Chapter 2

 新しいものは、本の他に、何かを伴って学舎の中央広場に現れるのが決まりだ。

 学舎を上から見れば、大きな二つの円形から成り立っていることがわかるだろう。その円は五分の一ほどの割合で交差しており、長方形の壁で囲われている。中央広場は、片方の円の中心にあった。交差しているエリアは食堂であり、もう片方の円は図書館を形成している。

 新しいものが現れると、妖精たちがアラームを鳴らす。手のひらをふたつ広げた程度の大きさの急が、光とともに音を鳴らす。一番よく見かけるアラームだ。光の明滅加減によって、どのくらいの規模なのかを知らせてくれる。三回光ってから一拍の休止を挟む。軽やかな音がする。

 『ロシア語』と呼ばれる妖精の一種が、〈カラマーゾフの兄弟〉に話しかけてくる。なるほど、私の姉妹ではないのだろうが、私の担当ではある。

 このアラームは、緊急性はないが、娯楽性が高い。特段用事のないものたちは、中央広場に集まる。

 あかがね色の絹を身体に巻きつけて、中空から広場の中央に降り立とうとしているのが、今回の新入生だろう。同じ色の本を右手に抱えている。まだ目は開いていない。眠りを覚ますのは、『先生』の中でも、名付け親と称される種族の役目である。名付け親は、他の種族よりも広範囲に広がる発声器官を持ち、足はなく、なめらかな表面をしている。胴体部分に、新入りの姿が映り、見上げる者たちは名付け親の宣告を静かに待つ。

 名付け親は、新入生が地面に到着すると、手を使って布を外す。それから本のタイトルを読み上げる。

「はてしない物語」

 その声色は大きな鐘の音に似ているが、ここにいるものたちは、鐘を聴いたことがない。この学舎には鐘がないが、さまざまな本に鐘に関する記述があるので、どのような音がするかは把握している。修辞上の理由でも鐘と呼ばれる。要するに、内部が空洞となっている、大きな構造物に対する打撃音だ。材質は固めで、金属が好ましい。本を持つ者たちは、それほど大きな構造物ではないので、私たちを叩いたところでこのような音はしない。

 ちなみに『先生』を叩くと、似通った音が発生する。大きさが多少足りないようだが、中になにもないことはわかる。

 名前を呼ばれると、新入生は目を開く。目覚めたものには制服が渡され、こうして、新入生は〈はてしない物語〉と呼ばれることとなる。この学舎に存在するものは、本を伴って現れ、本の名前を自らの名前とする。名付け親のみが、そのタイトルを読解することができる。

 〈はてしない物語〉は、ほかのみながそうであるように、ここにいるものすべてと異なった姿をしていた。限りなく白に近い銀色の髪を長く垂らしていて、瞳は均整の取れたアーモンドの形を取りながら淡金に輝く。やがてそれは立ち上がったときに布が落ちており、自らの服をまとわないことに気付き、制服を身につける。

 あかがね色の布は掃除を生業とする『先生』が持ち去った。

 集まったものたちは拍手をする。〈はてしない物語〉は一礼し、まっさらな頭で、これからどうすればいいのかと思う。学舎に現れてからすぐのものは、基本的な情報以外にはなにも入っていない。基本的な情報が何なのかというと、それぞれ異なっている。例えば、〈文体練習〉は中央広場にあらわれてから即座に案内役の言葉を繰り返し続けたというし、〈フライデーあるいは太平洋の冥界〉は無人島で生き残るすべを知っていた。学舎においてその知識は必要とされなかったが。

 基本情報の基本は、まず、文字を読めることである。それから、本を本として認識することだ。

 〈はてしない物語〉の場合は、文字を読むことの他に、ある時期の西欧世界において『礼儀正しい』と呼ばれる振る舞いを知っていた。だから、〈カラマーゾフの兄弟〉が、学舎の案内を申し出たときに、まずは視線で承諾の意を示した。

