リビングデッド
@tokekake
リビングデッド
『リビングデッド』
火葬中に蘇生してしまったみたいな最悪な寝覚めだった。
思考は喧しく、忙しない。一見、関連性のないイメージの連なりが脈絡のない映像や突拍子のない言葉になって、洪水のように頭に押し寄せている。側頭部の毛細血管の中身が、マグマのような熱い膠状の液体にとって代えられてしまったようであり、そこには疼痛が伴う。
私はベッドの上で上半身を起こし、浅い息を繰り返している。額に手をやると冷たいベットリとした大粒の汗が幾つも張り付いていた。
照明の消えたこの部屋に於いて、視界はほぼ無いに等しい。しかし、スプリングの固いベッドと重い掛け布団の感触、それからうっすらと浮かぶ壁や柱のシルエットが見慣れた寝室であることを裏付けている。そんな当たり前の事実が心に余裕を与えてくれた。
息は少しずつ正常なペースと深さに戻っていく。それに伴って、朦朧として白んでいた意識の曇りが、徐々に晴れていく。
唸るようなエアコンの暖かい空気を排出する間抜けな音が、音と光の遅延現象の如く今更になって渦巻き管へ到達する。
再び眠気に襲われるのを半身を起こした姿勢のまま待っていると、背後の壁を縦長に切り取った横滑りだし窓から、消防車のサイレンの響きが近づいてきた。カンカンカンという、けたたましい早鐘を打つ音が私の鼓動と重なり合い、漠然として不穏な危機感を扇いだ。
消防車がマンションの前を通り抜ける際、眠気に負けて遮光カーテンを開け放したままにしていた窓から、毒々しい光の明滅が射し込み、室内を赤黒く照らしていた。その光景は私の心情を鏡写するメタファーのようにみえて仕方がなかった。
サイレンは大通りを走り抜け、遠のいていく。完全に聞こえなくなるタイミングを見計らって、ベッドから両足をフローリングへと着地させる。氷上かと錯覚するような冷たい床に足の裏の感覚が一瞬で麻痺してしまう。闇に溶ける影を頼りに、手探りで机の上の煙草と百円ライターを手探りでキャッチする。オフィスチェアの上で胡座をかくと、私は気分を落ち着かせようと滅多に吸わない煙草を一本口にくわえて、フリントホイールを回した。じっという鈍い音が鳴り、勢いよく広範囲に火花が散る。オイルが切れているのか、何度回しても一向に火は点かない。火花が散る度に辺りは一瞬だけ微かに明るくなり、その度に柄のピンク色が目に映る。
(なんて、くすんでみえる桃色だろう)
ピンク色が視覚野に与えるであろう効果と、ライターの用途のミスマッチさに想いを寄せていると、部屋の出入口の方向からガタンっという物音が響いた。
私はその音を耳にした瞬間、獣になった。空気の冴えた静寂の中をドタドタと慌ただしく、ただ反射的に駆けだし、机の脚や柱の角、あるいは壁に四肢を何度も衝突させながら、寝室を飛び出し、狭い廊下を走り、リビングのドアを勢いよく開いた。室内から廊下へと流れ出す暖気が頬を撫でる。
「都子」
返事はない。妻を呼ぶ私の声は震えていた。
「都子…」
私はもう一度、彼女の名前を呼ぶ。その声は更に弱々しさを増し、消え入りそうになった。返事はやはり無い。
そこからは、怖くて一歩も動けなくなった。
侵食が亢進するからと使用は控えるように口酸っぱく忠告したのにも関わらず、妻は今宵もファンヒーターに電源を点けていたようだ。彼女の痛覚は殆ど遮断されていて、暖かさなど感じることが出来ないというのに。
『冬にあたるファンヒーターの暖かさこそが、幸せの象徴なの』
音を聞いているだけでも、幸せに成れるのよ。と、彼女は続けざまに言っていた。
雪国生まれの彼女の、あまり他者から共感は得られないであろう、矜持めいた拘りがそこにはあったのかも知れない。
それとも、と僕は思う。それとも、一刻も早い身の破滅、肉体からの解放を、彼女は待ち望んでいたのだろうか。
意を決して私はリビングの奥へと進む。その際、どうしてもドアの脇にある照明のスイッチには手を伸ばすことができなかった。恐る恐る、一歩一歩と鈍重な歩みを進める。両足は棒のように固くなり、その癖、激しく震えている。
やがて、私はそこに辿り着き、目の当たりにする。
妻の座る、車椅子。レースのカーテン越しに煌々と照る寒月の青白い灯りが彼女の首のない姿を影絵のように映し出す。
先刻まで頭の中でドロドロと渦巻いていた最悪なイメージを収斂した光景が今、現前したのだ。
彼女の足元には、今現在彼女を彼女たらしめるであろう、彼女の首がごろりと転がっていた。
