朝日の中で

 あの日のことを伊織はぼんやりとしか覚えていない。

 皆慌てていた。黒天学園はいつでも騒がしい所だったが、その日からしばらくは騒がしさの種類が違っていた。身を削るような、不安が掻き立てられるような。そんな落ち着かない空気が学園中の至る所から広がっていて、伊織も少しだけ不安にはなった。


 それでも関係ないと思ったのだ。何しろ伊織にとって、彼はあまりにも遠かった。名前も知っていたし、姿も声も知っていた。すごい人であるということも分かっていた。それでも伊織にとってはやはり遠い存在で、何で、どうして。という混乱と、狼狽える周囲を冷めた目で見ていた。


 ただ一人の人がいなくなったぐらいで、世界はそんなに変わらない。そう思っていたし、もしかしたらそう思いたかったのかもしれない。

 それが間違いだった。そう気づいたのは、彼と近しい仕事につこう。そう決意してから。当たり前のようにそこに存在し、当たり前のように「子供の国」を造り上げ、そこに君臨していた存在は、替えの効かない唯一の王様だったのだ。

 そう伊織が気づいた時には、何もかもが遅かった。


***


 伊織が黒天学園を卒業しても3年目の春。休みであるにも関わらず伊織はいつもより早めに起きて、そわそわと身支度をした。

 鏡の前に立って服を何着か当ててみる。初デートの前の女子か。と内心呆れつつも、鏡をチェックする手は止めない。白のジャケットを重ねてみて、流石に気合が入りすぎだと変え、今度はシンプルなワイシャツを選んで、ラフすぎると変える。

 最終的にはいつも学校に着ていく服装より、少しだけラフ。そんな分かる人には分からない程度に収まった。それでも服に皺が寄っていないか、髪型はどうか。全身を確認して、やっと伊織は一息つく。


 それから時計を確認すると、伊織が普段家を出る時間よりは早かった。身支度にはそれなりに気を使っているけれど、それがなければギリギリまで寝ていたい。しかし、今から伊織が押しかける相手は早めに準備し、早めに家を出てしまう性格だ。もたもたしている間に出かけてしまうかもしれない。そういった心配から、伊織は速足に部屋を出た。


 黒天学園には教職員、生徒、その他関係者とその身内が暮らす住居エリアがある。黒天学園が学校というよりは街だと評される最大の理由。変わった点であるが、高等部から入学し卒業までの7年間。卒業してからの2年。今年で黒天学園で過ごす期間が10年になった伊織からすれば馴染んだ光景だ。


 卒業と同時に学校側から提供されたマンションの一室。一人暮らしの若い教職員が利用する場所に、伊織は男子寮から引っ越してきた。

 高校3年生の冬から真面目に勉強にいそしんだ伊織だったが、卒業までにAランクに上がることはできなかった。その結果、卒業とともに念願の一人部屋を得たわけだが、気持ちとしては複雑だ。学生の内に一人部屋が欲しかったという気持ちもあれば、人がいることに慣れ切ってしまったため、急に広くなった部屋に違和感を覚えるという不思議な心境になった。


 それも2年も暮らせば慣れてきて、今ではすっかり居心地のよい我が家になっている。伊織にとっては嬉しい事に、すぐ近くに愛しい相手も越してくる。


 マンションの2階。つい最近、男子寮から移り住んできたばかりの住人の部屋。その前に立って伊織はチャイムをならす。

 念のため自分の姿をもう一度確認しながら、伊織は家主が出てくるのを待つ。事前連絡もない訪問だが無視はしないという確信があった。何しろ相手は自分だけでなく後輩たち、しまいには先輩の突撃訪問にも慣れている。


「……朝からなんですか」


 インターフォンで伊織だと確認していたのか、ドアを開けると同時に不機嫌な声が聞こえた。声と同じく表情も朝にしては険しい。

 しかし、これは伊織に対する反応としてデフォルトに近いため、伊織は一切へこたれずに爽やかに挨拶した。


「啓くん、おはよう。でもって、おめでとう! 念願の先生だね!」


 心からの笑みを浮かべると啓の表情が少し緩む。しかしそれは一瞬で、すぐさま元の皺の刻まれた眉間に戻った。何で朝っぱらから押しかけてきたんだお前という啓の内心を理解しつつも伊織は引かない。

 ここで引いたら、何事もなかったかのようにドアを閉められるのは学習済みだ。


「啓くんが今日から先生になるわけだから、その瞬間をこの目で見ようと思って!」


 大げさに両手を広げると啓はものすごく嫌そうな顔をした。

 普段より早い時間だし、もしかしたら眠そうな啓というレアな状況をみられるかもしれない。そう少しばかりは期待したのだが、さすが大和啓である。眠たそうな気配どころか、今すぐ出勤できそうなスーツ姿。その姿はこの間まで学生だったとは思えないほど似合っており、自分の方が新社会人みたいだなと伊織は内心顔をしかめた。