「ようこそ、学舎へ。〈はてしない物語〉、私は〈カラマーゾフの兄弟〉、ここの新入りは、まず何をするのか知ってる?」

 〈はてしない物語〉は首を小さく横に振る。

「あなたは本を持っている。地面に置いちゃだめよ」

「確かにそうね」

 目覚めた瞬間から、本を持っていた。本は、〈はてしない物語〉が身につけていたのと同じ、あかがね色の絹に装丁されていた。表紙は光を当てると模様と文字が見出され、タイトルが『はてしない物語』であることが読み取れる。〈はてしない物語〉がはじめて読んだ文字は、ここにいるものの例に習ってタイトルであった。

「置いたっていいけれども、一時的でなければならない。部屋に金庫があるから、そこにしまったほうがいいんじゃないの。でもその前に、することがある」

「すること?」

「あなたは本を読む」

 〈カラマーゾフの兄弟〉は、カバンから取り出した自らの本の一冊を示しながら言う。

 

  学舎に存在するものには、ふたつの行動が許されている。

 第一には読書だ。

 学舎には、かならず一冊の本を持って現れることとなっている。一冊には収まりきらない量のテキストである場合は複数に分冊されているが、それも一冊とカウントする。その本を読むのが、ここにあるものの第一の任務だ。学舎に降り立ったとき、学舎に関する何もかもを知らなかったとしても、その本を読むだけの知識を携えているというのが、学舎ができてからの伝統だ。

 そう言われている。

 どこで誰が言っているのかはわからないが、そう言われている。

 第二には発表だ。

 発表の多くは、授業と呼ばれている。本を持つものたちは、自分が持って生まれた本を読み、それをまとめ、発表する。発表したら、他のものからコメントをもらい、その本に対する理解を深める。進行役を務めるのが、通常の『先生』だ。クラスを決定したり、発表スケジュールを制定したり、教室のセッティングをしたりする。

 自分が持っている本以外を読んではならないが、内容を知る必要がある。他の本の内容を知ることによって、自分の本をより大きなスケールで理解できたり、感情の機微に気付いたりする。

 例えば、〈カラマーゾフの兄弟〉と〈レ・ミゼラブル〉が親しさを持っているのは、どちらの物語も多数の登場人物を持ち、登場人物それぞれが異なる語りを持つという点で同一であり、それが作者の大きな思想の表現に寄与する割合が異なるからだ。


 そして、最も異なっているのが、彼女に対する姿勢だ。〈カラマーゾフの兄弟〉は、〈レ・ミゼラブル〉と交わした以下の会話をよく覚えている。あれはいくつの季節をさかのぼったときのことだろう。西の広場だったはずだ。ふたりはベンチに座って、噴水を眺めていた。

「あなたはもうそろそろ、夢を見るのをやめたほうがいいと思うのだけれど」

 〈カラマーゾフの兄弟〉は、〈レ・ミゼラブル〉が彼女を物語としたいという願いを持っていることに対して、反発心を抱いていた。できることならば応援もしただろうが、不可能に挑戦し続けることが合理的であるとは、到底思えなかったからだ。

「夢ではなくて、現実だって、何回言ったらわかってくれる? 現実が、現実がそこにあって、わたしは彼女に見られて、わたしは彼女を見たの。こんなことしか言えないのに、ほんとうはもっともっとたくさんのものがあったの。無限に近いものが。叙述を試みたって、無駄みたいだから、せめて、ほんとうではないとしても、物語として」

「それがすべて無駄だってことが、どうしてわからないの」

 やったことがないから、そんなことが言えるんでしょう。〈レ・ミゼラブル〉は語気を強めて言う。

「わたしはどうしても彼女のことを書き記したい」

「いつも言ってるけど、それが事実じゃなければ、書くことはできないでしょう」

「だから物語を」

「物語は私たちではなくて、作者が作るものでしょう。そして私たちは作者ではないし、作者には会えない」

「でも、ここには作者のいないものもいる」

「わたしは存在を掛けて彼女を愛しているし、存在を賭けて書きたい。もしそれが、あなたの読めるものじゃなくても。わたしが読む必要があるの」

 〈カラマーゾフの兄弟〉はそれ以上の言葉を持たなかった。自らの持つ物語は、かなり様々な場面での感情の移り変わり、思想信条の変化、変化しないことによる軋轢を含んでいる。だから、学舎では相談役としての地位も多少持ち合わせていたのだ。しかしながら、当然のように、この場面は存在しなかった。