私は膝から崩れ落ち、その首を胸に引き寄せる。涙が滝のように溢れ、悲しみは胸の奥よりせり上がり、横隔膜が激しく不随意に痙攣する。私の膝の上では、彼女の首からこぼれ落ちた蟲たちが蠢いていた。既にフローリングの上ではサイダーの気泡のようにピチピチと微かな音を立てながら、無数のそれらが四方に拡散しながら蚯蚓のような身体をクネらせ暴れ回っていた。
私は今まで、この蟲たちを素手で触ることを避けてきていた。そうしないと、自身に危険が及ぶからだ。去年の晩秋に子宮ガンで亡くなった妻の命を現世へと引き戻しているこの蟲は、その実、人体を食いつぶす強欲な侵略者である。
カバネ虫と名付けられているこの蟲の卵は顕微鏡でないと視認できないほど小さい。この卵が人間の血液に混ざると、一時間も経たない内に孵化し、数日をかけて何千倍にも増殖をする。ある程度、数が増えると彼らは血液を自らの体液に変換し、全身の骨に穴を開け巣を作る。彼らには同じ種でありながら、役割が生まれながらに決められており、それぞれの肉体の部位でそれぞれの活動を始める。やがて、あるグループは四肢の末端から肉を分解していき、血管を通って仲間に分け与えていく。そして、心臓のポンプを再利用するために脳に必要な養分を与えながら微弱な電流を流し、疑似的に脳を蘇生させるのだ。カバネ虫にとって、死者の意識が目覚めるのは副次的な作用に過ぎない。
カバネ虫が発見されたのは、つい二年前の話だ。この蟲は神の子の死骸から摘出された。謂うなれば、世界をキリスト教の信仰へと幻惑した奇跡の正体なのだと仮説立てられている。
私はこの寄生虫の研究に携わる、一研究スタッフであった。研究材料の持ち出しは勿論禁止されている。私は誰にも秘密で、この蟲を死んだ妻の体内へと注入した。世間では妻は死んだことになっている。偽の葬儀も執り行った。
妻の死体を秘密裏に手元に置くことには大層骨を折った。親族を説得して、葬儀は私と妻の住んでいた自宅マンションで行うことを前提に話を持ち出し、火葬を先にして遺骨だけを用意することにしたのだ。しばらくは彼女と私だけにして欲しいと涙ながらに訴え、何とか彼女の死体から彼らを遠ざけた。私は用意した骨壺を煙草の灰で満たして葬儀へと望み、斯くして世間を騙しきることに成功した。
妻が意識を取り戻したのは、彼女にカバネ虫の卵を注入してから二ヶ月が経ってからのことだった。最初は意識が不鮮明で、時折瞼を開いては虚ろな目で周囲を見渡すだけだった。私の姿を瞳に写しても、その時はなんの反応も顕わしはしなかった。
彼女がきちんと人間らしく話すようになったのはつい二週間前のことである。かの伝説によれば、キリストのアナスタシスは即時性があった。そして、彼自身が寄生虫の触媒となっていたのにも関わらず、蟲たちに身体を蚕食された形跡が見られないのは、現時点で判明されていない秘密があったに違いない。
私は妻の死体を冷凍保存でもして、その秘密が解明されて研究が完成する瞬間を待つべきだったのかも知れない。
大過への後悔に胸を圧し潰されながら、ふと、掃き出し窓から見える空をみた。
そこには、赤々とした禍々しい光に黒煙が立ち昇っていた。
(燃えている。きっと、あのツリーが燃えているのだ)
ほんの数時間前のことだ。私はせっかくのクリスマスイブだからと珍しく強くゴネた妻を連れ出して、マンションにほど近いイルミネーションの施された特大のクリスマスツリーを見物しにいった。
曰く、普段は午後十一時を過ぎると人気が消える、ベランダから見下ろせるデパートのツリーの灯りがまだ点いているのだという。
「きっと、係りの人が消し忘れたのよ」
そんな都合の良いことがあるかと、苦言を呈しても、彼女は強情に自分の主張を繰り返した。「わかった、わかった」と根負けした私は、彼女の車椅子を押して外出することにした。それが世間に死んだ筈の人間を暴露するという危険な行為だと自覚はあったが、私はどうしてもこの日の彼女の要求を無碍にすることは躊躇われたのだ。
今にして思えば、彼女の体が完全に蟲たちに鹵獲される時が迫っているという暗示だったのだと、私も意識下で察していたのだ。
時刻は深夜零時を回っており、上陸した寒波の影響も伴ってか、せっかくのイブだと云うのに、人気は不自然なほどに殆んどなかった。
二車線道路の大通りを渡り、商店の並ぶ狭い路地を通過すると、目的のデパートへと続く長いエスカレーターがある。営業時間をとっくに過ぎていたのだから当たり前だが、エスカレーターは止まっていた。
「頑張って、あ、な、た」
妻の美しい微笑みを小憎たらしいと思ったのは、この時が初めてであった。
