第58話【9月28日その9】待ち人来たる


「すみません、お待たせしました」


 わたしが文芸部へ息を切らしながら戻ると、結城先輩が変わらぬ姿で本を読んでいた。ただ手にしている本は文庫に変わっている。朝に読んでいた『Iの悲劇』は読み終えてしまったらしい。


「おかえり、早かったな」


 いや、全然早くない。四十分は遅刻している。

 どうやら本の世界に没頭して、時間の経過がわかっていないようだ。


「交代しますから、まずは早苗先輩の劇を見に行ってください」


 早苗先輩の最終出演会がもうすぐなのだ。

 ところが結城先輩は気の乗らない表情を浮かべる。


「そう言うけどな、鈴木は俺に絶対に来るなって言ってたぞ」

「本当にそう思っているわけないじゃないですか」


 思わず心底呆れたという声が出てしまう。


「熱湯風呂だって「絶対押すなよ」って言ったら押せって意味じゃないですか。あれと同じですよ」

「……芸人の振りといっしょにするのはどうかと思うぞ」

「いっしょです!」


 わたしは断言する。それがなんであれ、早苗先輩が結城先輩に気にかけてもらえて嬉しくないはずがない。

 そもそも先輩だって朝に「どちらかが生き残るなら理論」で、わたしを強引に送り出したのだ。人の屁理屈に文句は言えないと思う。

 それでも結城先輩は腰を上げようとせずに、本の続きを読もうとする。

 わたしは屈んで本に顔を寄せると、下から先輩を睨んだ。


「いい加減にしないと温厚なわたしでも怒りますよ」

「自分で温厚って言うのはどうなんだ?」


 それを無視してわたしは睨み続ける。

 結城先輩は「わかったよ」と言って立ち上がると、本を手に歩き出そうとした。

 わたしはその腕をつかむと反対側の手を差し出す。


「……なんだ、この手は?」

「本は預かります」


 結城先輩は鼻白んだようにわたしを見た。


「なんの権利があって?」

「権利なんて知りませんよ。わたしはお願いしているんじゃありません、命令しているんです」


 結城先輩が無表情でわたしを睨んだ。

 わたしも真っ向から睨み返す。漫画だとバチバチという擬音が入るシーンだろう。

 しばらくそれが続いたが、根負けしたのは先輩のほうだった。

 芝居がかった大きなため息を吐くと、わたしの手の平に文庫本を叩きつける。


「入部してきた当時は可愛かったんだけどな」

「それは半年経って、可愛いから美しいに変わったという意味ですね」


 当てこすりに、わたしはにっこり笑って返す。

 結城先輩はしばらくわたしを睨んでいたが、力が抜けたように笑った。

 よかった。内心ではやり過ぎたかとびくびくしていたのだ。


「逞しくなってくれて、先輩として嬉しいよ」

「その先輩の教えが良いですから」


 結城先輩は肩をすくめると歩き出した。

 わたしはその背中に声をかける。


「閉会まで戻ってきたらダメですからね。まずは早苗先輩の劇ですよ。ちゃんと見たかどうか、あとで感想を聞きますからね」


 まるで小学生に注意する母親みたいだなと思った。

 結城先輩は振り返らずに、後ろ姿のまま手を振って返事の代わりにした。

 わたしはやれやれとため息をつくと椅子に座った。



 ここは平和だった。

 先程まで人混みの中で忙しく働いていたから、周囲に誰もいないこの静けさが心地いい。

 まったくの無音というわけでもなく、文化祭の喧噪が微かに聞こえるのも良かった。世界から切り離されている疎外感はせず、安全な隠れ家にいるような気がする。

 これなら読書が捗るのもわかる。結城先輩がここから離れたくないわけだ。

 星霜の在庫を確認すると残り五冊だった。つまり十七冊売れたことになる。

 残り時間的に完売は難しいかもしれないが、満足できる結果だろう。


 わたしが漫画研究会で買った部誌を読みながら店番をしていると、お馴染みとなったハーモニーが聴こえてきた。アカペラ同好会さんだ。

 第二体育館でのステージが終わったあとも、アピールのために歌っているのだろう。いや、純粋に歌うのが楽しいのかもしれない。