「先輩、今日休みですよね?」

「えっ啓くん、俺の休み把握してたの? デートいく?」

「今日、初出勤だって知ってて来た人間の発言じゃないですね」


 朝っぱらから何言ってんだという空気を隠さずに、啓は額に手を当てる。

 伊織としてはもちろん冗談であるが、啓が行くというのならすぐさま撤回して実行するくらいの本気度はある。真面目な啓がそんなことをする可能性は、万が一もないのだが。


「ちょっと待っててください。鞄持ってきます」

 啓はそういうと部屋の奥へと踵を返す。慌てて伊織は声をかけた。


「そんなすぐ出なくても。何なら時間まで中でお茶でも」

「何で先輩を俺の家に入れなきゃいけないんですかね……。通報されたくなかったら大人しく外で待っててくださいね」


 ポケットからスマートフォンを取り出しながら啓が振り返る。朝から容赦もなければ隙もない。強引にいくパターンは無理。そう悟った伊織はおとなしくドアから離れて、通路に取り付けられた柵に寄りかかる。

 部屋に入れてくれないというのは、一応恋愛対象として意識してくれているのか。それともパーソナルスペースに入れるのが純粋に嫌なのか。


 後者なら中々にショックだ。伊織が学校を卒業して2年。先生として学生の頃ほど時間はとれなくなったが、隙を見つけては啓に話かけ続けた。

 一生徒に入れ込むのは問題が……。と最初の頃は小言を言っていた先輩の先生も、伊織のしつこさと、啓の塩対応を見ているうちに、だんだんと生ぬるい視線を送るだけで何も言わなくなった。

 先生になる前、啓に好意を抱いて付きまとうようになった直後、派手に遊んでいたこともあり散々からかわれたり、嫌味を言われたが、今では「まだやってんのか」「お前めげないな」と呆れられている。

 周囲からの評価が変わった。それを実感している。昔と違って応援してくれる人も増え伊織としては嬉しい変化だ。しかし肝心の啓からの評価が変わったのか。それが伊織には分からない。


「恋って辛い……」

「人の部屋の前で黄昏るのやめてくれませんかね」


 柵に寄りかかって朝の陽ざしに目を細めていると、爽やかな空気に似つかわしくない疲れ切った声が聞こえた。見れば鞄を持った伊織が部屋のドアにカギをかけている。

 鍵のかけ忘れは危ないけれど、もう少し自分にも興味を向けてくれと伊織は複雑な気持ちになりつつ、啓の隣に並ぶ。


「啓くんは高等部担当だよね?」

「一応は。メインは高等部で、場合によっては他の所に救援入るようにって言われてます」

「相変わらず優秀……」


 高等部の数学担当。補佐の方が多い伊織とはまるで違う。

 啓は複数の免許をとっているうえに、大学生の間から先生たちの手伝いを積極的にこなしていた。単純な事務仕事や書類作成などは伊織よりも詳しい可能性もある。


「で、でも俺、ヘアメイクとかネイルとか、専門的なこと教えるのは啓くんより出来るし!」

「聞いてないですけど……」


 年下があまりにも優秀なためについつい張り合ってみたが、啓からは呆れた視線が向けられた。確かにその通り。啓からすればものすごくどうでもいい情報に違いない。

 伊織は一人肩を落とす。2年先に卒業した先輩として頼られる未来を想像していたが、学生の頃と変わらずむしろ教えられる側に回るかもしれない。能力と年齢が必ずしも釣り合わないと分かっていても、悲しい。


「まあでも、俺の担当する生徒にそういう方面の興味ある子がいたら、頼むかもしれません」


 落ち込む伊織を置いていきながら、啓がぼそりとつぶやいた。予想外の言葉に伊織は驚いて、去っていく背を見つめる。

 肩を落とした伊織を慰めるつもりだったのか、ただ生徒の事しか考えていないのか。それは伊織には分からなかったが、少しは期待されているのかもしれない。そう自分の都合の良い解釈をして、伊織は拳を握り締めた。


「フフフフフ、大船にのったつもりで頼ってくれていいよ!」

「……その船、船底に穴空いてる可能性は?」

「空いてないし、仮に空いたとしても修理するから問題ないし!」


 ああ、そうですか。と気のない返事を聞きながら、やはり啓の隣に並ぶにはまだまだ時間がかかりそうだ。そう思った伊織は速足に啓の隣並んだ。

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