第80話【2月14日その1】ビターな味のチョコレート


「真っ直ぐ来いって言ったのに、あいつはどこに寄り道してんのよ!」


 甘い芳香の立ち込める放課後の図書準備室。

 早苗先輩が腕組みをしながら苛立ちを隠そうともせずに声を荒げた。わたしと亜子ちゃんがそれをなだめる。

 わたしたちは結城先輩のことを待っているのだが、実のところ部活の時間はまだ始まったばかりだ。

 それなのに早苗先輩が怒っているのは今日がバレンタインデーだからだろう。

 ひょっとしたら誰かに呼び止められて告白でもされているのかも――そんな想像をしているのだと思う。

 もっともそれはわたしもいっしょで、あまり心穏やかとはいえない。


 長机には蓋が開けられ、すぐに食べられる状態のチョコが鎮座している。

 文芸部の女性陣でお金を出し合って買った、高級ブランド『ゴディバ』のチョコレートだ。

 高そうな箱の中身は様々な形の十六粒のチョコ。数は少ないがこれで五千円を超えている。

 十六個入りを選んだのは四人でぴったり分けられるからだ。

 これは結城先輩へのチョコというだけでなく、わたしたちがお互いに友チョコとして渡す分も入っている。

 要するにチョコパーティをしてみんなで食べようというわけだ。

 このことは事前に結城先輩にも伝えてあるから、図書準備室に顔を出さずに帰るということはないだろう。

 そろそろ来るはず。

 そう思ったタイミングでドアが開いて結城先輩が入ってきた。


「遅いわよ!」


 早苗先輩がその顔を見るなり文句を言う。

 いつもなら結城先輩も言い返して喧嘩になる場面だが、


「待たせてすまない」


 先輩はそれだけを言って椅子に座った。

 素直に謝られて早苗先輩は振り上げた拳の下ろし場所に困ったみたいだ。言葉に詰まった先輩に代わってわたしが音頭を取ることにする。


「これはわたしたちから結城先輩へのバレンタインのチョコです。といっても自分たちの分もあるのですが」


 亜子ちゃんがそれに続いた。


「日頃からお世話になっている感謝の気持ちです」


 早苗先輩も咳払いをひとつすると、もったいぶった声を出した。


「まあ、そういうことね。あんたなんかにはもったいない高級チョコなんだから、味わって食べなさいよ」


 わたしと亜子ちゃんは思わず笑ってしまう。

 結城先輩も苦笑を浮かべつつ「みんなありがとう」と礼を述べた。


「じゃあハッピーバレンタインということで」


 わたしの合図でみんながチョコに手を伸ばして口に運んだ。


「うわ、濃いねー」


 早苗先輩が驚いたような声を出す。

 実際にそのとおりだった。とても濃厚でカカオの味がはっきりとわかる。食感はきめ細かくてまろやかなのに、口中に広がる圧倒的な存在感があった。

 ゴディバは初めて食べたが値段だけのことはあると思った。


「美味いな」


 結城先輩も感嘆の声を漏らしているので一安心だ。

 しばらくみんな無言でチョコを味わっていたのだが、いかんせんひとり四個である。ほどなくして箱は空になってしまった。


「失敗したかなあ。たしかにおいしかったけどさ、もっと食べごたえのあるほうがよくなかった?」


 早苗先輩が申し訳なさそうな顔をこちらに向ける。

 わたしも亜子ちゃんも「そんなことないです」と首を振った。

 たしかにもう少し食べたいとは思う。しかし、こんな機会でもないと自分では絶対に買わないチョコだ。貴重な経験ができたから不満はない。


「俺は甘い物はそんなに食わないからな。量より質のこれは良かったぞ」


 幾分かは早苗先輩へのフォローもあるのだろうが、結城先輩も本心から満足しているようだ。


「みんながそう言ってくれるならいいんだけどさ」


 どうやら一番食べ足りないと感じているのは早苗先輩らしかった。

 チョコパーティがお開きとなったので、結城先輩はさっそく鞄から本を取り出している。今日のセレクトは山本文緒『恋愛中毒』。

 偶然だとは思うけれど、バレンタインデーにふさわしいタイトルだ。


 その後、女性陣はいつものようにお喋りに興じていたのだが、わたしは時折り結城先輩のことを盗み見ていた。

 とある機会を伺っていたのだが決心がつかない。

 心の奥でため息をつくと、同じタイミングで早苗先輩もため息をついたので慌てた。動揺を隠しながら尋ねる。


「どうしましたか?」


「いやさ、やっぱりもう少し食べたかったなあって。だって普通に五千円分のチョコを買ったらかなりの量になるよ」


 どうやらまだ引きずっているらしい。ゴディバを買おうと提案したのは早苗先輩だから、責任を感じているのだろう。