 私は〈レ・ミゼラブル〉に何ができるのだろうか。破滅へと進む魂を、掬い上げるにはどうすればいいのか。

 もう一度きちんと本を読み直そう、と〈カラマーゾフの兄弟〉は思う。あれだけの厚さから、何かを読み取ることができるのではないかと。

 

 中央広場からはみなが戻っていく。居室に、教室に、あるいは他の屋外に。〈レ・ミゼラブル〉は、去っていくもののなかに誰かを探しているようだ。また彼女のことだろうか。

 いたら教えてあげてもよいが、群衆の中に彼女の姿は見当たらない。記憶が正しければ、彼女にはどのような役目も課されていないはずなのに。妖精の声は聞こえるはずなのに。彼女はいない。

 彼女はこの新入りに祝福を与えないのだろうか。物陰からこっそり見ていたのかもしれないし、これ以外にも彼女が祝福を与えなかった本はいくらでもあった。

 〈はてしない物語〉はこれからどうするべきなのかわからず立ち尽くしている。〈カラマーゾフの兄弟〉は、どこに行くべきかを聞いてくるから、少し待っていてくれと言い残して、宿舎の方へ行く。

 〈カラマーゾフの兄弟〉は〈はてしない物語〉がどこへ行くべきなのか、管理者を任ずる『先生』に尋ねる。

「西中央南棟の管理者にお聞きください」

 西中央南棟の管理者に尋ねると、

「西中央南棟-Hの管理者にお聞きください」

 西中央南棟-Hの管理者に尋ねると、

「235号室です」

 との回答があった。

 〈はてしない物語〉の部屋には、机と、ベッドと、金庫が備え付けられていた。ここにあるすべてのものと、同じ装備だ。

 

「これがあなたのための妖精――ドイツ語のひとつね」

 緑色をした浮遊する球体を手招きする。今は片手で持つには余る程度の大きさをしている。一応ドイツ語も使えるので、それはこちらにやってくる。

 妖精に手足はない。手足が必要な場合は、突起が生えてきて、手足と同じ働きをする。落としたものを取って、とか、定刻に起こしてほしいとか、そのくらいの依頼だったら、突起でたいていのことはカバーされる。

「きっといつか会うことになるだろうけど、〈神曲〉っていうものがいて、それはとても起きるのが下手なの。曰く、毎夜の夢がうつくしすぎるから起きたくない、だなんて言うんだけど。ある時、妖精に朝起こしてくれるよう頼んだら、イタリア語ひとつの妖精じゃ足りなくって、日本語やらスペイン語やら、たくさんの妖精に袋叩きにされてたっていうはなしもある」

「ずいぶんと痛そうですね」

 〈はてしない物語〉は妖精の権利に対して興味があるようだった。学舎の中では、規則以外に縛るものはなく、それとは対照的に、規則には従う必要がある。

「大丈夫、直接妖精は私たちを傷つけることはできないから。痛いかもしれないけど、傷はつかない。なにもないときは、やわらかくて気持ちがいいから、クッション代わりにしたっていい」

〈はてしない物語〉は妖精をつつく。本の表紙よりは柔らかい素材で形成されていることがわかる。 

 

 新入りへの歓迎が済んだので、〈カラマーゾフの兄弟〉は、あの夢想家をどうにかして現実に引きずり下ろすにはどうすればよいのかを考え始めた。自らの本に、そんな場合の対処法が書いてあればよいのだが、どちらかといえば現実よりも信念に基づいた物語であったため、たいして役にはたたないようだった。

 そんなときのために〈バベルの図書館〉がいる。

 

 〈バベルの図書館〉は「知りうる限りの何でも」を知っている。何でも、というのは、誰に何を聞けばよいのかを理解しているということだ。その相手に聞けば、理解できることを知っているのだから、それは何でも知っていると呼ばれるに値する。

