ココアを少々

 啓の教師人生一日目。輝かしい日ではあるものの、内部就職者の啓の場合は大きな変化とも言い難い。黒天学園は外部就職者には厳しいが、内部就職者には比較的自由にさせてくれる。なぜなら学生時代の成績やランク、その他細かいデータをもとに採用不採用を決めているからだ。

 情報が少ない外部就職者と、昔から知っている内部就職者では信用度がまるで違うのである。


 啓の場合は学生のうちから手伝いをしていたこともあって、余計に形式だけの日ともいえた。

 外部の就職者はガイダンスを受け、希望者は住居エリアにある空き部屋を見つけたり、学校の空気に慣れるために教育担当者と学校中を回ったり。やることが多い。

 しかし内部就職者の啓にそれは必要ない。同期として顔合わせはするようだが、それが終わったら自由にしていいというのが学校側からのお達しだ。


 内部就職者である伊織はそれをよく分かっている。だからこそ朝から啓の部屋を訪れたわけだ。学校が始まってしまったら、いくら優秀な啓でも忙しい。伊織も仕事は沢山ある。

 本格的に新学期が始まる前の春休み。生徒にとっても貴重な準備期間だが、伊織にとっても重要な期間だ。


 といっても、仕事をおろそかにするわけにはいかない。啓に幻滅されるというのもあるが、2年やってきたことで伊織も教師という仕事に愛着や、やりがいを感じていた。手を抜こうなんて考えは最初からない。

 学生の頃であったら、適当な店で時間つぶしなんて考えていた伊織だろうが、啓を待つ間に伊織が選んだのは仕事だった。休日だというのに現れた伊織を見て、他の教員は驚きと、今日が何の日であるかを察して苦笑を浮かべた。

 小堺君、好きだね。と先輩教師に肩を叩かれたが、二重の意味に聞こえる。


「一途じゃのう……。まさかお主がそこまで入れ込むとは、人生何があるかわからんの」


 黙々と仕事を片付けていると、人の気配がした。続いて独特な口調の男の声。

 こんな口調の人間は黒天学園広しといえど一人しかいない。見上げれば予想通り、褐色の肌をした長身の男が立っている。灰色の髪を三つ編みにし、瞳はいつも細められ見えない。黒のワイシャツに白い白衣。一見すると怪しさ満載なのだが、白衣のポケットにはこれでもかとばかりに飴やらチョコレートが入っているのを伊織は知っているし、手に持ったマグカップはかわいらしい犬をモチーフ。湯気立つ中身はホットココア。

 どこから突っ込めばいいのか分からない、謎めいた先輩教師が目の前にいた。


 大鷲源十郎。伊織が学生の頃から高等部担当の養護教諭をしているが、外見が変わった様子は見受けられない。年齢不詳とは言われていたが、付き合いの年数が増すほど謎が増える存在も稀だろう。

 その姿を見ていると、伊織はあの人を思い出す。あの人もずいぶん年齢不詳で、謎が多い人だった。


 一瞬、過去に意識が飛びそうになり、伊織は無理矢理笑顔を作る。過去を回想できるほど、伊織はあの人の事を知らない。


「その点は俺が一番驚いてますね」

「じゃろうなあ。隙あらば保健室にサボりにきたり、女の子連れ込んだりしておった小堺君が、今じゃ真面目に書類つくっとるし、一人の相手に入れ込んどるんじゃもんな。数年前のわしに聞かせてやりたいの。目玉が飛び出るかもしれん」

「……その目開くんですか?」


 目が空いてるところ見たことないですけどと伊織が告げれば、大鷲は口の端を上げる。それだけで伊織の問いには答えずに、偉い子にお駄賃じゃとポケットから缶コーヒーを取り出した。

 思いっきり話をそらされたわけだが、伊織は特に突っ込むことなく大人しく缶コーヒーを受け取った。

 大鷲がその手の話に答えてくれないのはいつもの事だ。大真面目に答えられても反応に困りそうなので、このくらいでちょうどいいのだろう。

 もらった缶コーヒーは無糖ブラック。甘党の大鷲が飲まないことは分かっている。ということは、本当に駄賃として買ってきてくれたのだ。伊織が有難く頂くと、大鷲は隣の空いてる席に座った。相手がいないからといって自由だ。


「ガイダンス終わった後はどうするんじゃ? 大和君とデートかの?」

「俺はそうできたら嬉しいんですけどね、啓くんは真面目なので普通に仕事するんじゃないですか」

「ああ……そうじゃのう。あの子、見た目に反して真面目すぎるからの。小堺君の不真面目さを分けて上げたらどうじゃ?」

「渡しても受け取ってもらえないと思いますけど」

「それもそうじゃの」


 あっさり大鷲はそういってマグカップを口に運ぶ。外見といい片手で飲む仕草と言い、大人の男性といった雰囲気なのに、マグカップは可愛い犬だし中身はホットココア。なんともシュールな図だ。


