苦みも少し

 学校としては春休み。この期に休みをとる教職員もいなくはない。佐藤比呂もそうであればいいなと伊織は思ったが、その可能性はあっけなく崩れた。

 考えてみれば比呂は住居エリアに実家がある。帰省する必要もない。そのうえあの人の弟なわけで、啓と同じく正式な就職前から自主的な手伝いをしていた。それに加えて生真面目で、ワーカーホリックの疑いがある人物。いないはずがなかった。


 初等部の職員室、比呂の目立つ赤髪を見た瞬間に伊織はどっと気分が落ち込んだ。対称的に前を歩いていた啓の空気が華やいだのが分かった。

 伊織相手には絶対にしてくれない、花が飛ぶ笑顔を浮かべているに違いない。そう今までの経験で分かってしまい、伊織の気分がさらに沈む。


「比呂さん! 今日から正式に教師になりました!」


 書類仕事をしていた比呂に近づくと、啓は元気よく挨拶をした。その姿は先輩を慕う、可愛らしい後輩というにふさわしい。

 勢いに少々驚いた顔をした比呂も、内容を理解すると嬉しそうに笑う。啓や伊織よりも年上。身長も高いというのに、比呂の笑顔は幼い。そのギャップがいいのだと酒を飲んだときに熱弁していた啓を思い出し、伊織の気分はさらに落ち込んだ。


「もうそんな時期か……早いな。ここにいるってことは、ガイダンスは終わったのか」

「はい。時間が空いたので、お世話になった人に挨拶してまわろうかと思いまして」

「お世話になった人……、大和君はもともと優秀だったし、俺が世話した事なんて特にないと思うけど」


 比呂から褒められて啓の空気が一層輝いた。伊織が同じことをいっても「どうも」とつれない返事しかしないというのに、この差は何だと伊織は渋面を造るが、比呂に意識を集中している啓は一切気付かない。


「そんなことないです。比呂さんには自分では気付けない細かいところを沢山教えてもらいましたし、相談にものってもらいました」


 かすかに頬を染め視線をそらす啓。恋する乙女ともいえる表情に伊織は危機感を覚える。もともと歪んでいた表情がさらに険しくなったが啓も比呂も伊織の様子に全く気付かない。


「今後も先輩としてご教授お願いします!」

「俺もひよっこだから力になれるかは分からないけど、何かあったら言ってくれ。話聞くぐらいだったらいくらでもできるし」

「はい!」


 啓の珍しい純粋な笑顔。それを真正面から向けられているというのに、一切動じない比呂。それを見て伊織のまとう空気は絶対零度まで落ち込んだ。

 関係ない教員や、偶然その場に居合わせた生徒が距離をとるのが分かる。分かっても伊織は落ち込んだ気分を取り繕う気持ちになれなかった。なぜなら、関係ない第三者が気づいてくれるというのに、目の前にいる啓と比呂が無反応だからである。


 比呂という人間は聡いが、恋愛方面に関してだけ思考が鈍化する。普通だったら気付きそうなものも、人に言われてやっと気づく。普段の気配り具合はどこにいった。そう思うほどに鈍い。

 ある一説によれば、比呂の兄の愛情表現が過剰だったため、あれと同等、それ以上じゃないと愛情と認識しないと分析されている。冗談交じりの話だったがこうして本人を見ていると正しく思えてくる。

 比呂の兄は数々の功績や遺産を残した素晴らしい人だった。そう今の伊織は認識しているが、この点においてだけは文句を言いたい。


 伊織が内心でハンカチをかみしめていると、ふいに比呂が遠い目をした。

「何か早いな……夷月たちが卒業してもう一年たつのか」


 その言葉に、空気が止まる。はしゃいでいた啓は何を言っていいものか分からない顔で言葉を止め、伊織も先ほどとは違う意味で気分が沈むのを感じた。

 

 羽澤夷月。伊織からすると一つ下の後輩で、啓からすると一つ上の先輩。比呂からすると義理の弟にあたる。この学園の歴史を語るならば欠かせない人物であり、嫌でもあの人の事を思い出してしまう人間でもあった。


