心臓ばくばく ムーンキャット

 もう口から心臓が飛び出しそう。テントがこんなに狭いなんて想像もしていなかった。

 すっかり暗くなった午後九時。あたしたち文芸部の三人は畑の隅に置かれたテントの中で身を寄せ合って座っている。

 テントと言ってもホームセンターで千九百八十円で売られている安物のワンタッチテント。二人用だからすごく窮屈。


「すまんな。最近色々と出費がかさんで、こんなテントしか用意できなかった。万波、テントの布が歪んでいるぞ。もっとこっちへ寄れ」


 犬童先輩があたしの肩を掴んで引き寄せた。左腕が先輩の体に触れる。どうしようどうしよう、血液が逆流しそうなくらい胸がトキドキし始めた。


「先輩、両手に花ですね。まるでラノベの主人公じゃないですか」

「馬鹿者。これはあくまでも崇高なる部活動の一環にすぎない。あんな軽薄な人物たちと一緒にしないでくれたまえ。ではこれより園芸部畑監視作戦を開始する。気合いを入れて監視に当たってくれ」


 寝子が座っているのは犬童先輩の左側。あたしは右側。こんな座り方は嫌だったのだけれど、


「部長ならばテントの中央に座るべし」


 と寝子が主張するのでこうなっちゃった。彼女の目的は犯人捜しじゃなくて、あたしと犬童先輩を接近させること。もう十分接近したからこれ以上の協力はご遠慮するわ。


「犯人、来るかしらね」

「ここ数日は毎日畑が荒らされていると聞いている。このテントも二週間前から放置してあるのだから怪しまれることはないだろう。それに今日が駄目なら明日がある。明日が駄目なら明後日がある。気長に待つさ」


 えっ、それって今日だけじゃ終わらない可能性もあるってこと? 毎晩こんな緊張状態に置かれたら心臓が破裂してあたし死んじゃう。


「依夜、さっきからずっと黙っているわね。何か喋りなさいよ」


 寝子にそう言われても口から言葉が出て来ない。もういいからあんたは黙ってて。


「ふふん」


 寝子が鼻先で笑っている。何か企んでいるみたい。余計な心配が増えて心臓のばくばくが激しくなっちゃう。


「あ、部長、あたしおトイレ行きたいんですけど、いいですか」

「早く行きたまえ。用務員室のある本校舎の裏口が開いているはずだから、そこから中へ入るといい」

「はーい」


 寝子がこちらを向いた。ウインクする。嫌な予感。もしかして戻ってこないつもりじゃないでしょうね。冗談じゃないわ。


「あ、あたしも……」


 テントを出た寝子を追ってあたしも外へ出た。先を歩く寝子が不満げだ。


「ちょっと、どうして依夜まで来るのよ。せっかく二人きりにしてあげたのに」

「余計なお節介はやめてよ。二人きりになったからって、あたしに何かできるはずないじゃない」

「あーあ、せっかくのチャンスなのになあ」


 寝子の友情は有難いけど、今のあたしにはそれに応えられるだけの度胸がないのよ。

 寝子もそれがわかっているのか、もう何も言わずに本校舎へ歩いていく。裏口から中へ入り、トイレに行って戻ってくると、出入り口近くにある用務員室のドアが開いた。中から男が出てくる。