「じゃが、先輩やお世話になった相手へ挨拶巡りに行くくらいはいいんじゃないかの。今後もお世話になる相手じゃしな。大和君の息抜きにもお主にとってもちょうどいいじゃろ」

「挨拶巡り……!」


 大鷲の話になるほどと伊織は頷いた。

 卒業の時に真面目な啓は挨拶していたようだが、挨拶が多くて困ることもないだろう。啓がお世話になった相手は伊織も少なからずお世話になっているし、自分がついて行っても問題はない……はずだ。


「大和君は春休みも何だかんだ手伝っておったからの。今日くらいは休んでも誰も何もいわぬよ。というか、少しは休ませてほしいじゃ。新人が真面目に仕事してると、先輩としては休むに休めん」

「後半が本音ですね」


 伊織の言葉に大鷲は神妙にうなずいた。否定しないあたりが潔い。

 大鷲はマイペースであり、やることはやるが真面目とは言い難い。抜くところは抜くし、押し付けられるものは押し付ける。そのため生真面目な先生に小言を言われているシーンも多く目にする。適当に流して逃亡するのが常だったが、同僚に言われるのと元生徒の新人教師に行動で示されるのとでは気持ちが違うのだろう。


「分かりました。俺も啓くんとデートしたいので!」

「お主も本音隠さぬのう……というか、挨拶巡りがデートか……」

「しかも俺の一方的な妄想デートです」

「やめてくれんかの、泣けてきたんじゃが。女タラシとか言われてた小堺君は一体どこにいったんじゃ。目頭が熱くなってきたんじゃが」


 冗談なのか本気なのか目元を抑える大鷲に伊織は胸をはる。


「捨てました」

「……潔いのお……」


 呆れを通り越して尊敬を感じる大鷲の視線に伊織はさらに胸をはった。啓に恋をしてから精神力はだいぶ鍛えられた。忍耐力も鍛えられた。それがいい結果なのかはよく分からないが、今の自分が伊織は嫌いではないのでそれで十分なのだろう。


「それにしても挨拶巡り……比呂先生のところは省くとして……るいさんは、イヤですけど行かないわけにはいかないですよね……」

「お主、分かりやすいの……」


 腕を組み、顎に手を当て真剣に悩み始めた伊織を見て、大鷲は呆れた顔をした。

 大鷲の言いたいことはよく分かる。比呂先生こと佐藤比呂も、るいさんこと岡倉るいも啓がお世話になり尊敬している人であり、挨拶しておいた方がいい相手であるのは間違いない。


 比呂は初等部担当の教員で、伊織よりも先輩だ。メインは初等部ではあるが、啓と同じく複数免許持ちなため時たま救援で高等部までやってくることもある。

 料理や手芸などの専門的な技術が必要な時には頼る機会も多く、円滑なコミュニケーションをとっておいて損はない。

 岡倉るいに関しては単純に雇い主である。黒天学園では一番偉い人間、理事長。

 肩書だけでなく、現場に直接顔をだして様子を見に来ることも多い。初等部から高等部までの生徒会はるいが面倒を見ている。


 どちらも黒天学園でやっていくには無視できない相手であり、啓も伊織も学生の時代から世話になっている相手である。伊織はどちらも間接的だが、啓に至っては積極的に生徒会の手伝いもしていたし、比呂が開いていたお料理教室の常連だった。

 何よりも比呂もるいも啓が憧れている相手。もっと分かりやすくいえば、啓の好みの男性である。


「……やっぱり、挨拶巡りとかやめて、啓くんの仕事を俺が手伝う。それで十分な気がしてきました」


 考えをまとめた伊織は真剣な瞳で大鷲を見た。大鷲は呆れ切った顔で伊織を見返している。


「その判断は、ちと遅かったようじゃのう」


 どういう意味だと伊織が聞く前に、背後に人の気配がした。振り返ればいつのまにか啓が立っている。

 朝見たときと変わらないスーツ姿の啓は、惚れた欲目を抜きにしてもよく似合っていた。新人を伊織は未だ見ていないが、外部就職者の視線を集めたことは間違いない。


「挨拶巡り……考えてませんでしたが、必要かもしれませんね。これから改めてお世話になるわけですし」

「えっいや、啓君……」


 それはやめて仕事しよう。と言葉が出る前に、にこりと啓が笑みを浮かべた。

 伊織に直接向けられるのは珍しい、上機嫌な笑み。今でなければ、やったと喜ぶところなのだが、嫌な予感しかしない。


「るいさんと比呂さんと、忙しくてちゃんと話できてなかったんですよね。ちょうどいい機会なので、今後のこともかねて挨拶してきます」

「ちょっと、啓くんまって! 俺も行く!」


 いうなり、いつもに比べて軽快な足取りで歩き出した啓を慌てて追いかける。

 ファイトじゃー。若者よー。と背後から気の抜けた大鷲のエールが聞こえたが、伊織は先をいく啓をどう説得しようか頭を働かせた。

 結果的には、伊織よりもよほど頭のいい啓を理屈で納得させるなどできるはずもなく、伊織は渋々、啓の後をついていくことになった。

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