第81話【2月14日その2】ホワイトデーのお返しは


 亜子ちゃんが分けてくれたチョコを食べていると、結城先輩がラッピングの紙を丁寧に畳んでいる亜子ちゃんの方を向いた。


「北条。ホワイトデーのお返しのリクエストがあれば聞いておくぞ」


 亜子ちゃんは慌てたように手を振る。


「いえっ! こうしてみんなで食べていますから、個人の分はいりません」


「それじゃあ、ゴディバの分は何か希望があるか?」


 これは亜子ちゃんだけでなく、みんなに尋ねているようだ。

 しかし、わたしと早苗先輩が黙っているので、少し困ったようにしながら亜子ちゃんが代表して答える。


「特にありません。お任せします」


 結城先輩がそれに頷くと、早苗先輩が何かを思い出したように口を開いた。


「そういえば去年さ、ホワイトデーに修羅場があったんだよね」


 修羅場とは不穏だ。

 わたしたちは早苗先輩を見る。


「あたしのクラスに周囲公認のカップルがいたのよ。彼女はバレンタインにチョコを贈って、彼氏は当然そのお返しをホワイトデーに渡したわけ。

 それでさ、ホワイトデーのお返しって法則があるじゃない」


「ええと『クッキーが友達でいよう』『キャンディが好き』『マシュマロが嫌い』というものでしょうか?」


 亜子ちゃんが丁寧に補足をしてくれる。


「そう、それ。ところがさ、彼氏は彼女へのお返しにクッキーを寄越したのよ。そいつはさらに、義理チョコでブラックサンダーをばら撒いていた女子に、キャンディを渡したんだよね」


 ブラックサンダーは安くてボリュームがあるチョコ菓子で、最近では義理チョコの代名詞としても市民権を得ている。

 それはともかく修羅場になるのも頷ける。その彼氏さんの意図はなんだろう? 


「彼女は泣きじゃくって、ブラックサンダーの子は必死に否定して、その他の女子は彼氏に詰め寄ってさ。朝のことだったんだけど収拾がつかないうちに一限が始まって、授業中すっごい変な空気だったわよ」


 あまり想像したくないが、目に浮かぶようだ。


「それで一限後の休み時間に尋問が再開したんだけど、彼氏は誤解だっていうのよ。どういうことかと詳しく聞くと、彼氏の地元ではクッキーが本命へのお返しで、キャンディが友達なんだって。

 クラスのみんなが疑う中、彼氏が教室を飛び出していってさ。他のクラスから同中の生徒を連れてきて、その説明でようやく納得したってわけ」


「そういう話は夏にしてくれ。下手な怪談よりよっぽど怖いぞ」


 結城先輩の言葉は冗談でもないらしい。顔がひきつっていた。

 たしかに男性からすると笑えない話だ。

 そもそもホワイトデーのお返しの法則は絶対的なものではない。それなのに吊し上げをされたら、たまったものではないだろう。


 そんな会話をしたあと、少し早いが今日はあがろうということになった。

 なにしろ来週からは学年末テストだ。

 みんなで一階まで下りると、そこで先輩たちと別れた。

 一年生と二年生では昇降口が別だ。

 わたしの乗る私鉄の駅と、結城先輩の乗るJRの駅は反対方向だし、使っている校門も違う。

 つまり今日中に結城先輩と会うことはもうない。


 わたしは遠ざかる結城先輩の背中を見送ってため息をついた。

 結局チョコは渡せなかった。

 こんなことならあの時、亜子ちゃんといっしょに渡せばよかったのだ。

 気持ちの整理できずに、のろのろと靴へと履き替えて外へと出る。

 すると亜子ちゃんがこちらを見て待っていたので、慌てて駆け寄った。


「ごめん。さあ、帰ろっか」


 しかし亜子ちゃんは歩き出さずに、わたしを見つめたままだ。

 どうしたのかと思って振り向く。


「渡さなくていいの?」


 亜子ちゃんの言葉にわたしは固まった。

 何をとは言っていないが、チョコのことだというのは明白だ。

 わたしが結城先輩にチョコを渡そうとしていたことを、亜子ちゃんは気づいていたらしい。

 いや――それだけじゃない。

 亜子ちゃんの表情は優しい。だけど目は真剣で、わたしに訴えかけていた。


 その目を見てわかった。

 ああ、亜子ちゃんは知っていたのだと。

 わたしが結城先輩のことを好きだということを。

 いったい、いつからだろう?

