第10話 2度目の恋
やっとひとつどころに落ち着けることになった高校時代。
小川くんの存在は離れてもなお輝き続け、いつしか神格化されていった。
同じ学校の男の子はまるで目に入らず、かといって小川くんに連絡を取る勇気があるわけでもなく、あくまでも彼を心の恋人として、自分と同じように年齢を重ねて高校生になっている姿を想像の世界で楽しむだけだった。
現実の世界では、同窓会にも呼ばれず、存在なんてとっくに忘れられていただろう私だったのに。
そんな少々?痛い私が、妄想ではない、生身の男の子にしっかりと恋をしたのは、大学生になってすぐの頃だった。
相手はアルバイト先で知り合った、同い年で美大に通う岩井くん。
2人は個人が経営する総合病院の耳鼻科で働き、詩穂は主に受付や診療補助の仕事を、岩井くんは使用済みの医療器具を消毒液につけて洗う滅菌係、清掃、科以外の院内全ての膨大な量の紙のカルテを倉庫に運び入れる業務などを担当していた。
消毒薬は強い薬剤だったので医療用手袋をして洗うのだけど、元々の体質なのか彼の手には、常にひび割れやあかぎれができていた。
患者さんのメインは子供とお年寄りだったのだけど、詩穂はしょっちゅう彼らの風邪をもらい、喉の痛みも日常茶飯事となっていた。
その頃のこと。
午後診の始まる少し前、長らく来院していない患者さんのカルテを岩井くんに渡すため、詩穂は抜き取る作業をしていた。
下段の棚の整理をしていた私の頭上。
受付のカウンター前で、
「何で従業員がマスクをするの禁止なんですか?」と怒る声がした。
思わず立ち上がって顔を見上げると、岩井くんと病院長の奥さんが対立していた。
(あ、また喧嘩してる・・・)
☆
「ねえ、岩井くんとまだ1度も喧嘩してないのって鈴木さんだけじゃない?」
そんな風にバイト仲間に言われていたぐらい、直情型で短気な彼は、目にするもの耳にすること、所かまわずすぐにカッとする。
(小川くんとは似ても似つかぬ、デリカシーがなさげな人・・・)
最初は彼のことをそんな風に思っていた。
私は彼に関わって言いがかりをつけられることがないよう、細心の注意を払って、なるべく近付かないよう気をつけていた。
何しろ彼は、アルバイト歴も年齢も上の先輩にも、お構いなしに文句をつける。
例えば、「トイレ掃除、お前の番だろ?できてねーじゃん。何やってんだよ!」といきなり責める口調で言うのだ。
「今、やろうとしてたんだよ。
お前さー、親に『人間は物言いが大事だ』って習わなかったの?普通の人間は『トイレ掃除もうやった?』ってそう聞くんだよ。
会話のテクニックってものがまるでなくって、わざわざ人を怒らすような言い方しかできないんだな」
それは女子に対しても変わらない。
「岩井くん、患者さんの前で『お前、段取り悪すぎ。仕事できねーな!』とか言うのやめてくれない?
