第6話 ただ、一言に

 ぐじゅ


 落ちていた枝で地面に文字を書く。出来なかった事、教えられた手順、先生の好きな物……。

 落ちてくる涙も鼻水も、袖口で拭いちゃった。どうしよう。


 捨てられたくない。


 小さな失敗は、今までもしてきた。嫌われないよう、殴られないよう何でも覚えてきた。

 嬉しかった。先生に撫でて貰えるのが。

 温かかった。先生の手が。


 もっと先生の笑顔が見たかったのに、どうして上手に出来ないんだろ。


「せんせ……。」


 とても綺麗な毛並み、吸い込まれそうな目を見てると胸がポカポカするし。


「先生に、捨てられゃうよぉ。」


 ずっと、とは言えなくても。事務所に来てからの短いけれど温かい日が、続いてほしい。 


 でも、逃げちゃった。謝る、という行為を教わったのに。

 先生の目を見てしまった。「使えない。」と捨てられた時と同じ目を。

 

「先生、ごめんなさい。」


 ただ、その一言が言えなかった。


「先生、好き……だいしゅき。」







 ……すごく出にくくなってしまった。

 『問いかけ』により姿を消し、キツネさんを探しに来てみれば。「捨てられる」とは、穏やかではありません。いつも、どこかビクビクしていた理由だったのでしょう。


 まったく。捨てる訳ないじゃないですか。

 お腹が減っているだろう、と朝食も温め直して持って来ていますし、見つけた風を装って近づけば良いのですが。


 お腹が鳴る度に、書く手が止まる様子をじっと見つめる。

 きっと、キツネさんには必要な時間だ。腕を食い込むほど握り、見守ります。

 

 あなたが出来る事は、何ですか?


 あなたには、他の者には無い記憶力がある。失敗も含めた全てを記憶するあなたに、と思っていた。

 いや、正直に言おう。嫉妬していた。能力に、容姿に、そして在り方に。


 私では届かない域に。諦めた私の20年を超えていく。たった、数か月で。


 私は……キツネさんが、恐い。

 顎に垂れた血が、正気に戻した。下唇を噛んでしまった。ニオイで気づかれて——


「ん? 先生? いるの?」


 ――しまいました。

 キツネさんが顏を上げ、私を探し出す。潮時だろう。

 風下にいなかった事、下唇を噛んだ事、そして今もなお嫉妬する自分が情けない。


「すいません。潜むつもりは無かったのですが。」

「あ、あのね、先生?」

「キツネさん! ……こほん、私に言わせてください。」


 勇気を振り絞り言おうとしたのは、お互い様ですよ? キツネさん。

 場数だけは、私の方が多いのですから。


「その、何と言いますか、えっと。ごめんにゃさ……うう。」

「ふふ、先生かわいー。」


 あああ、かみました。キツネさんにも笑われてしまいました。でも、仲直りできたと見て良いですかね?

 抱き着いてきたキツネさんと食べる遅い朝食は、温めた以上の温かさを感じました。

 お腹が一杯になったキツネさんが私の膝の上で、早い昼寝をしようとします。許しても良いのですが。


「ところで、キツネさん?」

「なーにー?」

「洗濯物を、増やしましたね?」


 逃げようとするキツネさんですが、放しませんから。ふん、だ。

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