「ああ、あんたたちかね、畑の見張りをしているというのは。話は聞いているよ。ご苦労さんだねえ」


 人の良さそうな中年のおじさんだ。あたしは奇妙な感覚に襲われた。この顔、この声、どこかで見たり聞いたりしたことがある。でも寝子は正反対の印象を抱いたみたい。


「あら、初めて見る顔ね。用務員さんってお爺さんだと思ったけど違ったかしら」

「ああ、あの人は先月辞めたそうだ。私は最近雇われたんだよ。眠気覚ましにコーヒーを淹れてあげたよ。持って行きなさい」

「ありがと、おじさん」


 ステンレスの水筒と紙コップを手渡された。それを持ってテントに戻ると犬童先輩はさして驚きもせずに言った。


「彼も本日のメンバーの一人なんだよ。用務員の付き添いを条件として学校での宿泊が認められたんだ。生徒だけでは物騒だからね。野良猫捕獲にも協力してくれるはずさ」


 まだ猫が犯人だと思っているみたい。よっぽど嫌いなんだなあ。ちょっと悲しくなる。それにしてもさっきの用務員さん、気になるわ。


「わざわざ用意してくれたんだ。有難く頂戴しよう」


 犬童先輩が紙コップにコーヒーを注ぐ。独特な香りと紙コップの温もりが興奮した気持ちを鎮めてくれる。


「どうしたのよ依夜、飲まないの」


 あたしは飲めなかった。気になって仕方がなかったのだ。さっきの用務員さん、どこかで会った気がする、どこだろう、どこだろう……


「はっ!」


 思い出した。ひと月前のあの男だ。猫の虐待動画をネットで公開していた男。スマホとパソコンをぶっ壊して囚われの猫を救出した時の男。あいつだ。どうしてこの学校にいるの。まさかあたしの正体がばれた? ううん、そんなはずないわ。


「あ、あたし、今、飲みたくないから……」

「そうか。ならボクが飲もう。猫は臭いに敏感だからな。飲み干してしまわないとコーヒーの香りを警戒して畑に来ないかもしれない」


 犬童先輩に紙コップを渡して考えた。あの男はどうしてここにいるのか。あたしとは何の関係もない、ただの偶然だろうか。

 壊したパソコン、会社から借りていたと言っていた。会社勤めをしていたのに用務員になった理由は何だろう。ああ、考えがまとまらない。

 犬童先輩の横であたしの気持ちは高ぶったままだ。でもその原因は以前とは違っている。今、頭の中はあの男で一杯。あの男、あの用務員の狙いは何?


「なかなか姿を現わさないな」

「そうですね」

「変だな、コーヒーを飲んだのに眠くなってきた」

「そうですね」


 おかしいわ。二人の言葉に力がない。


「先輩、先輩! 寝子、寝子!」


 声をかける。体を揺する。返事がない。二人とも眠ってしまったのだ。

 まさかあのコーヒーに眠り薬が? やっぱりあの男の狙いはあたしたち? 


 あたしはテントの外へ出た。夜空に満月が輝いている。今なら大丈夫。変身しよう。

 あたしは両目を大きく開いて月光を受け入れた。感じる。月の魔力。瞳を通して神秘の力が体中に染み渡っていく。いつもの感覚。いつもの陶酔。そして月光が体の全てを満たした時、それはあたしの元へやって来る。


「にゃおーん!」


 月よりの使者ムーンキャット見参! 

 と心の中で叫んで変身完了。今夜は黒いシャム猫か。どんな猫の姿になるかはあたしの意思では決められないの。できればライオンやチーターに変身したいけれど、それはどうやら無理みたい。まあ普通の猫でも十分強いから構わないけどね。


「にゃ!」


 聞こえる。人の足音がこちらに近づいてくる。猫の聴覚は人の数倍。魔法を使えば更に能力は上がるけれど今はこれで十分。あたしはテントから離れて物陰に身を隠した。


「さあて、そろそろ薬が効いてくる頃なんだが」


 独り言をつぶやきながら月光の中に姿を現わしたのは思った通りあの男。首を紐で縛った猫を引きずるように連れている。

 これで全てが明らかになったわ。畑を荒らしていたのは用務員。内部の者なら監視カメラの設置場所がわかっているから、映らないように細工するくらい簡単なこと。

 そしてわざわざ猫の毛や足跡を残して、野良猫の仕業に見せかけていたのね。絶対に許せない。今日はきついお仕置きをしてやらなくっちゃ。

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