第12話 家庭環境


バスの本数が15分に1本という町で良かったと思う。

バス停のベンチに座る彼に、やっと追いつけたから。



「岩井くん」




(は?どうしたの?仕事は?)という風に彼はこちらを見た。



「走ってきたの?」




詩穂の頬はかすかに高揚していた。


その様子を横目で見て、「何か似合わないことやってますって感じで怖いんだけど」 と彼は皮肉そうに笑った。




納得顔で頷いた私に対して、岩井くんは笑った。




「私もやめたよ、アルバイト」と言うことは許されるわけがない。

岩井くんに責任を負わすことだから。




「俺のこと心配してるなら大丈夫だよ、別のバイトもしてるし」


「え?かけもち?」


「そう。病院の後も働いてるから。朝帰りになることもよくある」


「そうなんだ」



「俺らが高校生の頃にカラオケボックスができたけど、それ以前は飲みの席で、お客は順番に歌ってたらしい。

未だにそういうスタイルを好むサラリーマンなんかを相手に、カラオケ番号を入れたり司会をしたり、歌ってる人を相手に手拍子や掛け声をかけて盛り上げる仕事なんだ。

病院と同じで裏方仕事もやってる」



「そうなんだ。すごいね」




岩井くんは「別に」と言って、また冷笑した。




少し沈黙の後、「俺、金が必要なんだよね」と言う。



それは、詩穂の唯一褒められてきた「聞き上手」が、もしかしたら役立つのかな・・・と思える言葉だった。






バスが到着する。



「乗らなくていいの?」


「・・・うん、いいや。まだ時間あるし」




岩井くんは「あんまり人に言うことじゃないんだけど」と前置きを言うと、


「俺んち、家庭環境が悪いから自分で稼いで一刻も早くあの家を出たいんだ」と語り始めた。





家庭環境が悪い・・・ひとくくりに言うけど何を定義にそう言うんだろう。




初めて真剣に考えて、ひとつの答えが出た。




子供が「この家、この親の元に生まれてよかった」と思わない全ての家庭のことなんだと。





お父さんのいない環境で育っても、心が安定していた小川くんの顔が咄嗟に浮かんだ。




子供の頃から転々とした場所は、どこも富裕層が住む町ばかりだった。

けれどそんな中でも、ある中学校には給食費が払えない家庭の子もいた。

でもその女の子は「お父さんもお母さんも大好き!」と言っていて、私の目には幸せそうに見えた。




ある小学校では、重い喘息の男の子がいた。

学校に遅れて来たり早退も多かったのだけど、いつもお母さんと一緒に手を繋いでいて、お母さんがその子をとても大切に扱っていることがよく分かった。

先生が「いいお母さんだね」と言った。男の子は躊躇することなく「はい」と嬉しそうに即答した。





小学校に入学したばかりの初めての参観日で、「ママがまだ来ない」と言って泣き出す男の子もいた。

先生は「小学生になったんだから、そんなことで泣かないよ」と言った。隣の席の女の子は、幼い子を扱うみたいに「きっともうすぐ来るから泣かないの!」と励ましていた。

少し遅れてお母さんが入って来たとき、その男の子の表情はぱぁっと明るくなった。


女の子は「ほら、私が言った通り、すぐ来たでしょ!良かったねぇ」と一緒になって喜んでいた。

その後、女の子は振り返ったまま自分の母親のほうを見つめて、(私、いいことしてるでしょ!)とでも言いたそうに得意気な顔を向けていた。



その光景を見て、(みんな、みんなお母さんが大好きなんだ)と思った。






でも逆も然りだった。


中学生の頃、お家が宝石商をしているお金持ちの女の子がいて、びっくりするほどの額のおこづかいやお年玉をもらっていた。

けれど、「お父さんがあまり帰って来ない家庭なんだ」と自ら言っていて、その寂しさからなのか、ターゲットを決めてはいじめを繰り返していた。

しかも、みんなが驚くほどのおこづかいをもらっていたにも関わらず、「あの子には万引き癖がある」という噂もあった。

それが本当なら、満たされていなかったのは金額ではなく心だったのかもしれない。




つまり、家庭環境の良し悪しや幸福感には、経済的なことや健康面は全く関係ないということなんだ。




ということは、私も「家庭環境が悪い人」だったんだ・・・と、今さらながら気付かされた。





だけど私は、岩井君のようにストレートに、自分のことを率直に語れる話術を持ち合わせていなかった。




だから自分の立場から目をそらさず、自分の思いを自分の言葉で話そうとする彼のことを改めて尊敬した。





「どんな風に悪いかって言うと、親父は昔からすぐ手が出る。

母親も一日中ヒステリー起こしてばかり。

夫婦喧嘩なんてBGMみたいな環境。

兄貴は仕事もせずに引きこもりで家族と一言も喋んない。

まあ君みたいに、見るからにノホホンとした家に育ってそうな人には無縁のような家庭だよ」




「・・・うちも家庭環境、悪いと思う」




「そうなの?そんな風には全然見えないけど。だって鈴木さん、いつでもすっごくひょうひょうとしてるじゃん(笑)

ひょうひょうって言うかふわふわ?何か現実生活をちゃんと送ってんのかな、大丈夫この人?って感じだもん。家庭環境の悪い人間ってのは、普通もっとしっかりしてるよ」




ぐさっと傷ついた。




家庭環境が悪いことに今になって気付くぐらいボンヤリとしていた、いい加減な自分に対して。




そして、いつでもどこの場にいても、何となく物事をふんわりとしかとらえず、その軽く生きている情けない生き様を言い当てられたような気がして・・・私の心は震えていた。





本当は誰かに教えて欲しかった。 どんな風に生きればいいのか。




そして誰かに認めて欲しかった。自分の存在を。




誰かの話を聞く役ばかりじゃなくて、本当は誰かに聞いてもらいたかった。

まだ18年しか生きてないけど、誰とも違うはずの私だけが歩んできた人生を。







病院の午後診が始まり、ひっそりと静まりかえったロッカーにひとり。

私は岩井くんに出会えたことに深く感謝して

、再びその場を後にした。

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