第9話 初恋



英司の前に好きになった人は2人。



どちらも完璧な片想いに終わった。






高校時代の修学旅行。

女子たちの間で「初恋」について語り合った。



「次は詩穂ちゃんの番だよ」



心の中いっぱいに広がってくる 優しい笑顔のあの人を思い出す。




「中3のときに同じクラスだった、小川くんっていう子でね・・」



彼の名前を声にしただけで、甘くてふわっとした綿菓子のような、気持ちのいい洗いたてのレースのカーテンのような、虹を見つけたときの喜びのような・・・そんな幸せに包まれた。








小川くんは母ひとり、子ひとりの家庭で育っていた。




離婚とかシングルマザーという言葉が今ほどスタンダードでなかった時代、彼の家は「特殊」ではあったのかもしれない。





小川くんは大人びた雰囲気があって、勉強ができて、足が速くて女子にモテていた。





しかも、それらを鼻にかけることは一切なく、自分から積極的に人と関わろうとしなくても、彼の机の周りには同性の友達が囲み、女の子の熱い視線が注がれ、自然とみんなから真ん中に押しやられるような子だった。





「モテたくてアピール癖のある男子たちとは、ワケが違うよね」



「うん。媚びてなくていい感じ」



「普段は大人っぽいのに、笑うとめちゃくちゃ可愛くない?」



「欠点がないって小川くんみたいな子のことだよね」



「だけど相手にされるわけないよなー。

中1の頃に2つ上の綺麗な先輩から告白されるような、手の届かない存在だもん」



「結局、あの先輩とは付き合ってるの?」



「分かんない。ミステリアスなとこもいいよねー」





女子たちの間では、最初は宿題や部活やテレビ番組の話をしていても、いつも最終的には小川くんの話題になっていった。





転入したての詩穂を気にかけて、最初に優しく接っしてくれたのも彼だった。





あの学校で、詩穂はひとりだけジャージの色が違った。

みんなは濃い紺なのに私だけ水色。

平気な顔をしていなきゃと思っても、本当は体育のたび、好奇の目にさらされていることが堪らなくて居たたまれない思いをしていた。





その日も水色のジャージを着て運動場へ続く廊下をトボトボ歩いていると、背後から来た小川くんに言われた。





「鈴木さんが浮いてるってことは全然ないよ」と。



隣に並んだ背の高い彼を下からそっとのぞき込むと、優しい笑顔を浮かべてた。

キューン。





お礼を言おうと思ったときには彼はもう前方にいて、その背中に言葉にならない(ありがとう)を繰り返した。




少しでも油断すると涙がこぼれそうなぐらい嬉しかった。






それ以降も、

まだまだクラスに馴染めず食欲もなくて、ノロノロと給食を食べていると、頭上から「給食時間、終わっちゃうよ」という優しい声と、あの笑顔。




自分の食器を片付ける際、さりげなく詩穂が食べ終えた分の器も一緒に持って行ってくれた優しさ。



いつでもお礼を言うだけで精一杯だった私。





数学は元から苦手な教科の上、習う順番も違っていて戸惑いの連続だった。

そんなとき、通路を挟んで隣の席だった彼がそっと小声で答えを教えてくれたこともあった。





人気者の彼のことを異性として意識してるなんて、微塵も出せるわけもなかった地味な私。





もし私が小川くんと釣り合うような外見で、もっと彼と対等に話すことのできる女の子だったら、


「転入生を武器に小川くんと親しくなるなんて許せない」と、学年中の女子に恨まれたことだろう。




ここでも私は、小川くんに気にかけてもらっていることすら意識されていない、存在感の薄さを存分に発揮していた。





そして私自身、縮まらない小川くんとの距離感に対して、(また転校するんだからこれで十分なんだ)と自分に言い聞かせていた。







そんな頃、近所に住むある男子生徒のお母さんが、わざわざ家まで来て母に告げた。



「鈴木さんの耳にも入れておこうと思って」




何のことだろうと気になり、玄関で大声で話すおばさんの声に耳をすましていた。




そしてすぐに「小川くんのお母さん」についての話だと分かった。




「長身で綺麗な方なんだけど、未婚のままひとり息子を産んでるのよ」




「相手はお金持ちらしくて、だから一応仕事の真似事みたいなことはポーズでしてるけど、実は優雅に楽な生活をしてるに違いないわ」




「非常識で、入学式に派手な服装で来たの」





(・・・母の逆鱗に触れるまで数秒前だ)と思った。




実の娘たちにも興味の薄い母が、他人の諸事情になんてもっと無関心であることは明白だったし、お母さんたちにありがちな世間話を長々されることを心の底から毛嫌いしていたのだ。




