第49話【9月27日】『未来の君が優しかったように、過去の僕もそうありたい(下)』


 僕がその異変に気づいたのは夏が半分を過ぎてしばらく経った頃だった。

 その日も朝から暑くて、空には白く大きな入道雲が見えた。

 僕たちはいつもの川で遊んでいた。

 水の中に吊るした篭を沈め、そこに果物や飲み物を入れて冷やしている。

 休憩しようと彼女がそれを引き上げた時だ。僕はそれに気づいて、思わず彼女の腕をつかんだ。

 声も出せずにそれをじっと見つめる。

 これはどういうことだろう?

 僕の頭の中にはいろんな考えが渦巻いていた。

 どのぐらいのあいだ、そうやって考えに沈んでいたのか。

「どうしたの?」

 彼女の声に僕は我に返った。

 僕がずっと腕を取っていたからだろう、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめていた。

「……ううん。日焼けを見ていただけだよ」

 僕の言葉に彼女は自分の腕を見る。そしてはにかんだように笑った。

 それに微笑み返したが、僕は混乱していた。

 その後もずっと考えていた。

 なぜ彼女の日焼けが薄くなっているのだろう?


 それでも彼女との楽しい夏は続いた。

 二人でいろんな場所へ行って、思いきり遊んだ。

 しかしそうやって楽しい時間を過ごしている最中に、僕は彼女の腕を盗み見ることが増えた。

 そして日焼けが徐々に薄くなっていることを確認して不安になった。

 さらに彼女との会話が噛み合わないことが増えた。覚えていて当然のことを彼女が忘れていたりするのだ。

 そんな時は曖昧な笑顔を浮かべて、僕が勘違いしていたと謝る。

 僕の頭の中には信じたくないひとつの考えがあった。

 だから会った時に、彼女のほうから遊びに行こうと誘ってくれるとほっとした。

 大丈夫だ、自分の考えは間違っているのだと。そして僕は彼女を見て笑顔を作る。

 しかしある日を境に、彼女は遊びに誘ってこなくなった。

 僕はやっぱりそうなのかと絶望に襲われた。

 それでも待ち合わせ場所に走ってやってくる彼女を見ると、そして彼女が僕の名前を呼んでくれるのを聞くと、なんとかその絶望に耐えられた。

 そして僕は彼女に気づかれないように、無理にでも笑ってみせるのだ。


 遊びには行かなくなったが会えば話をしていた。

 木陰に座り日が暮れるまで夢中で喋る。

 家族や学校のこと。

 趣味や得意なこと。

 好きな物や嫌いな物。

 しかし僕にとってそれらはすべて知っていることだった。彼女のことならなんでも知っていた。

 けれども僕はそんなことをおくびにも出さずに、楽しそうに話す彼女の隣で微笑んでいた。

 しかしそんな風に彼女と話す時間は日が経つにつれて短くなっていき、同時に彼女の態度が少しずつ他人行儀になっていった。

 僕は泣きそうになるのをなんとか堪えて微笑み続けた。


 彼女はいつもの場所にくると、挨拶といっしょに僕の名前を呼んでくれる。

 それを聞くとほっとした。まだ大丈夫だと。

 しかしその日の彼女は、僕の名前を呼ぶ時に恥ずかしそうにしていた。まるで初めて呼んだように。

 僕たちは立ち止まって話をした。

 自分たちは同い年なこと。

 彼女が都会から引っ越してきたことなどを聞いた。


 次の日、彼女は挨拶だけをして僕の名前を呼んでくれなかった。

 僕は先に名乗ってから彼女の名前を尋ねた。

 彼女は照れたように名前を教えてくれた。何度聞いても彼女にふさわしい素敵な名前だと思った。

 その名前を聞くだけで、僕は幸せな気持ちになれる。

 僕は彼女に頼みごとをした。

「これからは名前で呼び合いたいんだ。挨拶する時にもいっしょに名前を呼んで欲しい。お願いだからそうしてくれないかな」

 彼女は頬を赤らめながらも頷いてくれた。

 僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女も恥ずかしそうに僕の名前を呼んでくれた。

 僕はそれを聞き逃さないように必死だった。

 彼女が僕の名前を呼んでくれることはそれが最後だとわかっていたからだ。

 涙が出そうになるのを目を瞑ってこらえた。


 それからも毎日、いつもの場所で彼女を待った。

 僕が挨拶をすれば、彼女も挨拶を返してくれる。だがそれだけだった。

 しかも日に日に彼女の態度がよそよそしくなるのがわかった。

 それでもなんとか笑顔でいようと努力はするが、それがどれだけ上手くいっていたのかはわからない。

 もう僕にはわかっていた。

 もうすぐ彼女と会えなくなるのだと。

 たまらなく寂しかった。

 どうしようもなく悲しかった。


 夏が終わりかけていた。

 いよいよ別れが迫っているのだと思うと苦しかった。

 またそれがいつのことなのかわからないのが不安だった。ひょっとしたら今日が最後の日かもしれないのだ。

 その日、僕は耐えられずに聞いてみた。僕のことを覚えているかと。

 彼女はもちろん覚えていると答えた。

 僕は安堵した。

 少なくとも明日もまた彼女に会えるのだ。