「いや、ごめんな。変な空気にして。来年はいよいよ谷藤君も卒業かと思ったら、何かな……」


 比呂は無理やり笑顔を作ろうとして失敗して、困ったなあと眉を寄せる。何とか表情を取り繕うとしているのが、逆に悲惨に見えて、俺は何も言うことが出来ない。

 啓の表情を盗み見ると、啓は眉を寄せていた。不快とは違う。泣きそうなのを何とかこらえようとしているようにも見えた。


「……谷藤君には挨拶したか?」


 空気を変えようとしたのか、比呂が明るい声を出した。表情も先ほどと違い、何事もなかったかのような、いつもの穏やかな表情に戻っている。

 その一瞬の変わりようが、余計にあの人を思い出して、あの人の弟だという実感が高まる。胸を締め上げられるような感覚がした。

 伊織ですらそうなのだから、あの人との接点が多かった啓は大丈夫なのか。そう伊織は不安になった。


「まだですけど、な……谷藤君に挨拶が必要ですかね?」

「今後は教師と先生って立場だから、先輩後輩っていう感覚には区切り着けといた方がいいぞ。内部就職はそこが難しい所なんだよな」


 そういって比呂は苦笑する。実際に苦労したのかもしれない。

 伊織は友人は同世代の友人は多かったが、後輩とはそれほど親しくしていなかった。部活などもしていなかったこともあるし、真面目になってからはランクを上げることと勉強に集中していたこともあり、教師になってもそれほど苦労はしなかった。

 しかし啓は分かりやすく懐かれている後輩がいる。学生の時と同じ感覚だと確かに困る部分はあるだろう。


「谷藤君の場合、そもそも親しい後輩っていっていいか微妙な所ですけどね……」

「将来的には同僚。もしかしたら上司かもしれないしな。大和君からすると微妙な立場かもしれないが、だからこそちゃんと挨拶していた方がいいんじゃないか」


 比呂はそういって柔和に笑ったが、微妙な立場というのは啓だけでなく、比呂にも十分当てはまる。分かったうえで、あえてそういう言い方をしたのだろうか。チラリとみた啓の表情が険しかったのを見るに、伊織の考えは見当外れでもないらしい。


「……そうですね。挨拶してきます」

「今の時間だったら理事長室にいるんじゃないか。ついでにるいさんにも挨拶するといい」


 るいという言葉に啓が少しだけ反応するが、高等部の職員室を出てきたときのような嬉しそうな空気はなかった。むしろ、「理事長室」という言葉に多少の引っ掛かりが見えるような気がする。

 それは伊織も同じことで、比呂も自分でいいながら微妙な気持ちになったのかもしれない。作りあげた笑顔が崩れて、少しだけ不格好な笑顔になった。


「何年もたったのに、慣れないもんだよな……」


 比呂さんはそういうと窓の外を見た。伊織は比呂に声をかけることができなかった。啓も同じだったらしく、失礼します。と頭を下げると、踵を返す。伊織も同じく頭を下げて、速足で立ち去る啓の後に続いた。


 今日は始まりの日だ。めでたい日だ。それは変わらない。それでもどこか、寂しさも付きまとう。あの人がいたらもっと騒がしく、盛大に、啓の事を祝ってくれたかもしれない。そうしたら比呂もあんな寂しそうな顔はしなかっただろう。そう思うと少しだけ、あの人のことが憎らしくなった。

 一度も直接話したことなどないというのに。


 啓は迷うことなく理事長室へと向かう。校舎を出て中庭を通って、管理塔。その最上階。そこに理事長室は存在した。

 高い所から見下ろすのが好きだと聞いたことがある。らしいと伊織は思った。上からこちらを見下ろして不敵に笑う。それがやけに似合う人で、自分よりも小さな子供のように見えるのに、視界に入ると妙に委縮した。

 当時はただ、気に食わないだけだと思っていたけれど、今は分かる。適当に生きている自分の怠惰さを指摘されるんじゃないか。そういった恐怖を勝手に抱いていたのだ。


 しかし、実際のあの人が伊織に対して何かをしたことはなかった。目があったら笑顔で手を振られた。ただそれだけで、伊織に対して応援もしなければ、叱咤もしなかった。ただ時折、君はそれでいいんだね? と確認するような、探るような視線を向けられただけだ。

 それが伊織はとても不快で、正直怖かった。そんな伊織の怯えを見て取ると、いつだって何事もなかったかのようにあの人は笑った。


 あの人は向上心がある子供が好きだった。何かをつかみ取ろうと足掻く子供が好きだった。逆に何もしない子供には何も言わなかった。君がそれで満足しているのならば、何もいうことはない。そう視線だけで語って見せた。

 だからざわついたのだ。直接言葉で言われたら否定できるというのに、何も言ってこないから何もいえない。嫌でも意識して、己自身を見つめ返すことになる。それがたまらく嫌だったことを覚えている。

 だから無関心であろうとした。関係ないと思おうとした。何て愚かで子供らしく、勿体ない事をしたのだろう。そう今の伊織は思っている。

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