案の定、


「こちらは小川さんとやらに何の興味もございませんので、どうぞ帰ってください」

と、ピシャリと言い返した。





ところが鈍感すぎるのか自信家なのか、そのおばさんは気にすることなく続ける。



「担任の男性教師に色目を使っていて、息子の成績をよくしてもらっているのよ」



「あんな人は母親たちみんなで無視しなきゃならない存在よ」




「そんな境遇だから息子も息子なのよ。

好青年ぶっているけど、隠しきれない育ちの悪さがそこはかとなく漂ってるの。


何ていうか中学生とは思えない色気があって、あれは母親に似て女泣かせの一生をたどるわね」





彼女の言葉はあまりにも毒性が強すぎて、思春期の私の心はどんどん凍りついていった。



今すぐ玄関に飛び出して、「もうやめてください!」と、言いそうになる気持ちを必死に抑えていた。





母のイライラはマックスに達し、その後はとりつくしまもないほどの勢いで外に押し出されたその人の口から、それ以上は小川くんが汚されることはなかった。






玄関の近くで、呆然と立ちつくす私に気付いた母は不機嫌そうに言った。


「どいて」



「ママ、小川くんってそんな子じゃないから。転入してからずっとすごく優しくて・・」



「話を聞いてたなら、繰り返し言っていたでしょ?私はそんな親子に全く興味がないの。

あなたまでこれ以上やめてちょうだい」





小川くんを擁護したい気持ちで、今にも溢れ出そうないくつもの言葉は行き場がなくて・・・飲み込むしかなかった。







翌日登校すると、ある女の子が話しかけてきてくれた。


「ねえ、鈴木さんの家にもあの男子のお母さん訪ねてきたんじゃない?」



「え・・・」



「私もね4月に転入して来たんだけど、そのとき、あのおばさんがうちに来て、散々小川くんの家の悪口を言ってきたの。

お父さんがいない男の子が真っ当に育つわけないとか、もう色々。

あの人、あれで小学校の教師みたいよ。

自分の息子が成績1番っていうことにこだわってて、吹聴癖もあるんだって。嫌な感じだよね」


「・・・うん」





私は、自分の努力ではどうすることもできないことで人を攻撃するような大人が存在することへの絶望感と、いいようのない激しい怒りがわいてきた。





罵られた小川くんも、もちろんだけど、

それ以上に、あのおばさんの元に生まれた男子の境遇を思うと、もっとつらくて。


いったい彼は、あんなお母さんに育てられて、これまでにどれほどの傷を作って生きてきたんだろう。





「子供は親を選べない」




その事実に打ちのめされ、その日は1日中、胸のズキズキがおさまらなかった。





それ以降も私は、来る日も来る日も人知れず小川くんの言動を眺めていた。




そして日を重ねるにつれて、彼が「誰に対しても」決して不快な思いをさせない人だと知った。



若干15歳にして・・・。





人生の折り返し地点を過ぎて分かった。

「人間性は年齢では計れない」ってこと。





今も感謝してる。


小川くんが、転入・転校ばかりを繰り返す環境にいた私の心情、痛み、不安、言葉にできない切なさ、諦め。それらを全て理解してくれていただろうことに。






小川くん。

中学生の私は思ってた。


もしこの瞬間に急死することがあったとしても、その瀬戸際であなたに出逢えたことを深く感謝するんだろうなと。






残念ながら、春のクラス写真や修学旅行が終わってから転入し、卒業を目前にまた転校してしまったので、彼のたった1枚の写真も一緒に載ってる卒業アルバムさえもない。






けれど転校するときに、

クラスメイト全員からのメッセージ入りの色紙をプレゼントしてもらえた。





すぐに小川くんからのメッセージを探した。


「鈴木さんは聞き上手なところがいいと思っていました」





・・・それは、これといって長所のない私が、幼いころから唯一、人から誉められてきたこと。



私自身は「聞き上手」より「話上手」と言われる人のほうが、ずっと魅力的だと思って、それまではさして嬉しくもなかったのだけど、


たった半年だけのクラスメイトだった私の本質を小川くんが見抜いてくれたことに、驚いた。



なぜなら、小川くんが私の何を見て「聞き上手」だと判断してくれたのか分からないぐらい、私たちは1度も会話らしい会話などしたことがなかったから。





いつでも小川くんが話しかけてくれたり、手伝ってくれたり、教えてくれたり、助けてくれただけ。



それに対して私が、

「ありがとう」「どうもありがとう」

その5文字、8文字以上の言葉を発したことなど1度もなかったのに。



とても嬉しくて、色紙を見ながら泣いた。





気がかりだったもうひとりのクラスメイト。

あのおばさんの息子。


彼からのメッセージはこう書かれてあった。

「受験、頑張って下さい。僕も頑張ります」



その一文に胸が張り裂けそうになった。




社交辞令だとしても、私の受験なんてどうでもいいのに。

私がどこの高校に進学しようと、うちの母は特に興味がないのだから。



でも彼は違うよね。

どこの高校に行くかによって、母親に一喜一憂されるという、とてつもない重さを胸に抱えているはず。



色紙に向かってつぶやいた。

「頑張ってね」





もう1度、大好きだった人。

小川くんのメッセージを見る。


「ありがとう」




自然と出た言葉は、やっぱり本人を前にしても、色紙を通しても変わらないんだ。




少しおかしくなって、気付くと涙顔から笑顔になっていた。

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