 にぶいわたしと違って、ずっと前から気づいていたのかもしれない。

 しかし亜子ちゃんは詮索することをせずに見守っていてくれたのだ。

 そして、このままだとわたしが後悔するとわかったこの瞬間には、背中を押してくれている。


「今ならまだ追いつけるよ」


 微笑む亜子ちゃんを見て泣きそうになった。

 霧乃宮高校に入って良かったことはいっぱいある。そのひとつは間違いなく、この優しく思いやりにあふれた少女と友人になれたことだ。


「亜子ちゃん、ありがとう。わたし行ってくる! 先に帰ってて」


 亜子ちゃんとすれ違うようにして駆け出した。


「頑張ってね!」


 その言葉に足は止めず、顔だけ振り返って大きく頷いた。



 わたしは結城先輩を追って裏門へと走った。

 先輩は歩くのも速いだろうが、JRの駅までは距離もあるし抜け道があるような道筋でもない。追いつくことは十分可能だろう。

 そう考えて裏門から飛び出したわたしは、慌てて門の中へと引き返した。

 思いがけないほど近いところに結城先輩の長身が見えたのだ。

 そしてその隣には自転車を押して歩く女子生徒の姿。こちらも見間違うわけはない。早苗先輩だ。


 わたしは門の陰に隠れて考えた。

 先輩たちがいっしょに下校するのは自然なことだろうか?

 早苗先輩の家がどこなのかは正確には知らない。だが市内なのは間違いがないから、駅へ向かう途中までいっしょに帰るというのはありえる。

 となると次の問題は、それが今日という日――バレンタインデーだからなのかだ。


 結城先輩と早苗先輩は付き合ったりはしていない――と思う。

 ただ早苗先輩が結城先輩のことを好きなのも間違いない――と思う。

 となるとバレンタインのチョコを渡すのをきっかけに、告白しようというのはありえる。

 わたしは門の陰から二人を覗き見た。


 早苗先輩に緊張している様子はなく、これから告白という感じはしなかった。

 また恋人同士のような雰囲気もない。要するに普段の部活での様子とまったく変わらない。

 とりあえず安堵の息をつく。

 しかしずっとここにいるわけにもいかない。このままでは先輩たちは行ってしまう。

 わたしは十分な距離を取って、二人のあとを付いて行くことにした。


 物陰に隠れながら思う。これではまるっきり尾行だ。

 ミステリ好きの早苗先輩なら楽しいのかもしれないが、わたしは緊張で胃が痛い。

 鋭い先輩たちでもまさか尾行されているとは思わないようで、後ろを振り返るようなことがないのは幸いだった。

 盗み見をしている罪悪感はあるが、これは考えないようにする。


 先輩たちは大通りに出てからも、並んで歩きながら話をしている。

 その姿があまりにも自然なので、別の疑念が浮かんできた。

 これは日常的なことなのだろうか?

 先輩たちから二人で下校していると聞いたことはない。

 しかしそう考えると腑に落ちることがあった。


 たとえば読み合いや、文集制作に関する詳細についてだ。

 わたしと亜子ちゃんに説明する時に、先輩たちはお互いにその内容を完璧に把握していた。

 他にも結城先輩は早苗先輩からミステリをよく借りているらしいが、図書準備室でそういったやり取りを見たことがない。

 よく考えるとこれは不思議なことだ。

 先輩たちはクラスが違うし、結城先輩は文芸部のグループLINEにすら顔を出さないから、スマホでやりとりをしているとも考えられない。

 それではいつそういった話をしているのか?

