りに驚愕でひっくり返った。
重力に命じられるまま、タイルの床に背中をしこたま打ち付ける。どうか日々の掃除が行き届いていることを祈りながら身を起こした俺は、ゆっくりと今見たものがなんだったのかを確かめた。
俺の顔、だった。
たった今用を足したばかりといった風情でそこにいたのは、たった今鏡で見たばかりの遠野観行だった。どこからどう見ても寸分違わない、神様がちょっと手抜きで造形したんじゃないかと思える三枚目の顔。
違いを述べるとすればこっちは今にも死にそうな驚愕の表情で、あっちのは気味が悪いぐらいにニコニコ笑っているってところぐらいだ。
あとはせいぜい和風の装束めいた服装だが、そっちに考えが及ぶ前に俺はこいつの正体に気づいた。同じ顔、もう一人の俺。そんなヤツは一人しかいない。俺は映像の中の残虐にして酷薄なる遠野観行を思い出す。
――――カノプス!
なんで捜査局にカノプスがいて、なんで便所で親しげに語りかけてくるのか。疑問は次々に湧き出てくるが、それよりも何よりも逃げなければ。何を隠そう、俺はこいつの殺すリストのトップランカーなんだから。
床に尻をつけたまま無様に後ずさって便所から出たところで、ちょうど誰かにぶつかった。すがりつこうと見上げてみると、さっき微妙な別れ方をしたばかりのアイリスだった。
俺を追ってきたのだろうか。怪訝な顔で覗き込んでくるアイリスに、俺はすぐさま安いプライドを投げ捨てて助けを求めた。けれどあまりの驚愕と恐怖ゆえに、あばばばばとかいう知性ゼロの言葉しか出てこない。
「どうしたの? もう捜査局に驚くものなんてそうそう――」
「ある! あるんだよ! 超弩級のヤバイのが!」
あ、声が出た。けれど安堵したその時にはすでに遅しで、カノプスもまた悠々とトイレから出てきたところだった。余裕の表情で手なんか拭いながら。
そしてアイリスはカノプスと対峙する。緊張の一瞬にごくりと唾を飲み込むけれど、アイリスは呆れましたと言わんばかりの気怠げな溜息をついた。
「……ウロギリさん。局内では顔を戻してくださいって、いつも言われてるじゃないですか」
ウロギリさん。誰だそれはと思っていると、カノプスであるはずの男がなぜかアイリスに反応した。
「んむ。ああ、これはしたり。まったく気づかなんだでござる」
と言って、そいつはナハハとお気楽に笑ってみせた。
そこでようやく、俺にもこのござる男がカノプスとは別人らしいとわかってきた。顔こそ同じではあるけれど、この人懐こそうな笑顔はどう見たって映像の中のカノプスとは噛み合わない。
「いやはや。驚かせて申し訳ない」
苦笑しながら、俺の顔をした男は胸の前で何やらカッコ良さげな形に指を組む。それが忍術の印みたいだと気づくと同時に、
どろん。
何か重いものが水中に沈み込むようなくぐもった音がして、ウロギリさんの姿が煙と化した。煙はすぐに四散して、代わりに無精髭を生やしたおっさんが現れる。
おっさんの容貌は、これまで俺が捜査局で目にした誰のものとも違っていた。ナイトラスはもちろん、アイリスともマリナ先輩とも。その辺にいそうな、三十過ぎくらいの日本人男性。それがウロギリさんの真の姿だった。
「アイリス殿と同じく、捜査局の何でも屋こと風紀課の一員。ウロギリ・ジンタロウと申す。以後、見知り置き願おう」
ウロギリのおっさんはニコニコと微笑みながら手を差し伸べてきた。その格好は動きやすそうな装束と必要最低限の軽装鎧が組み合わさったもので、名刺をもらわなくても彼が何者なのかを悟らせてくれる。
「……つまり、忍者?」
ロボの次は忍者のおっさんか。なんか属性がベタというか、一昔前の流行りというか……言っちまうと、古くさいな。
目の前で起こった不条理がひととおり飲み込めてくると、今度はどっと疲れが湧いてきて、同時に腹の虫も盛大に鳴った。
そういえば、元いた世界で朝起きてからロクに飯も食べてなかったっけ。立ち上がりながらぱっぱっとホコリを払うと、また別のどこかで腹の虫が鳴く。
目をやると、アイリスが難しい顔で腹を押さえていた。
なるほど、と腹をすかした俺たちを見渡して、ウロギリさんはまた呵々と笑って、楽しそうに腕を組んだ。
「腹減れば、潜入捜査も、できぬ哉……お、五七五になったでござる」
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