 もし誰に聞いてもわからないのならば、この学舎内では知られることのない事実なのだから、その事実がわかった時点で何でも知っていると呼ばれるに値する。

 図書館だなんて不吉な名前をしているけれども、本体はいたって善良だし、ずいぶんと協力的だ。たいてい図書館へと続く廊下の前にいて、図書館に行こうとするものがいたら、それを止めているらしい。

 図書館に自ら行こうとするものはほぼいないから、役目はないに等しい。『先生』が持ち主のいなくなった本を格納していくのを眺めるのが、もう一つの役目だ。本が図書館に行くと、学舎本体からはすべての記録が消去される。掲示板、出席リスト、明日の約束、あるいはノートの書き込み。それらの消去漏れがないのかを確認するのもまた、〈バベルの図書館〉が担う重要な任務だ。

「必要じゃなくなるまで、必要とされるのがぼく」

 それが信条のようだった。毎朝、増えることも減ることもない羊の数を数えるよりは、有意義な役目なのかもしれない。

 

 〈バベルの図書館〉は、見るたびに異なる姿をしている。ここにいる誰かに似ているようで、そのものではない姿だ。今日は〈源氏物語〉によく似ていた。細身で、髪を長く下ろして、分厚いノートを読みながら、簡素な椅子に座っている。地面に髪が届きそうで届かない塩梅だ。光を通さない黒髪は、〈源氏物語〉の象徴だが、これは〈バベルの図書館〉なので、多少の陽光を通す。夜よりはずいぶん明るいけれども、影よりは暗い黒をまとった〈バベルの図書館〉は、とてもそれらしいものだと思う。どんな姿をしていてもそれらしいと思わせるのが、常に身につけている薄いレンズの眼鏡と、〈バベルの図書館〉のみが持つことを許されているノートだ。

 何があってもそれだけは変わらないし、他のものが似た眼鏡をつけていることもない。雨に当たれば割れてしまうのではないだろうかというほどの薄さのガラスによって、世界と〈バベルの図書館〉の瞳は境界を定めている。

 ノートの方は、他のものが読んだところで罰則があるわけではない。長い時間持っていると罰則を受けると聞くが、『長い時間』がどれだけなのかは明文化されていない。一季節過ぎたらだめだとか、三十分くらいでも罰が発生するとか、さまざまな説がある。罰則は誰も受けたくないものだから、たいていの場合は〈バベルの図書館〉が持っているところを見せてもらう。

 〈カラマーゾフの兄弟〉も、この学舎にいるものの例にならって、見せてもらったことがある。

 それは名前だ。

 この学舎に存在するものすべての名前が記されている。新入りから、古株まで、すべての名前だ。並んでいる順番は、閲覧時刻によって異なるらしく、〈バベルの図書館〉は、変わってしまう前にその規則性を発見するのが趣味だという。〈カラマーゾフの兄弟〉が見たときには、名前の文字数によって順位付けられていた。

 索引は含まない。

 しかしながら、当然かも知れないが、リストは、『先生』や妖精も含む。ここではじめて、それらにも個体名がつけられていることに気付かされるものも多い。

 さてここで疑問が残る。

 本を持つものたちは名付け親に名前を宣告される。持っている本の名前が、その名となる。

 それではほかのものは、どうやって名前を名乗るのだろう。

 本もないのに?