 普段はあまり会話に加わってこない結城先輩が呆れた声を出す。


「いつまで言っているんだよ。それにクラスの女子連中は友チョコを交換し合って騒いでいたぞ。鈴木だってしたんだろ。それは残ってないのか?」


 早苗先輩は冷めた目で結城先輩を睨んだ。


「そんなの残っているわけないじゃない。昼休みには全部なくなっていたわよ」


 これはわたしも同じだ。休み時間にみんなでちょっとずつ食べて、お昼には完全になくなっていた。

 結城先輩はそれを聞いて、ますます呆れたようだ。


常々つねづね思っているんだが、女はなんで甘い物だと際限なく食えるんだ? そのくせ飯は入らないというのがわけわからん」


「それはあんたが無知なだけよ! 医学的にも別腹っていうのは証明されているんだからね!」


 その説を聞いたことのあるわたしも早苗先輩に加勢する。


「それ知ってます。デザートとかの味が違う物を見ると、腸に送り出す動きが活発になって、胃に余裕が生まれるんですよね」


 亜子ちゃんまでもが強く頷いていた。

 三対一になって結城先輩は若干腰が引けたようだが、それでも反撃してくる。


「それじゃあダイエットしなきゃと言っているくせに、甘い物を食べ続ける理由はなんだ?」


 これには女性陣全員が目を逸らした。

 それは単純に意志の弱さの問題だ。

 返答がないので結城先輩は肩をすくめて再び本に目を落とす。

 しかし、早苗先輩がそれに待ったをかけるように尋ねた。


「そういえばあんた、来るのがちょっと遅かったけどさ。やっぱりチョコを貰ったりしてたの?」


 今度は結城先輩が冷めた目で早苗先輩を見る。


「……それを食わせろとでもいうのか?」


「そんなこと言ってないわよ! あんたみたいな奴でも貰ったりできるのか、ちょっと興味があっただけよ!」


「義理とはわかっていても、それを第三者にやるのはさすがに気が引けるぞ」


「だからよこせなんて言ってないでしょ!」


 今日ぐらいは仲良くしてほしいところだが、先輩たちはどうあっても喧嘩をする宿命らしい。

 そろそろ仲裁に入ろうかと思った時、わたしより先に亜子ちゃんがおずおずと声をかけた。


「……あの。わたしがチョコを持っていますので、よろしかったらこれをみんなで分けませんか?」


 たしかに亜子ちゃんの手には綺麗にラッピングされた包みがあった。


「貰った友チョコ?」


 早苗先輩の質問に亜子ちゃんが首を振る。


「いえ。実は文芸部のチョコとは別に、結城先輩に渡そうと思っていたものなんです。いつもお世話になっていますから個人的にお礼をしようと。

 だから結城先輩さえよろしければということになりますが……」


 結城先輩はわずかに迷ったようだが、すぐに返事をした。


「くれる当人である北条がそう言うなら、俺に異論はないが」


「ダメに決まってるでしょ! あんたもさっき言ったことを覆すんじゃないわよ。 ちゃんと持って帰って食べなさい!」


 早苗先輩が決然とそれに反対する。

 そこからしばらくのあいだ、三人による押し問答になった。

 わたしはといえば黙ってそれを見ていた。

 罪悪感から参加できなかったのだ。


 実はわたしもチョコを持ってきている。

 それは亜子ちゃんと同じように結城先輩に渡すためのチョコだ。ずっと機会を伺っていたのもそのためだ。

 だからこのタイミングで亜子ちゃんといっしょにチョコを出してもよかった。

 そうしなかったのは結城先輩だけに食べてほしいからだ。

 わたしのチョコはお世話になっているお礼などではない。結城先輩にはバレンタイン本来の意味で受け取ってほしい。

 だからわたしは言葉を発することもできずに、目の前のやり取りを見ていることしかできなかった。


 結局、人数差によるものか折れたのは早苗先輩だった。

 亜子ちゃんがラッピングを解いた箱を持って、まずは結城先輩に薦める。


「結城先輩は甘い物があまりお好きじゃないですから、ビターチョコにしてみました」


 結城先輩がひとつを手に取り口に入れる。


「ああ、これはたしかに俺の好みだな。ありがとう、北条」


 亜子ちゃんはそれに微笑むと、早苗先輩へと薦め、そしてわたしの前にも箱を差し出してくれる。


「はい、瑞希ちゃん」


 わたしは亜子ちゃんと目を合わせることができずに、消えそうな声でお礼を言ってひとつをつまんだ。

 口の中にビターな味が広がる。

 だけどその苦みはチョコのせいではないような気がした。


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