第69話【12月12日その1】部活動予算交渉


 二人しかいない小会議室は静かだった。

 グラウンドでは野球部がノックでもしているのだろう。掛け声と共に金属バットがボールを打つ小気味よい音が微かに聞こえてくる。

 わたしは手元の書類から顔を上げて、正面に座る男子生徒を見た。

 彼はわたしと目が合うと慌てて視線を逸らす。

 緊張しているというよりまるで怯えているようだ。

 どうやらあの噂は本当らしい。わたしは気づかれないように、そっとため息をついた。


 ◇


 先月、わたしは文芸部の部長に就任した。

 今でも何かの冗談だと思うし、自分が大任を果たせるという自信がない。

 それでも文芸部のみんなが、わたしならできると推薦してくれたのだ。やれるだけのことはやろうと思っている。

 その最初の仕事が生徒会執行部との予算折衝だった。


 期末テストが終わって十二月に入るとすぐ、文芸部の順番がまわってきた。

 新部長を決める時の話し合いでは、提示された予算に了承するだけでいいと言われていたのだが、わたしは考えがあって予算の増額を申請した。

 名目は夏休みの合宿費である。


 今年の夏合宿は思い出に残る、とても有意義なものだったと思う。個人的には是非とも来年もやりたい。

 しかし今年と同じように、亜子ちゃんの家にお世話になるというわけにはいかない。新入部員で人数が増えることも考えると、宿泊施設を借りる必要が出てくるだろう。


 概算は交通費や食費などを除いた純粋な宿代だけにした。

 そしていざ交渉に挑んだのだが、やり直しを申し渡されてしまった。理由として、合宿が必要だという意義が不明瞭だという。

 わたしはその場で口頭で説明しようとしたが止められた。

 予算委員会に回された場合、書面で確認をするのだから記述で説明がされていないと駄目だという。

 もっともな理由だし、そもそも一回で通ることは少ないと聞いていたので気落ちはしなかった。


 わたしは持ち帰った書類を、今年の合宿を思い返して書き直した。

 部員と寝食をともにすることで、学校生活では気づかなかった新たな一面がわかること。

 得がたい経験をすることで創作において役に立つこと。

 部の結束が固まり、困難に対して一丸となって対処できるようになったこと。

 来年の新入部員にもそういった体験をさせてあげたいこと。


 それらをできるだけシンプルに書いた。

 同情を誘ったり、大袈裟な言い回しはしないようにと、結城先輩からアドバイスを受けていたのだ。

 そして二度目の交渉の席で、わたしの前に座った生徒会長さんは書面から顔を上げて頷いた。


「問題ない、というより素晴らしい。お手本になるような書式で、他の部にも見習わせたいぐらいだ。さすが文芸部」


 思わぬ称賛に、わたしは恐縮して頭を下げた。


「その上で言うのだけれど、できればこれを取り下げて欲しい」


 びっくりして会長さんを見つめた。

 いかにも頭の切れそうな男子生徒である。それだけでなく組織を率いるカリスマ性を感じさせる人だった。

 その隣には才色兼備という言葉がぴったりの副会長さんが座っている。

 霧乃宮高校の女子生徒は、美人でも知が先に立つタイプが多いのだが、この人は雰囲気が柔らかい。

 生徒会室の隣にある小会議室にいるのは、わたしたち三人だけだった。


「文芸部になにか問題があると言うことでしょうか?」

「いや、なにも問題はないよ」


 わたしの質問に答えると、会長さんは間を置くように眼鏡を外して眉間を揉む。

 しばらくして眼鏡をかけ直すと、長机の上で指を組んだ。


「有村さんは部活動予算の分配方法についてはどのくらい知っているかな?」


 わたしはまったく知らないということを正直に告げる。


「それじゃあ説明をしよう。まず学校から来年度の部活動全体予算が生徒会執行部に告げられる。それを執行部が各部活に割り振り、それに不満がある場合はこうやって交渉をするわけだ。

 つまり全体の金額はあらかじめ決まっている。増額分を学校に要求するのではなく、どこかの部の予算が増えれば他の部を減らす。そうやって調整をしているんだ。

 どうやっても足りなかったり、生徒会の手には負えない領域――たとえば新しい設備を造るといったようなことは学校に相談するけどね」


 会長さんはそこで言葉を切ると、鋭い眼つきでわたしを見つめてきた。


「これは生徒会長としてではなく、僕個人の意見ということで聞いて欲しい。

 うちは公立だ、はっきり言って予算は少ない。運動部や一部の文化系部活は、自前の用具はもちろん、消耗品なども持ち出しでやっている。大会や練習試合などの遠征費も、近場の電車移動なら当然自腹だ。

 部費のほとんどは器具や備品を新調したり、練習環境を整備したりすることで消えてしまうんだよ。

 君に恨まれるのを承知で言うと、文芸部の合宿費というのはそれらに比べると優先度が低いというのが僕の見解だ。部員同士の交友を深めることは、合宿をしなくてもできるんじゃないか、そう思っている。