妻の体よりもずっと車椅子の自重の方が断然重い。私も若くはないため、重いものを持って階段を登るというのは重労働だったし、なにより、何かの間違いで手が滑りでもすれば、蟲たちに蝕まれた妻の豆腐のように脆くなった身体はバラバラに砕け散ってしまうだろうという想像が、精神的プレッシャーになって肩に重くのし掛かる。
そんな私の緊張を知ってか知らずか、妻はチアリーダーよろしく、ファイト、ファイトと心底楽しそうに繰り返していた。妻に殺意を覚えたのはこの時が初めてだった。
汗だくになって、なんとか止まったエスカレーターを登り切ると、煉瓦の床の向こうで暗いデパートの入り口が、私たちを招くように開いているのが伺えた。
「ほらみて、ツリーが私たちを呼んでるわ」
妻の神妙な声に黙って肯くと、私は息を弾ませたまま、車椅子を押して扉の向こうへと進む。
暗いデパートの中はクリスマスツリーのあるホールへと続く通路の両脇を、売場への立ち入りを阻む朱色のロープで区切っていた。
ロープの向こうには、商品の並ぶ棚が無造作に置かれている。棚にはガラスや陶器でできた置物、渋い色合いの女性服、安価そうな皮製のバッグや財布などが陳列されていた。
「不用心だな」
「きっと盗まれてもいいものばかりなのね。あら、カワイイ猫ちゃん」
猫を模した小さなガラスの置物を目にして、彼女は嬌声を上げた。今度買ってきてやろうと、私は内心でその置物の外観を記憶に焼き付けるよう努力していた。
売場に挟まれた短い通路抜けて、もう一つの扉をくぐる。そのドアもまた、私たちを出迎えるように開け放たれていた。
ホールの中心には吹き抜けの天井を突き抜ける、巨大なツリーが赤白黄の電飾を明滅させていた。ツリーを照らす白昼色の電灯も点いており、ホールは日中のように明るい。
「すごい、大きいわね」
「ああ」
ツリーの頂上は三階フロアの手摺りの位置よりも高い。
「綺麗だわ」
「ああ」
「…私とどっちが綺麗?」
「そりゃ、決まってる。ツリーだよ」
「ひどいわ。離婚よ」
暫し、そんな他愛もない軽口を言い合って笑った。
ガラス張りの高い天井と、各フロアの手摺りに囲まれるように窮屈そうに聳え立つ巨大なツリー、それからそれを覆うカラフルな電飾の灯りが幻想的で、なんだか四方をステンドグラスで覆い、天井には一面宗教画が描かれている大聖堂を模しているように感じた。パイプオルガンの調べが今にも聞こえてきそうだったのである。妻も同じ印象を抱いたのか、賛美歌を鼻歌で口ずさんでいた。
神聖な空間を二人占めしているみたいで、自然と私の胸は高鳴った。二十分も居ただろうか、一頻り私達はしゃぎ終わると、妻は満足して様子で来た道を引き返そうと言った。
そうだな、と、私が車椅子を押すと、彼女は何かを思い出したように突然叫んだ。
「あっ、待って、ちょっと気になることがあるの」
「なんだい」
「このツリー、中身どうなってるんだろう」
妻に指摘を受けて気づいたが、この巨大ツリーには幹の部分が見あたらなかった。床に接触した部分からすでに、緑色の葉の部分なのである。床の接触面の面積が一番広く、形状は完全な三角柱になっている。
「ちょっと、近くで覗いてみようよ」
私は妻にねだられるが侭に、ツリーへと近づいた。
「あー、暗くてよく見えないけど、多分空洞なのよね、これ」
「よく見ると、上の方に三方にワイヤーが括ってあるな。あれで、倒れないように壁面に固定してるのかもしれない」
私は頭上に指をさして、そう指摘する。しかし、妻は私の発言に耳を貸してはくれなかった。
「もう暫くすると、このツリーも片付けられるのよね、きっと」
独り言のように、彼女は小さく呟く。どことなく寂しそうな声色をしていた。
「ねえ、あなた。想像してみて。このツリーが撤去されることになった朝のことよ。このツリーの空洞の中で、小さな男の子と女の子の冷たくなっているのが発見されるの。あなたはそれをどう思う?」
「…素敵だと思うよ。この上なく、ロマンチックだ」
「えー、変な人ね」
茶化すように、彼女は笑う。それから、「そうね、それが私たちだったら良かったのに」と、囁いた。
この後、私は再度ヒヤヒヤしながら、汗だくで車椅子を担いで長く急な階段を降りることになる。
ーー長い回想を経て、私はついにリビングに灯油を撒く作業を終える。
百円ライターの火花が散って、一瞬で辺りは朱い炎に包まれた。
「明日の朝、君と私はショートした電飾が原因で全焼したツリーの焼け跡から灰になって発見されるのさ」
数時間前の奇跡みたいな光景を体験した私達夫婦なら、そんな奇跡も起こし得る。
「ねえ、ロマンチックだね」
今はそんな気がしていた。
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