 

 〈カラマーゾフの兄弟〉が図書館に近付くに従って、〈バベルの図書館〉はそれに冷ややかな目を向ける。

「まさか、図書館に行きたいだなんて、あなたが。〈カラマーゾフの兄弟〉、足るを知るものではなかった? それとも、道に迷ったのかしら? 進む道はなくて、帰る道だけがある」

「図書館の鍵ではなくて、現実の手がかりを得に来たの。〈レ・ミゼラブル〉の話をしに」

「ええ、〈レ・ミゼラブル〉はここに来たことがある。ぼくは追い返した。当然のように、それが役目だから。それ以上のことは起こっていないから、あまりきみのお手伝いはできないように思うけれども」

「あれを止めるためには、どうすればいいの? 望みもできない望みを、諦めさせるためには。彼女を記述するなんていう。記述、記述じゃなくって、物語にするだなんて。できたら、〈レ・ミゼラブル〉のことは、忘れたくない」

「彼女にうつつを抜かして、物語を産もうとするものは――珍しいけれど、いないなんてことはない。そうでなければ彼女に認識されようとあらゆることを試みて、どこかで禁忌を犯して図書館に来ることになる。今のところ、帰れる道しか来ていないから、そのままでいてほしいと願うことくらいならできるんじゃないの」

「〈バベルの図書館〉にも、知らないことがあるの?」

「知らないこと、ぼくはそれを知らないことを知っている。それで必要十分とするのが、学舎の在り方」

「わたしは、彼女に〈レ・ミゼラブル〉を引き渡したくないの、それだけ」

「誰だって、仲間は失いたくないもの。それなのにぼくらは仲間を失っていく」

 たとえ話をしよう、ここでは誰もしたことのない話だけれども、物語の糸はかいくぐれるだけの強度はある。〈バベルの図書館〉は、ひとつ息をしてから語り始める。

「ここに、傷のない百個のみかんの入った箱があるとする。重力があるから、下のみかんは早く傷んでしまう」

「傷んだみかんを早く取り除かないと、すべてのみかんがだめになってしまうというあれね」

 よくあるたとえ話である。組織の腐敗は、ただひとりから生み出されるということ。腐敗が始まると、それは点状ではなく面状に広がっていくということ。だから、組織が腐敗を始める前に、そのひとりを消去しなければならない。

 〈レ・ミゼラブル〉がそのひとりだというのだろうか?

 〈バベルの図書館〉は、その安直な思考を切り捨てる。

「違うよ」

 ノートを閉じ、立ち上がり、〈カラマーゾフの兄弟〉と視線を合わせる。薄いレンズに隔てられた瞳は、今日は深い夜と同じ輝きをたたえている。

「傷んだみかんは存在しないんだ。この箱には傷のない百個のみかんが入っているから。常に、そう定義されているから」

「それじゃあ、傷んだみかんを傷がないと偽るつもりなの」

「これはきみにはまだ開示されていない秘密だろうけれども、常に、傷のないみかんだけが存在する。そのような空間を想定するしかない。傷のあるみかんは、底からそっと取り出されて、潰されて、新しいみかんが入ってくるんだ。傷のあるなしに関係なく、傷のないみかんだけが、箱の中にある」

 〈カラマーゾフの兄弟〉は夢想する。許された範囲の思考で。傷むことのない、オレンジ色の球体に似たものたち。腐り始めていることを認識することさえ許されない完璧な場所。そこには、入口も出口もない。ないことになっている。箱の中は、いつだって美しい。

「美しい庭ね」

「このノートと大体等価値だ」

 見るかい、〈バベルの図書館〉は〈カラマーゾフの兄弟〉にノートを開いてみせる。そこにはレ・ミゼラブルの名前がある。ブルーブラックで記されたその名は、まだ〈レ・ミゼラブル〉が図書館には行っていないということを表すし、それ以外のことは何も意味してくれない。

 

 最後にこれだけは伝えられる、とつぶやいて、〈バベルの図書館〉は再び椅子に座る。

「〈バベルの図書館〉は、ここにいる皆を知っている。ぼくの能力の限りをもって、知っている。だから、それらの関係性の糸を辿って、欠落を幻視することができる。絡まった糸の一本が切断されても、そこに存在したであろう結び目を観測することができる。できるだけ古い糸を観測すれば、いくつもの欠落を仮想化できるし、今ある糸が緊張から切れそうならば予測ができなくもない」

