第8話 トーダ村

 雨に洗われた空と空気が、いつもの景色を違う色に見せる。雨が上がった昨夜も野犬の声すら聞こえず、静かな夜明けとなった。


 納屋に放り込まれたにも関わらず、この恩は生涯忘れませんと、エナンはなかなか頭を上げなかった。

「家族の許しを得たら、またいつでも来なさい」

 父と母はそう送り出した。


 平坦な道を歩く分には何ら問題ないほどエナンの足は回復していたが、山の足場の悪いところは、サハにおんぶされて進んでいく。なんだかこの体勢がすっかり板についたみたいで、二人とも恥ずかしがる素振りもない。


 ぬかるみを避けながら、クリームの材料に使えそうな植物を教わり採取しながら、必要もないのに休憩しながら、それでも3時間ちょっとでトーダ村に着いてしまった。


 田んぼも畑も家畜小屋もあるけれど、ボウ村とは明らかに違う。村の真ん中に大きな建家が3つもあるのだ。


「あれは何?」

「クリームを作ってるんだよ。見たい?」

 エナンの後について建家に入ると、何人もの職人が機械を手で動かしていた。すごい熱気だ。


「ここは精油と芳香蒸留水を作ってるんだよ」

 職人が取っ手を回すと歯車が動いて、大きな石臼がゴリゴリと回転し、液体が染み出してくる。ユルゾのような木の実から油を採取しているのだろうか。


 そして最も目を引いたのが、30人分の汁物が一度にゆうに作れるほどの大きな釜の蓋から管が伸びていて、その先にあるのは水に浸された瓶、という装置だった。

 目を凝らして瓶の中を見ていると、何もないところにすうっと水滴が現れる。


「魔法だ…!」

 ドキドキしながら思わずつぶやく。

「ねぇ!これ、何なの?どうなってるの?」


「あの釜の中で薬草が蒸されていてね、その蒸気を蓋についた管で集めてるんだよ。管を伝った蒸気は水に浸したあの瓶の中で冷やされて、精油と芳香蒸留水になるんだ」


「…すごい技術だな。トーダはこれを独自に開発したのか」

 開いた口が塞がる暇がないサハだった。


 すると建家の奥からこちらを伺っていた若者が、小走りに寄ってくる。

「エナン!?エナンだよな!どこに行ってたんだ!あぁ、良かった!」

 いきなり現れたその男性は、つかつかと近づくなりエナンをきつく抱きしめた。


「おれも父さんも心配したんだぞ!今日も皆んなで捜索に出てるんだ。早く知らせてやらないと。一体今までどこにいたんだ?」

「ごめんなさいムット兄さん。足を怪我して動けなくなったところを、ボウ村の人が助けてくれたんだよ」


「野犬に呪われた奴らが?」

 明らかな蔑視を含んだ口調。エナンを離すと彼はこちらを振り返った。


 ムット兄さんと呼ばれていたから、エナンの従兄弟いとこなのあろう。刈り上げていない髪に、詰襟の白いシャツの上に着物を着て、下は袴という、村ではまず見ないような小粋な出で立ちの男だった。


「ボウの奴をなんでここに入れた」

「助けてくれたんだよ。それに、クリーム作りに興味持ってくれて…」

 ムットはそれ以上聞かず、ジナとサハをジロッと一瞥し、

「妹を助けてくれて感謝します。どうぞお引き取りください」

 とまるで謝意など感じられぬ言葉だった。


「そんな言い方——」

「あの、教えてもらえないでしょうか?」

 文句を言いたいサハを遮ってジナは一歩前に出た。


「は?ボウの奴らに見せるわけにいかない」

「クリームを塗ったら村のみんなが喜んでくれました。あたし、もっと役に立ちたいんです。お願いします」

 頭を下げたジナだったが、ムットは首を横に振る。


「駄目だ駄目だ。面倒起こさないでくれ。他の奴らに見つからないうちにとっとと帰れ」

 追い立てられるように、ジナとサハは建屋の外に出た。


「くそっ、なんだよあの態度。こっちは助けてやったのに」

 忌々しげにぺっと唾を吐く。

 しばらく待っても、エナンは建屋から出て来なかった。


「帰ろう」

 無理やり追いかけて行っても、エナンの立場が悪くなるだけだ。そう思いサハの後ろに続く。

 来るときはあっという間の道のりだったのに、帰りは長く感じる。


「親切にしてやったのに、もてなしも無しで追い返すなんてよ、やっぱりあいつらは鬼の忌み子だ」

 サハはずっと不満を口にしていた。


「…あたしたちだって同じじゃないかな」

 父も、村人たちも、最後まで決してエナンを受け入れたわけではなかったと感じている。


 それでもここまでサハが文句をたれるのは、ほんの少しは期待する気持ちがあったからだろう。本当は手を取り合いたいのだと、兄も、そしてきっと父も思っている。

「そうだよ…作ろう」

 さっき見たあの装置の構造は覚えている。見よう見真似でやってみよう。

「エナンとの、約束だもん」

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