 この曲はわたしもよく知っている。ここ一年ずっと歌われている『パプリカ』だ。

 オリジナルの子供たちの歌声も良かったし、作詞・作曲者である米津玄師のセルフカバーも味わい深かった。

 でもアカペラ同好会さんのハーモニーも負けていない。とても素敵だ。

 わたしはサビの部分をいっしょになって口ずさむ。

 そんなことをしていたために、すぐ近くに人が来ていることに気がつかなかった。


 慌てて口を閉じたが、間違いなく聞かれていただろう。顔が赤くなる。

 もっとも向こうは特に気にしていない様子だ。静かな佇まいの女性だった。

 V字シャツと細めのスラックスというシックな装いで大人っぽく感じたが、顔を見るとわたしとそこまで変わらないのかもしれない。


 その女性は足音を立てることなく近づいてくると、目の前で立ち止まり星霜を手に取った。反対の手にはいつの間に取り出したのか硬貨を持って、それをこちらに差し出している。

 あまりに自然でいきなりのことだったので反応が遅れた。

 わたしはようやく相手がお客さんなのだと気づいて、慌てて硬貨を受け取る。


「あ、ありがとうございます」


 彼女はそれには何の反応も見せずに、そのまま買った星霜を開く。

 わたしはそれを見て既視感デジャヴを覚えた。

 でも、いつこんな体験をしただろう? 店番なんて初めてなのに。

 必死に思い出そうとしていると、天啓が降りるようにそれに気づいた。

 わたしの体験ではない、聞いたことがあるのだ。

 結城先輩が話した一年前の文化祭での出来事を。


 わたしは目の前の女性を見つめる。

 結城先輩は彼女をどう評したのだったか。

 たしか「陶芸家のような腕の良い職人みたいな、何かしら秀でたものを持っている雰囲気がある」そう語っていた。

 なるほど、さすがの表現力だと思う。言い得て妙だ。

 ならばこの人が文芸部の先輩――遠野司さんなのだ。


 わたしはまじまじと彼女を見た。

 正直にいって美人というわけではない、平凡な顔立ちだ。しかしその理知的な眼差しには惹き付けられるものがある。それだけで綺麗な人だという印象を受けた。

 遠野先輩はわたしの視線を気にする様子もなく、静かにページを繰っている。

 わたしは急激に緊張してきた。

 あの遠野先輩に、わたしの小説を読まれているのだ。


 わたしは何も手につかず、背筋を伸ばしてじっと座っていた。

 どのくらいの時間が経ったのか。遠野先輩は星霜を閉じると、来た時と同じように足音を立てずに離れて行く。

 言葉を交わすことはもちろん、視線を合わせることもなかった。

 その背中を見て焦った。

 このままだと彼女は行ってしまう。

 わたしは思わず立ち上がって声をかけた。


「あのっ!」


 遠野先輩は立ち止まるとゆっくりと振り返る。


「遠野先輩……ですよね?」


 しかし彼女は何の反応も表さなかった。

 頷くでもなければ首を振るでもない、もちろん何も話さない。

 人違いであるとは思えなかったが、わたしのほうでも続ける言葉が思い浮かばなかった。彼女に会ったら聞いてみたいこと、言いたいことがたくさんあったはずなのに。

 そのまま時間だけが過ぎてわたしが失礼を謝ろうとした時、彼女が囁くような声を出した。


「ごめんなさい」


 わたしは驚いて遠野先輩を見つめる。


「――そう、伝えてくれる?」


 そう言うと頷くように頭を下げて、遠野先輩は歩き出す。

 わたしは黙ってそれを見送った。

 色々な考えが渦巻いて、動くことも言葉を発することもできなかったのだ。


 わたしは脱力したように椅子に座り込んだ。

 遠野先輩は謝罪を口にしたし、それを伝えてくれと頼んだ。

 その相手は先輩たちしか考えられない。少なくともわたしがその相手でないことはわかっていた。

 彼女はやっぱり早期に引退したことを後悔しているのだろう。

 先輩たちに早くこのことを伝えたいと思った。


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