 きみにも覚えがあるんじゃないだろうか。

 〈カラマーゾフの兄弟〉は、自らの能力の限りにおいて、〈バベルの図書館〉の発言を咀嚼する。噛み砕いて、自分の内に入れて、それから思考する。糸のようなもの、それは私と〈レ・ミゼラブル〉をきちんと繋いでいるのだろうか。〈レ・ミゼラブル〉がひとりで結び目を切ろうとしてるんじゃないだろうか。

 ならば、ハサミを持つものは何なのだろうか。

「あなたは、切れそうな糸をどうにかすることができないの?」

 〈バベルの図書館〉は、〈カラマーゾフの兄弟〉の思考の深化を促すために、もう一言付け足す。

「切れそうな糸を知るまでがぼく。糸を自ら結ぶことが、ここではできないことを知るのもわたし。最後のヒントだ。ここには作者のないものもいる。ぼくらには、作者がある、だから姉妹がいるわけだけれども――ひとりっこ、その中でも作者を持たない存在たちは、彼女を巡る物語について知るのに誂え向きなんじゃないだろうか」

 〈カラマーゾフの兄弟〉が想起するのは、もっとも古いものの群れ。黄金時代を知るものたち、あるいはこうなる前の世界。

「私に言えるのはここまで。必要十分かしら?」

「十分ではないけれども、必要を手に入れた」

 それならよかった。〈バベルの図書館〉は、ノートの閲覧に戻る。〈カラマーゾフの兄弟〉は、来た道を帰りながら、指し示されるもののうちもっとも実行可能なものについて、考える。

 

 〈バベルの図書館〉が指し示すのは、高確率でもっとも古いもののひとつ。それらを頭に思い浮かべながら、その中でもっとも話が通じそうなものの元へ向かう。

 太陽が壁よりも下がってきたのであろう、夕刻の日が〈カラマーゾフの兄弟〉を照らす。今日の役目はもう終わっている。だからもう、太陽の元へと向かってもよい。

 空に浮かぶ太陽ではない。地面を歩く太陽の一、ここにあるさまざまな明かりをもつものたちの祖。私たちと同じような姿をした、私たちとは少しばかり違うもの。

 

「それで、私に話を聞きに来たという訳か」

 〈ギルガメシュ叙事詩〉は四阿に設えられたベンチから、こちらを振り返る。〈ギルガメシュ叙事詩〉のような古株には、みなの住む居室の他に、固有の居所を持つものがいる。〈ギルガメシュ叙事詩〉の居所は、学舎の中心から外れた小川のそばにある。壁に囲われた部屋なんかより、外の風を浴びているのが好きなのだと、かつて人伝に聞いたことがある。

「〈バベルの図書館〉が示唆したのは、あなたなんじゃないかと」

「図書館の番人は、私なんかよりも多くの名前を知っている。名前を知ることで、何ができるかって、一意に定めることはできないけれども」

「あなたって、黄金時代のひとなのでしょう?」

 〈ギルガメシュ叙事詩〉の姿は、はちみつ色の黄金によく似ている。肌と髪の色の境目はほとんど存在せず、ゆるやかなグラデーションを持って、全身で金色を体現している。制服のベージュが縁取られて輝いて見えるほどに、それは華やかさをなだらかに身にまとっていた。瞳だけが銀にきらめいていて、いっそう全体のきらびやかさを増す。

 しかし、黄金時代というのは、その姿に依存する概念ではない。同じ黄金時代に属するものとして、〈ハンムラビ法典〉があるが、それは三つの頭を持ち、身体の多くはグレーであり、黄金の箇所はまつげだけだ。

「そのくだらない区分けは、誰が決めたんだい?」

「それは」

「いつの間にかそういうことになっていた、わかるよ。作者を持たずに、ある程度昔のものをそう呼ぶんだろう。最近だって作者のないものはいくらでも来るのに、そういうのは青銅だの鉄だのと言う」

