第13話 夕焼け


その日から、岩井くんは私の心になくてはならない人になった。




でももう会うこともできないね。お互いバイトは辞めてしまったし、彼の知ってることと言えば通っている美大名だけ。




きっと、個性と自信と生きがいに溢れているだろう人たちの中を訪ねていく勇気なんて、微塵もないと思った。






幼い頃から私は絵を描くことが好きだった。と言っても漫画チックな絵のことなのだけど(笑)。




画用紙に想像の世界を描いてみたり、シンプルなノートの端っこに、サンリオやアニメのキャラクターを真似て描いてみたり。




折り紙の本によって、動物の折り方が変わることを知ると、自分もクマやウサギの新しい折り方を編み出してみようと熱中したり。




「雪だるま」について詩を書く授業を楽しいなと思えたこと。

家庭科でみんな同じ型と色のエプロン制作の見分けをつけるため、ポケットの部分にそれぞれフエルトを使ってアップリケを縫いつけてよいと言われ、その形を花にしようか苺にしようかと悩んだあの時間も楽しかった。





だから、たぶん「造形物」とか「作品」とか、「無」のものを「有」のものへと1から築き上げていく作業は好きな質で、心のどこかには芸術的なことに対する憧れもあったのだけど、それにともなう「挑む」とか「評価される」という生き方は失敗とも隣り合わせなわけで・・・誰かの後押しがあるわけでもないのに、漠然とした憧れだけのものを現実に変えていく力は、私にはなかった。







悶々とした日々を送っていたある日、母が誰かと電話で話していた。




「はい。伝えます」そう言って受話器を置いた。



「詩穂。病院の経営者の方から。今週の土曜日、午前の診察終わりに、これまでのお給料を取りに来て下さいって」




「病院のアルバイトを辞めてたの?」とか「経営者の方、少しおかんむりの口調だったわよ」という類の言葉は一切なかった。





でも、母の事務的な物言いも気にならないほど、( もしかしたら岩井くんに会えるかもしれない! )と、私の胸は高鳴った。





あんなに気まずい別れ方をして、自分のことを立腹している奥さんに会うというのに、キュンと切ない感情がこみ上げ、今にも病院に向かって駆け出したい気持ちでいっぱいになった。







けれど・・・ドラマティックなことは簡単には起きないのが世の常。




当日。奥さんから、あっさり給料を手渡されると言われた。


「さようなら」



私にとって初めてのアルバイトで、様々な社会勉強ができたことは大きな事実だった。


「お世話になりました。ありがとうございました」



「はい、どうも」



「・・・」




すぐに引き返さない私を怪訝な顔で見る。



「あの・・岩井くんもお給料もらいに来たんですか?」

ドキドキしながら尋ねてみた。




「いえ、来てないわよ、あの子あの年でお金に汚いでしょ?なのに来ないの、変ね。

いたときは、これだけ働いてるんだからもっと給料あげろだの何だの、半人前の学生があーだこーだと口だけは一丁前で、バイトの合間に制作の宿題をしていたから注意すると『ちゃんと今日すべきことは終えてるのに、文句言われる筋合いはない』って逆ギレしたり小生意気で、美大っていっても特別名の通ったところでもないし、ああいう子はダメね。


あなたに関しては正直、特別な印象は何もないんだけど、迷惑者の岩井くんには辞めてもらって主人も私も清々してるし、バイトの子たちも喜んでいるのよ」







「ねえ、詩穂ちゃん。転校を繰り返したなら、1度ぐらい苛めにあったりした?」

何回かそんな風に問われたことがある。




けれど、私はその経験が皆無だった。

そこに至ることもない存在。




「転入して来たんだね」

「転校するんだね」



「別にどっちでもいいんだけどね」



それがいつもの私の価値。

今回もまた同じ。


きっとどこへ行ったって変わらない。

誰から見ても「どうでもいい子」





夕暮れの中をトボトボと歩く。



もうすぐ夜の暗闇にかき消されてゆく、夕焼けを見つめながら、涙がこぼれそうになった。




その日の夕焼けは、空で火事が起きてるように真っ赤だった。




わずかな命しか持たない夕焼けが火のように燃え盛って、暗闇と喧嘩してるよう。

あの激しさはまるで岩井くんの感情みたいね。

暗闇は、岩井くんとぶつかっていた人々みたい。




夕焼けが暗闇に飲み込まれるまで、あと数分。


完全に消えるまで、私は空を見上げながら立ちすくんでいた。





夕焼けに、対立している暗闇だって私は羨ましい。岩井くんから、きちんと存在しているものとして認識される全ての人が羨ましい。





岩井くんにだけは「どうでもいい子」として扱われたくない。




涙がこみあげてくる。

恋をすると涙もろくなるんだと知った。





お気に入りの白地に水色のドット柄のハンカチで涙を吹いた。


一瞬だけハンカチに小さなシミができた。

やがて、そのシミは生地に吸収され何も見えなくなった。




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