それって自分は仕事ができる前提で言ってるのか知らないけど、あんな風に患者さんを動揺させて、自分こそいい仕事できてないよね。そういう上から発言、気をつけたほうがいいよ。人をむかつせるから」等々。
そんなある日、詩穂は初めて彼とトラブルの空間を共有してしまったのだ。
インフルエンザの予防接種に来た、前々からよく来院している親子。
ある頃から母子家庭の医療証を持っていた。
まだまだ離婚して間もない日付け。
お子さんたちの心は不安定だろうなと思った。
案の定、お姉ちゃんのほうは硬い表情をしながらもおとなしく注射に応じてくれたのだけど、下の男の子はお母さんの膝の上でむずがって落ち着かない。
先生が、「スタッフも手伝うけど、抱っこしてるお母さんが、手の力をゆるめず力一杯ちゃんと押さえててね」
「え、でもすごい嫌がってますし、この子すごく力が強いからできるかどうか」
「暴れて注射失敗したら危ないし、もう一回針を刺すなんてことになったら余計に可哀想だからね」
「はあ・・・」
面倒くさそうに、まるで他人事のような表情を浮かべる母親。
子供は暴れまくってお母さんの手からするっと抜けると、診療所内を走って逃げ回った。男の子の身体が当たって、医療器具がいくつか倒れた。
私は男の子をつかまえると笑顔で言った。
「つかまえた!大丈夫だよ、一瞬ちくっとするかもしれないけど、ちょっと我慢したら寒い間もずっと元気でいられるよ」
すると背中を向けて部屋の隅で注射器を洗浄していた岩井くんが、くるっと診療側に顔を向けて私に言った。
「いい加減なこと言ってんなよ、注射したって冬中元気な保証なんてねーし。あんたみたいな子供騙しをするやつがいるから、子供は大人に不信感持つようになるんじゃん」と。
言葉が出ず手が緩んだ瞬間、男の子は母親の元へ走って行った。
岩井くんは母親に向かっても続けた。
「そもそもあんたみたいなのが母親やってんのが間違いなんだよ」
女の子は母親にぶつけられた内容がいくらかは理解できる年齢なので、完全に固まっているし、お母さんは怒りをあらわにした。
「あなた、何?アルバイト?まだ学生でしょ?」
先生は「岩井くん、やめなさい」と止めたのだけど、彼の耳にはまるで届かず、更にヒートアップするばかり。
「俺が学生とかあんたに関係あるか!
待合室で順番待ちしてる人間の時間を無駄に奪っておいて、その自覚すらないのかよ?
時間泥棒め。泥棒だよ泥棒。それって犯罪だろ?
それからこいつが倒して行った器具を片付けなきゃなんない俺らに、あんた時給の上乗せでもしてくれんの?
子供に、予防接種を受ける必要性について話すことすら怠ってるんだろ。
インフルエンザにかかったら死んでしまうかもしれない年なのに、ちゃんと納得するように説明ぐらいしてから病院に連れて来いよ。
あんたは子供に何がいいことで何が悪いことなのかも教えてない。
身内にも他人にも、つまりあんたは今この場所にいる誰にも思いやりがまるでない。
親失格というより、もはや人間失格だな」
受付はカーテンで仕切られているだけだったので、いつも診察室の声はスタッフにはほぼ丸聞え状態だった。
その日、受付担当だった女の子たちが控え室にいた奥さんに中の状況を知らせたようで、血相を変えた奥さんが慌てて入って来た。
「スタッフの者がすみません。おっしゃるように学生アルバイトの者なんです。
ボク、今日は注射もういいよ、お姉ちゃんと二人で受付の所においてあるシールたくさん持って帰っていいからね」
母親は失笑気味に奥さんに言った。
「いりませんよ、シールなんか。
それよりいくらアルバイトとは言え、スタッフ教育を怠りすぎじゃないですか?まあこんな病院にはもう来るつもりがないので、どうでもいいですけどね。娘の2度目の注射もキャンセルでお願いします!」
私は、動揺しっぱなしの2人の子供が不憫で胸がふさがれる思いがしていた。
でもその日の仕事を終え、ロッカーで着替えをしながら、遅まきながら気が付いた。
(物言いがきついだけで、岩井くんは何も間違ったことは言っていなかったのかもしれない・・・)ということに。
(あの子たちに今日という日があったこと、もしかしたら長い人生で見れば良かったのかもしれない。)
そんな風にも思えてきた。
何でも吸収する、耕されたばかりの柔らかな畑の土のような子供の心に、岩井くんは「種を蒔く」という行動を起こしたんだと。
それって、少なくともあの子たちに対して無関心ではできないこと。
(・・・みんなが言うほど悪い人じゃないのかもしれない)
その日から私は岩井くんを意識するようになった。
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