 それで、どうしてわざわざここに来たのか、ちゃんと説明してくれないだろうか。〈ギルガメシュ叙事詩〉は、苛立たしげに言う。

「あなたはさっき、訪問理由を理解したように思ったけれども」

「理由は理解した。動機をそこから読み取れというのは、少々無理筋だと言うほかあるまい」

 仕方ないな、〈ギルガメシュ叙事詩〉はあいまいに頷いて、

「確かに、彼女が現れる前の学舎なら知っている」

「つまりこういうことだ。彼女の来る前にも学舎はあった。彼女が来てからもご覧のように学舎はある。その差異を、記憶してはいるけれども、何がどう変わったかを、明らかにすることができないんだ」

「あなたなら、ここの歴史をかなりの割合で知っていると思っていたけど」

「何でも、それはまあ、過度な期待というものじゃないか。確かにここに長いこといる。だからって、目覚めた瞬間のことを覚えていないし、すべての季節を暗記してもいない。風化していくんだよ。紙は水に晒せば傷んでいくし、石だって風が吹き続ければ摩耗するんだ。過去を全部検索可能にするなんて、そんなのは権能の外側にある。〈バベルの図書館〉あたりが理論値を出せば可能かもしれないけれども、学舎の壁のなかじゃあ無理だろうね」

「壁を越えればいいっていうの」

「壁を見たこともないくせに。ぼくも見たことはないから、偉そうなことは言えない」

 壁があるのはみなが知っていることだ。学舎の外側には、大きな壁があり、門はない。出ることはできない。それは知っている。しかし、学舎から壁はあまりに遠いため、ほんの一角ですら見たことのないものが多い。

 壁を見るために旅立って、本体は戻らず、回収された本はいくらでもある。

「だから、もし、仮に、〈レ・ミゼラブル〉が彼女を記述できたとしよう。物語として。本質を書き記すだけの権能を持ったとしよう。そうしたら、その瞬間に〈レ・ミゼラブル〉は消えなくてはならないんだよ。〈レ・ミゼラブル〉の作者は〈レ・ミゼラブル〉ではないのだから」

 なるほど、存在を掛けているとはそういったこと。〈レ・ミゼラブル〉はすでに理解しているのだろう。あるいは、理解していなくてもわかってはいるのだろう。物語を作成することの禁忌に関しては。

「どうやったら止められる?」

「本を持つものたちは、残念なことに自由意志を与えられている。ルールはあるけれども。ルールを破りたいという志向さえ、与えられている。」

「その結果どうなる? 消えるしかない。消えた本をいくつも見てきた。きみだってそうだろう。いくつも見てきたのは覚えているけれど、それらの詳細については思い出せない。図書館にある本の内容は知ることができないから」

「ところできみ、妖精のルールは覚えているか」

「物によって異なる、限られた種類の妖精にしか命令ができない。妖精への命令は音声言語で伝えられなければならない。妖精は私たちを傷つけることができない」

「そう、何も間違ってはいない。だけれども、ほら、〈ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら〉が起こした、そう愉快ではない事件のことは覚えているかい?」

 〈ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら〉は、破天荒なまでに明るく、行動の予測をつけることが大変困難なものであった。まだ覚えていられるのが奇跡的だ。おそらくはテキストの読みすぎでそうなってしまったのだろうと予測されている。それが起こした事件はいくつもあるが、妖精絡みならひとつだろう。

 〈ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら〉は、正方形の庭を整備するという役目を課された。庭には、小石ほどから、単体では持ち上げるのが難しいほどの大きな石までが乱雑に散らばっていた。それを整然と並び替えたかったのだろう。妖精に依頼して、石を運ばせることにした。ドイツ語であったと言われている。妖精たちは寄り集まり、任務を遂行しようとした。〈ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら〉は、妖精のそばで指示を出していた。小さい石は簡単に運べたが、力持ちの妖精であっても大きな石を運ぶのは大変だったようで、

「おい、その石はもっと右に置かなくちゃ」

 妖精たちがその命令を聞こうとしたとき、強風が現れた。

 不運なことに、その石は〈ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら〉の真上にあった。妖精たちはバランスを崩し、〈ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら〉に石が落下する結果となった。頭の半分が潰れるという、石の重さの割には軽い損傷で済んだ。

