第6話 ふる里
幼い頃の詩穂は、父の実家へ帰省できる夏休みを心待ちにしていた。
そこから程遠くはない母の実家は、
有名な塔が建ち、博物館や図書館、いくつか大学もあったので「学生通り」の明るいイメージ、遊園地にプール、公園も豊富で、綺麗に区画整理された広い道は運転もしやすく、お洒落な外観の家が並び、緑豊かな自然環境にも恵まれながら、それでいて垢抜けた印象の街にあった。
母も妹も、そして父までもがその街を好み、「住みたい街」にエントリーされるのも納得だと絶賛していた。
けれど私だけは、父の実家に行くほうがずっと好きだった。
母方のいとこたちは、一回りほど年上の世代ばかりで緊張したこと。
そして父方の親戚には、人間味あふれる温かな人が多かったから。
普段の生活は、多忙な父の通勤時間短縮と、都会派志向の母の希望で、 自宅の至近距離にオフィスビルやデパートがあるような都市部ばかりだったことも関係していたのかもしれない。
父の故郷にいると、自分がその田園風景の一部となって、絵に描いたような「昔ながらの日本の夏」を体感できることがとても嬉しかったのだ。
風鈴がなる縁側でいとこや近所の子供たちとスイカを食べて、男の子はセミとりや鬼ごっこに夢中で、女の子は日陰でゴム飛びをして、みんなでシャボン玉やかくれんぼもした。遊び疲れると並んで昼寝もした。
みんながあまり好まない蚊取り線香の匂いも、不思議と好きだった。
夏の夕暮れ、煙が細くなって茜空へとのぼっていく様子を喧噪に紛れていつまでも見つめていた。
夜、外で花火を始めると祖父母が飼っていた多数の猫が怯えて方々に消えた。
自由な猫たちを羨ましげに眺めていた、鎖に繋がれっぱなしの犬もいた。
当時の総理大臣と顔が似ていたので「Oさん」と名付けられた犬は、よく声が枯れないなぁと思うほど、吠えてばかりいた。
私は少し孤独な目をした犬を、猫よりも贔屓していた。
猫たちの前を涼しい顔で素通りして、よくOさんに話しかけた。
「毎日暑いね」
「何でOさんは犬に生まれてきたの?犬になりたいって自分で選んだの?」
「毎日お味噌汁とご飯を混ぜた餌ばかりで飽きないの?」
けれども私が5歳になった頃、犬小屋はもぬけの殻になっていて、祖父母の家からOさんは消えていていた。
父から「Oさんは死んだみたいだ」と言われたとき、幼いながらに「死」というものに言いようのない恐怖を感じた。
(死んでしまったOさんは一体、今どこにいるんだろう。迷子にならずにたどり着ける場所があるのかな)
(Oさんは自分が見つめていた木々のことも、飛行機や打ち上げ花火の音に張り合うように吠え続けたことも、好物を美味しそうに食べていたことも、数少ない喜びの散歩の時間になるとしっぽがちぎれるほど喜んで人間に飛びついてきたことも、猫たちに関心のない様子を装いながらも意識していたことも、まして年に数回顔を見せるだけの私のことなんかも全部忘れて「無」になっちゃったの?)
当時はまだ国鉄だった小さな駅のホームで、私は「Oさん」を思っていつまでも泣き続けた。
まだ存命の総理大臣の苗字をつぶやきながら「死んじゃった」と泣くなんて、縁起でもない子だと、ぎょっとした大人たちの顔を、何故だか今も鮮明に覚えている。
あの中の大人たちの幾人かは今、Oさんと同じ場にいるんだろうなと、ふとした時に思う。
人生は思っているより、あっという間なのかもしれない。
自宅に戻ってからも、あまりにもしつこく泣き続ける私に辟易した母は言った。
「Oさん、たぶん生まれ変わるだろうから、もう泣くのやめて。今度あの町に行って1番最初に見かけた子犬が、Oさんの生まれ変わりだと思えばいいじゃないの」と。
気休めに言っただろう母の言葉でも、悲しみの淵にいた私の心には希望の光が射した。
(きっと、ただ単に一番最初に見かけた犬なんかじゃない。どれだけ子犬がいても、どの子がOさんなのか私には分かる気がする。
私と目が合った時に何か通じ合えるものがある子犬・・・)
けれど、祖父母の家に行くごとに子犬を探してみてもなかなか巡り会わないし、出逢えばその子の顔にポツンと穴があくほど見つめてみたけれど、一向にピンとくるような出逢いはなかった。
そして私が7歳になる年、本物のO総理が亡くなった。
そのニュースを目にしながら私の心臓に再び痛みが走った。けれど小学生になって、いくらかお姉さんになったのだから・・と、詩穂は5歳のときのようにその痛みを表出せず、心の中だけにそっと留めた。
あのときに痛感した。
せっかく生まれた美しいシャボン玉や線香花火にも終わりのときがあるように、犬のOさんも本物のO総理も跡形もなく消えてしまったんだと。
死ぬってきっとそういうこと。
だったら、人は何のために必死に生きなくてはならないんだろう。
生きるって、こんなにも大変なことなのに。
結局のところ、「一生の思い出作り」のためなのかな。
未だに答えは出ない。
☆
Oさんと別れたあのつらい経験も含めて、やっぱり私は夏が好き。
「ひとつ所で落ち着いた生活を送る」という経験のなかった私にとって、どんな酷暑でも、どこの場所にいても子供時代のあの夏休みの光景が至るところに感じとれて、胸に懐かしいものがこみ上げてくるから。
今日も、目を閉じると浮かんでくる。
鹿のつののような独特な枝を持つ無花果の木々。
祖父母の家の窓から、一面に広がるその風景を飽きることなく眺めていた幼いころ。
大切な私のふる里。
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