 それがこの下校時と考えれば辻褄が合う。


 わかると同時に早苗先輩ズルいなあと思ってしまう。結城先輩と二人だけの時間を毎日持っていたなんて。

 単なる嫉妬なのだが、それが素直な気持ちだった。

 先輩たちは初詣に訪れた神社の前を通り過ぎ、夕闇の迫る街並みを歩き続ける。

 わたしは物陰から物陰へと隠れながら、そのあとを付いていく。

 結局、早苗先輩が途中で別れることはなく駅に着いてしまった。


 バスロータリーの手前で、先輩たちは立ち止まって話し続ける。

 わたしは複合ビルの陰からそれを覗き見ていた。脇を通り過ぎるサラリーマンに不審な表情を向けられて、心の中で「事情があるんです」と言い訳をする。

 しばらくすると早苗先輩が鞄から何かを取り出した。

 あれはどう見てもバレンタインのチョコだ。早苗先輩も個人的に結城先輩に渡す分を用意していたらしい。


 結城先輩がそれを受け取りながら何かを言ったようだ。

 それに反応して早苗先輩が大きな声を出し、微かにだがここまで聞こえてくる。

 結城先輩は笑っていて、反対に早苗先輩は怒っているが、それもすぐに落ち着いた。

 さらに二言三言交わすと、早苗先輩が自転車に乗って走りだした。

 結城先輩はそれを見送るとスマホを取り出す。どうやら時間を確認したらしい。すぐにペデストリアンデッキの階段を軽やかに上りだした。


 わたしは虚を突かれて呆然とそれを眺めていたが、慌てて駆け出した。

 もし電車の時間が迫っているのだとするとまずい。

 結城先輩の足にわたしが追い付けるわけがないのだ。

 体育の授業でも出したことがないほどの全力で歩道を走り、一気に階段を駆け上がる。

 しかし上部デッキにたどり着いて見渡すと、結城先輩はすでに駅ビル構内に入りかけていた。


 さすがに周囲に人がいる状況で、大声で呼び止めるのは恥ずかしい。

 わたしは「待ってください」と心で念じて再び走り出した。

 するとそれが通じたのか、それとも何かの気配を感じたのか、結城先輩がふいに振り返った。

 距離は遠いが、目が合ったのがわかる。

 結城先輩は足を止めると、通行の邪魔にならないようにデッキの端に寄った。


 わたしも走るスピードを緩める。

 しかし困った。

 追いつくことはできたが、その後のことをまるで考えていなかったのだ。呼吸を落ち着けようとしながら、残りの距離をゆっくりと走る。

 そうして結城先輩の元に到着したのだが、今度はその目をまともに見られない。

 先輩は少し驚いた顔はしていたものの「どうした?」とは聞いてこなかった。

 頭の良い先輩のことだ、わたしがなぜ追ってきたのかわかったのだろう。


 目的がバレているのなら、あとは勢いだ。

 わたしは鞄を開けてラッピングされたチョコを取り出したが、勢いあまってそれを落としてしまった。

 慌てて拾いあげたが、角がへこんでしまっている。

 自分の要領の悪さが本当に嫌になった。思わず泣きそうになる。

 すると脇を通り過ぎる他校の女子生徒三人組の話し声が聞こえてきた。


「あれって振られたのかな?」「なに、修羅場!?」「ていうかあの制服って霧高じゃん」「頭の良い連中でもバレンタインなんてやるんだね」


 わたしは羞恥と怒りで耳の先まで真っ赤になった。

 偏差値が高い人間には恋愛感情がないとでも思っているのだろうか。

 思わず言い返そうと顔を上げたわたしは一気に冷静になった。

 結城先輩が真っ直ぐにわたしを見つめていたからだ。

 先輩にだって彼女たちの言葉は耳に入ったはずだが、それを気にしている様子はまったくない。

 まるでこの世界にわたしたちしかいないように。

 わたしは自然にチョコを差し出していた。


「バレンタインのチョコです。お世話になっているお礼とかじゃなくて、いえ、お世話にはなっているのですが、要するに義理チョコじゃなくって、ええと、手作りではないですけど、気持ちはこもっています。だから、つまり、バレンタイン本来の意味で受け取って欲しいんです!」


 支離滅裂な口上になったが、たぶん伝わったと思う。

 それが証拠に結城先輩はしっかりと受け取ってくれた。


「ありがとう、有村」


 その言葉に顔を上げて結城先輩と目が合い、わたしは思わず声をあげた。

 それはいつも見ているあの写真の目だった。

 優しく見守るような瞳でわたしを見ている目。

 それに気づいた瞬間、再びわたしは真っ赤になった。


「それじゃあ失礼します!」


 勢いよく踵を返して走り出す。

 しかし三歩も行かないうちに呼び止められた。


「有村、待った」


 ぎこちなく振り返るわたしに、結城先輩が尋ねてくる。


「ホワイトデーのお返しの法則、有村の地元ではどうだった?」


 一瞬、何を聞かれたかわからずに目をしばたく。


「えっと、一般的なやつでした」


「わかった。危ないから走らないで帰るんだぞ」


「はい。失礼します」


 わたしはお辞儀をすると、走りこそしなかったが早足でその場を後にする。

 そして帰り道で考えた。

 結城先輩の最後の質問、あれはどういう意味だろう?

 普通に考えれば、早苗先輩の話にあったような食い違いがないようにだ。

 しかし、それをわざわざ確認することに深い意味はないだろうか?

 ひょっとして――。

 わたしは頭をぶんぶんと振ってその考えを追い払った。

 下手な期待をするのはよそう。

 今日のところは自分の気持ちを伝えられたことに満足すればいい。

 わたしは群青色の空を見上げながら、自分にそう言い聞かせた。


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