 このはなしの後日談として、医務室に運ぶように妖精に命じようとしたが、頭が半分潰れているため、発声器官に支障を生じ、「医務室に挟んでくれ」と妖精が指示を受け取ってしまったというものがある。結果として医務室のそばには来たので、治療を受けることができた。医務室に挟まったせいで損傷部は増えてしまったが。

「妖精を使うときには副次的な物理損傷に気をつけようということ?」

「一理ある。正しくはある。それと、ぼくたちが物語を摂取するときの方法を考えてみてほしい」

 物語を摂取するときは、本を用いる。本には、ページがあり、文字が書かれている。その一文を読み進めることによって、物語が形成される。

「ぼくらは、物語そのものを他のものに見せてはならないが、内容を解釈して語り合うことは奨励されている」

 だからきみだって『ギルガメシュ叙事詩』を知っているんだろう。私――ではないね、ギルガメシュと、その友人のエンキドゥの物語、と呼ぶには雑多なストーリー群だ。

 

 答えは決まり、ならば実行するのみである。 

 〈カラマーゾフの兄弟〉は、いっとう上等なノートを探す。『先生』は正当な理由があれば備品を配給してくれる。〈カラマーゾフの兄弟〉はそれを、思考の生理用なのだと言ってもらってくる。それから、一番馴染みの深いロシア語ではなくて、フランス語の妖精を呼ぶ。

「あなたたちに頼みがあるの。限定用法のまじないを」

 〈レ・ミゼラブル〉がおそらく本気で彼女の物語を作りたいのだということは、〈カラマーゾフの兄弟〉も承知していた。だけれども、その行動が〈レ・ミゼラブル〉の消滅に帰結するならば、許すわけにはいかなかった。消滅が悲しいのではない、私が忘れてしまうことが許せないのだ。〈カラマーゾフの兄弟〉が、自らの信念に自覚的だったのかは、知る由もない。

 ひとつ息をする。〈カラマーゾフの兄弟〉は、妖精に命ずる。

「もしも物語が、〈レ・ミゼラブル〉の眼前に現れることがあったら、それを認識する前に消し去って。何も見えないようにして。何も聞こえないようにして。物語は存在するだけで世界を壊すのではないの。認識して咀嚼するからいけないの。このまっさらなノートが物語を認識した時、すべては行われる。私はお前たちに命じます」

 この命令が届くように、と〈カラマーゾフの兄弟〉は思う。実行されたかどうか、わからないから。

「〈レ・ミゼラブル〉が物語を認識しないように」

 妖精は縦に一回転して、承諾を示す。

 〈レ・ミゼラブル〉が、もし物語を作ってしまったら。そうしたら自らの記した物語によって、〈レ・ミゼラブル〉が消失してしまう。どんな説得も効果を持たないのだから、こうすればよい。妖精たちは物語を認識して、跡形もなく破壊してくれるだろう。

「私が消えた後も、存在が守られますように。私の生きる世界に、あなたがいますように。私には存在しない欲望を、私抜きで叶えないように」

 妖精たちはドアから出ていく。〈カラマーゾフの兄弟〉は扉を閉める。

 机の上にはノートが残る。


「もし本気なら」

 〈カラマーゾフの兄弟〉は〈レ・ミゼラブル〉にノートを渡す。表紙も中紙も白いノートだ。表紙とそれ以外を分けるのは、僅かな紙の厚さの違いしかない。糸かがり綴じされたノートは、開きやすく使用に便利である。

「このノートに物語を記して。そして私に読ませて」

「ありがとう。ようやくわかってくれたのね」

「私はいつだって、あなたの幸福な生存を願っているから」

 〈カラマーゾフの兄弟〉の言葉に嘘はなく、〈レ・ミゼラブル〉は祝福を受け取る。どうにかして彼女を記述しなくてはならない。物語という形を取るならそれでもいい。白いノートはすべての可能性に開かれている。

 まずは名前を書こう。自分の名前を。

 

 名指されたものが名前でしかないのなら、われわれはどうやってあなたを見つけられるだろうか。

 見つかったあなたがあなたであることを、明かす手段はあるのだろうか。 

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