第2話 夢

詩穂は産まれてすぐに先天的な足の疾患の疑いを指摘された。




1年間補正用のベルトをはめ、毎月足の角度を測る検診を受けたようだ。



1歳と2ヶ月。医師の判断で「もう来院の必要はありません」と母は告げられたと言う。




けれどそれは後々、誤診だと分かった。




疲れが出ると足の付け根が固くなり、痛みが生じるという後遺症が残ったのだ。






5年生の冬、痛みが続いたため総合病院で検査をした。




そのとき医師から将来の夢を問われ「保母さん」と答えると、「君にとっては難しい」と告げられた。





「小さな子の視線や背の低い椅子に合わせて屈み姿勢も多いし、もう少し足腰の強い人じゃないと長くは続かないだろう」と。



また、美容師、看護師、CA、店員さん等、いわゆる立ち仕事は全部向いていないとも。





(何もオリンピック選手を目指したいと言ったわけでもないのに・・・)




そのとき、詩穂は愕然とした。




医師からしてみれば「保母さんになりたい」という思いなど、よくある子供の軽い気持ちだと取ったのかもしれない。





けれど彼女は3歳の頃から、大人が3歳児を扱う対象よりは中身が大人だったつもりだ。




「何歳?」と尋ねられ、たどたどしいながらも3本の指を使って「3歳」と答えた時に、「わー、すごいねー。難しいのに3の指が作れるの。お話も上手ね」と過剰なまでに褒められて違和感を持った記憶が残っている。





それ以降も、スーパーで倒した商品を元に戻さないおばさんを見てショックを受けたこともあれば、幼稚園の母親たちで1人のお母さんをターゲットに仲間はずれにしている状況を感じ取っては、人知れず大人に対して失望したこともあった。





だから小学生のあのときの私の挫折もまた、大人特有の短絡思考で、

「しょせん小学生の言う夢」とか「よくある女の子の標準的な受け答え」だろうから、「取るに足らないことだ」と思われるよりは、ずっと重い衝撃をくらっていたのだ。





なぜなら詩穂が唯一の幸せを感じられるのは小さい子たちがいる空間であり、それは何ものにも代えがたい、自分が最も自分らしくいられる一時を与えてくれるものだったから。





そのときから詩穂の中で「夢」という言葉ほど馬鹿らしいものはなくなってしまった。




人からそうは見えなくても、心の中は確実に蝕まれて、みるみるうちに卑屈な人間へと変貌を遂げていった。





「夢」を肯定して生きていける人は、自分の行く道を雨風に邪魔された経験を持たない人達のためのものなんだと。





クラスメイトが熱い眼差しで「綺麗なウェディングドレスを作るデザイナーになりたい」とか、「絶対にプロ野球選手になるんだ!」と語る姿を、同じ場所にいても(私とは違う世界に生きる人)と境界線を引いて眺める癖もついた。





平坦な道を普通に歩いていても、つまずきそうになる。



極端に高所が怖くて冷や汗が出て立ちすくんでしまう。



何故だか階段を登ることは比較的楽だったのだけど、走って降りることには滑り落ちそうな恐怖が襲い、急がねばならない時でも手すりを持ってゆっくりしか降りられなかった。





詩穂の背後から走って来て追い抜いかしていく無数の背中たち。




学校で、駅で目にする度、何でも無い顔を装ってはいたのだけど、いつだって胸には平然と前を行く老若男女に対して嫉妬の黒い感情がドロドロと渦巻いていた。




それは罪のない老人にも、あんなに好きだった無邪気な子供たちにでさえ。






そしてそんな自分は最低だと自分自身をとてつもなく嫌った。



自らを嫌い憎むことは、自分を邪険にも粗末にも扱っているということに等しかった。

そんな人間に他人を思いやる資格もなければ、実際寸分の余裕もなかった。





(私は一生、心の底から幸せに満たされることはないんだろうな)




(もし神様がいて、空から「誰の上に不幸の種を蒔こうか」と選別されたなら、私は間違いなくその候補者の中に名を連ねるに違いない)という自覚もしていた。






待ち合わせをした時間に友達が遅れて来たとき、立って待つことが限界になり、会ってからのショッピングもお茶も心ゆくまま楽しめず苦痛の時間でしかなかったこと。



友人と行った遊園地のアトラクションや人気店の長蛇の列に(何分待ちなんだろう)と内心ハラハラしながら最後尾に並んだこと。




そしてそれら負の経験が重なって、自分が何事にもとらわれることなく、思いきり色々なことに挑戦する勇気が持てなかったこと。




そういったくすぶる気持ちの全てを、学生時代を通して家族にも友達にも、つまり誰にも告げることはなかった。

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