 生徒会長としてはどの部に対しても平等でなくてはならない。だから個人としてお願いをする。できればこの新規活動予定案を取り下げてほしい」


 わたしも生徒会長さんを見つめ返した。

 生徒会選挙は六月の初めだった。だが情けないことにわたしは誰に投票したのか覚えていない。

 覚えているのは結城先輩が立候補しないことを残念に思ったことぐらいだ。

 わたしを見つめてくるこの人は、さすが霧乃宮高校の生徒会長になるだけのことはあると思う。

 文句なしに優秀で、そして霧高のことを、生徒みんなのことを真剣に考えている。


「わかりました」


 そう返事をした。

 実を言えば本気で予算増額を考えてはいなかった。わたしの目的は予算折衝とはどういうものかを経験しておくことだ。

 そうすれば来年以降、後輩にそれを伝えることができる。要領の悪いわたしには自分が経験したことでないと教えることができないのだ。


 わたしの返事を聞くと、会長さんは目を丸くして固まっている。

 提案があっさりと受け入れられたことに驚いているらしい。

 呆然としている会長さんに代わって、副会長さんが優しい声で尋ねてくる。


「会長はこう言ったけど強制力は何もないのよ。この書式はしっかりしているし、要求額だって多くない。このまま予算委員会に回せば承認されると思うけど本当にいいの?」


「はい、構いません」


 会長さんと副会長さんは顔を見合わせている。

 もちろん取り下げ要求が理不尽なものだったらわたしだって抵抗した。しかし会長さんが言ったことは十分に納得できるものだ。


「お時間を取らせて申し訳ありませんでした」


 わたしは深々と頭を下げて小会議室をあとにした。




 こうして文芸部の予算折衝は終わったのだが、次の日の昼休みにクラスの男子に声をかけられた。


「有村って文芸部の部長なのか?」


 わたしが頷くと、その男子が「合ってるぞ」と言いながら手招きをする。

 それに導かれるように教室に入って来たのは、他のクラスの長身男子だった。

 彼は挨拶をするとバスケ部の新部長だと名乗る。話の内容は予算委員会でのバスケ部の予算増額案に賛成して欲しいとのこと。これが結城先輩から聞いていた事前の根回しというやつだろう。

 わたしは新規活動予定案と概算書を見せてくれるように頼んだ。

 ところがそれを聞いて彼はびっくりしたようにわたしを見る。


「持ってきてないよ。そんなこと言われるの初めてだし……」


 わたしもそれを聞いて驚いてしまう。どんなことに予算を使うのかわからなければ賛成のしようがない。他の部はどうしているのだろう?

 彼が慌てて取ってくるというのを引き留めた。


「質問したいこともあるだろうから放課後に時間を作ってくれないかな? なるべくすぐに終わらせるから」


 彼は戸惑いつつも頷いてくれた。

 そして放課後にわたしは彼から説明を聞いて、予算委員会での賛成を了承した。

 わたしはその日の部活で、結城先輩はどうしていたのかを尋ねた。


「俺は二つ返事でOKをしていたな。他の部長もそうだろう。執行部が承認したのだから問題がないという判断だ」


 わたしはそれを聞いて自分は余計なことをしたと落ち込んだ。

 すると結城先輩が、いつになく真剣な表情と強い声で語りだす。


「落ち込む必要なんかない、俺が間違っていて有村が正しいんだ。二つ返事をしていたのは、単に面倒くさがっていただけだ。執行部うんぬんは言い訳にすぎない。

 これからの面談で不快な態度を取られるかもしれないが、気にする必要はない。何か言われたら俺に振っていい、というより俺も同席したほうがいいか?」


 わたしはその申し出を慌てて断った。

 その言葉だけで十分だった。結城先輩を煩わせる必要はない。



 そして次の日から続々と根回し相談を受けることになったが、わたしはそのすべてを詳細に確認していった。

 あからさまに文句を言われることはなかったが、ほとんどの相手は不機嫌であり、面倒くさそうだった。

 結城先輩の言葉がなかったら挫けていたかもしれない。


 風向きが変わったのは今週に入ってからだ、昼休みにあの柔らかい雰囲気の副会長さんの訪問をうけたのだ。

 わたしがやっている面談を小会議室でやったらどうかという。

 執行部の承認が済んだ部にそのまま残ってもらい、わたしがその後に続けて面談をする。各部長にしてみれば手間が省けるというわけだ。


 執行部がわたしのやっていることを知っていたことにも驚いたが、そこまで便宜をはかってくれることにも驚いた。

 去り際に副会長さんは「頑張ってね」と応援までしてくれた。

 そしてその日から、面談相手の態度があきらかに変化してきた。神妙というか、こちらを窺っている感じがする。それはそれでやりづらかったのだけど。



 そして今日の休み時間、とんでもない噂を聞かされたのだ。


「ねえ、瑞希って部活動予算の最終決定者ってホント?」


 笑いながら尋ねてきたのは、文化祭の時から仲良くなった一ノ瀬さんだ。

 わたしは思わず持っていた教科書を落としてしまった。


「はあっ!? なにそれ!?」


「一部では凄い噂だよ。執行部に承認されても瑞希の審査を通らないと駄目だって。その容赦の無さにこれからの部は戦々恐々としているみたいよ」


 わたしは言葉も出ない。

 一ノ瀬さんが笑っているのはわたし本人を知っていて、それがありえないことだとわかっているからだ。

 しかし他の人はどうだろう。わたしは不安になった。


 ◇


 そしてその不安は的中した。

 目の前に座る男子は、わたしのことを閻魔様かなにかと思っているらしい。

 当たり前だがわたしには何の権限もないのに……。

 ため息を隠しつつ、わたしは再び手元の書類に目を移した。


 彼との面談は少し長くなった。コンピューター研究会なのだが専門用語が多く、門外漢のわたしにはそれがどういう意味なのか、いちいち確認しないと理解できなかったのだ。

 わたしが賛成の了承をした時には、彼はあからさまにほっとしていた。

 手間をかけさせたことを詫びると彼は笑って手を振る。


「いや、もっと厳しいことを言われると思っていたから拍子抜けしたよ。理不尽な理由で反対されるとも聞かされていたしね」


「それは根も葉もない噂です」


 わたしは再びため息をついた。

 彼といっしょに小会議室を出てそこで別れる。

 どうにも変な状況になっているが、自分で決めたことだ誰にも文句は言えない。

 わたしは気合を入れ直すのだった。


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