 次の日、彼女は視線を合わせようとせずに僕の横を通り過ぎようとした。

 その姿を見て僕は絶望に襲われた。

 それでもなんとか声を出して挨拶をする。

「こんにちは」

 彼女は少し躊躇いながらも挨拶を返してくれた。

「……こんにちは」

 彼女はこちらを警戒しているような、戸惑っているような感じだった。

 僕は昨日と同じように尋ねる。

「僕のことは覚えている?」

 彼女はきょとんとして目を瞬く。

 そして困惑した様子で返事をした。

「はい。昨日もここで会いましたよね」

 僕は力が抜けて倒れそうだった。大きく安堵の息を吐く。

 よかった、今日ではない。少なくとも明日もまた会えるのだ。

 しかしそんな僕に、彼女は決定的な言葉を口にした。

「昨日はごめんなさい、あのまま行ってしまって。でも初めて会ったのにそうじゃないみたいに言われて。どうしたらいいかわからなかったんです」

 僕は目の前が真っ暗になるのを感じた。

 世界から音が消えた。

 ついにその日がきたのだ。

 彼女に会えるのは明日が最後。

 僕は泣きたいのを必死に堪えた。こうなるとわかってから、絶対に泣かないと決めていたのだ。

 彼女を不安にさせるから。

 未来の彼女が悲しまないように、過去の僕は笑っていると決めたのだ。

 しかし笑顔でいるのは難しかった。

 僕はなにも言葉にできずに、ただ黙って立っていることしかできなかった。

 彼女はそんな僕に長いあいだ付き合ってそばにいてくれたが、さよならを言うとその場を立ち去った。



 夏も終わりだった。

 空は高く、涼しい風が吹いている。

 僕がいつもの場所で待っていると、向こうから彼女がやってきた。

 人形のように整った顔立ちに、艶のあるまっすぐ伸びた髪。その頭には大きな麦わら帽子をかぶっていて、白いワンピースが目に眩しい。

 そしてそこから覗く腕は白かった、ワンピースの白と同じぐらいに。

 やっぱり彼女は綺麗だと思った。

 そして見た瞬間に、僕が彼女に初めて会った日にも彼女がこの格好をしていたことを思い出した。

 もちろんそれは偶然ではないだろう。あの時の彼女は意図してそうしたのだ。

 僕は泣きそうになったが、無理やり笑顔を作った。

 彼女に悲しい顔は見せたくない。

 僕がずっと見ているからだろう、彼女は恥ずかしそうに足早に通り過ぎようとした。

「こんにちは」

 僕はなるべく驚かさないように優しく声をかけた。

 それでも彼女はびっくりしたようだが、そのまま行ってしまうことはなく立ち止まってくれた。

「こ、こんにちは」

 彼女は頬を赤らめながら返事をしてくれる。

 しかし彼女が僕を見るその表情は、あきらかに初対面の人間にたいするものだった。

 その瞬間、堪えてきたものが決壊しそうになった。

 彼女の記憶に僕はいないのだ。

「な、なんでしょうか?」

 沈黙に耐えきれなくなったように彼女が尋ねてくる。

「……やっぱり、僕のこと覚えていないんだね」

「え?」

 彼女は困惑の表情を浮かべた。

 僕は目に涙が溜まるのがわかった。だが泣かない。絶対に泣かないと決めたのだ。

 彼女はそんな僕を見て慌てたように答える。

「ごめんなさい。だけど、あなたにどこで会ったのか覚えていないの」

 その一言に僕の目から涙がひとしずくこぼれ落ちた。

 それでもそれ以上は泣かなかった。

 笑顔でいると決めたのだ。

 君を不安にさせないために。

 未来の君が過去の僕は笑っていたと思い出せるように。

 僕はこの夏のことを思い返した。

 未来の君は何も知らなかった僕に優しくしてくれた。

 だから僕も、君の過去で優しくあろうと決めたのだ。

「ごめんなさい。わたしはもう行きますね」

 彼女は申し訳なさそうにこちらを見る。

 僕の胸には悲しさと、喪失と、絶望が広がっていた。君に二度と会えない。それは世界の終わりといっしょだった。

 しかし僕はそれらの感情を無理やりに飲み込んで笑顔を作った。

 上手く笑えている自信はない。それでも微笑んだ。

 そして喉から声を絞り出した。

「ありがとう」

 すべてに感謝していた。

 君に出会えたことに。 

 この夏いっしょに過ごしてくれたことに。

 僕に優しくしてくれたことに。

 君は戸惑ったような表情を浮かべながらも、僕の言葉に小さく頷くと歩き始めた。

 僕は離れていく君の背中をずっと見つめていた。

 君も僕の視線には気づいているのだろうが振り返ることはなかった。

 僕が振り返らずにそのまま歩き続けたように。

 もう君に見られることがないとわかると、堰を切ったように涙が溢れてきた。

 僕は君に優しくできただろうか。

 未来の君がそうしてくれたように。

 僕は君のおかげでかけがえのない夏を過ごせた。

 これから君が夏を過ごしていくなかで、僅かでも僕と同じように感じてくれたら嬉しい。

 僕は彼女の姿が見えなくなるまでずっとそう願っていた。


                              〈了〉


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