第43話【9月11日その1】二人の原稿
「すみません。大変お待たせしました」
放課後の図書準備室。わたしは深々と頭を下げると原稿を机の上に置いた。
みんなの表情を見れば、心配してくれていたことがわかる。そしてあえて深刻にならないように、態度に出さないようにしていることも。
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
わたしは昨日、一昨日とLINEで連絡を入れて部活を休んでいた。これは入部してから初めてのことだ。
文集に寄稿する小説を完成させるために、一刻も早く帰宅して続きを書きたかったのだ。できれば学校も休みたいぐらいだったが、さすがにそれは思いとどまった。
そして今日、やっと提出することができた。本来の締め切りは月曜日だから二日遅れということになる。
「いいのか? 印刷所に入稿するぎりぎりまで待ってもいいし、いざとなったら割り増し料金を払って期限を延ばすことだってできるぞ」
結城先輩がそう言ってくれる。責める様子はまったくない。
「大丈夫です。妥協ではなく、今のわたしが書けるすべてを出せたと思います」
これは本心だ。妥協したくないからこそ、皆勤していた部活を休んでまで書いたのだ。そのおかげで自分としては良いものを書けたという自信もある。
「わかった。それじゃあ読ませてもらう」
結城先輩が原稿に手を伸ばすのを見て、わたしは息を吐いて目を瞑った。
図書準備室に紙をめくる音だけがしている。
誰も何も話さない。
静かな時間が流れたあと、原稿を揃える音がしてわたしは目を開けた。
正面には結城先輩の優しい表情があった。
「よく頑張ったな。完璧なボーイミーツガールだよ、素晴らしい出来だと思う」
思わず安堵のため息がでた。全身から力が抜けて椅子からずり落ちそうになる。
泣きたいはずなのに涙も出てこない。
今更ながらわたしはこの一ヶ月ほど、これ以上ないぐらい気を張っていたことに気がついた。
結城先輩から原稿を受け取った早苗先輩が続いて読み始める。亜子ちゃんも隣でそれを覗き込んでいる。
それを見て結城先輩が思い出したように口を開いた。
「おっと人のことは言えないな、俺もまだ提出していなかったんだ。じゃあ有村から読んでもらうか」
結城先輩は鞄を開けるとクリアファイルを取り出して、そこから原稿を抜き取った。そして付いていた付箋をさりげなく取り外して原稿をこちらへ渡す。
一瞬しか見えなかったが付箋には『リープ』と書いてあったように思う。
さらに気になったのは、クリアファイルの中には同じように付箋が付いた原稿が他にもあったことだ。
もっとも確証はない。結城先輩は一連の動作をわたしには隠すようにしていたからだ。
聞きたいことはあったがまずは原稿を読むべきだろう。わたしは結城先輩の作品に集中することにした。
主人公は小学四年生の男の子だった。
勉強ができず、体も小さい彼はいじめられていた。
ある雨の日の下校時、彼はこんな日々が早く過ぎ去ればよいのにと思いながら、目の前の水溜まりをジャンプして跳び越えた。
着地した瞬間に水溜まりは消え。地面は乾き、陽光が降り注いでいた。
それだけでなく手にしていた傘もない。
服も自分の物で間違いはないが、さっきまで着ていたのとは違う気がする。
彼は首を捻りつつも帰宅した。
テレビをつけてしばらくすると違う曜日の番組をやっていることに気がつく。
日付のあるデジタル時計を見て再び首を捻った。
彼の記憶の日付から三日後なのだ。
両親が仕事から帰宅したあとに、さりげなくこの三日間について聞いてみたが
何も変わったことはなかったという。
彼も自分の気のせいだと思うことにした。
次の日の給食には彼の嫌いな物が出た。食べられずにいるとクラスメイトがからかってきた。先生も残さず食べるようにと迫ってくる。
彼はあの時のことを思い出して、同じように時間が過ぎればいいのにと願った。
すると周囲は同じ教室、同じクラスメイトなのに、目の前の給食だけが彼の好きなメニューに変わっていた。
日付を聞いてみると五日後だった。
それから彼はこの時間跳躍の能力を存分に使うことにした。
いじめられたり嫌なことがあるとすぐに未来へと逃げた。
面倒くさい手伝いや、やりたくない宿題があった時にもそうした。
何度も使っているうちに法則がわかってきた。
日時の指定は無理だが、間隔はある程度コントロールできること。
基本的に場所は移動しないこと。
跳んだ間の記憶も必要最低限は持っていること。
たとえば席替えがあったにも関わらず自分の席がどこだかを知っていた。観ていないアニメのストーリーもなんとなくわかる。
授業がわからないのは元から勉強ができないせいだろう。
そうしてどんどん時間を跳んで彼は中学生になった。
しかしいじめはなくならなかったし、むしろ陰湿で暴力的になっていた。
時間を跳ぶ日々は続いて彼は中学二年の夏休みを迎えた。
長期休暇の間は安らげる。しかし二学期がくれば、またあの苦しい日々が始まるのだ。そう思うと彼の心は沈んだ。
いっそのことずっと未来に跳ぶのはどうだろうか?
大人になればさすがにいじめられたりはしていないだろう。
それは良い考えに思えた。ならば何歳がよいだろう?
働くのはちょっと嫌だった。となると大学生がいいかもしれない。二十歳なら成人でお酒も飲める。
彼は自分の部屋を見渡した。
今の世界にまったく未練がないわけではないが、かといって決心を覆すほどの心残りもなかった。
彼は遥か未来へと跳躍した。
そこはさっきまでの自分の部屋ではなくアパートの一室だった。場所が変わったのは初めてのことだ、おそらく大人になって一人暮らしをしているのだろう。
鏡を見ると間違いなく青年になった自分だった。
記憶が馴染んでくると現在の状況もわかってきた。
驚いたことにそれなりに有名な大学に進学していた。さらに驚くべきことに恋人もいるらしい。
そして彼は二十歳の生活に順応していった。
大学の授業にもついていける。気の置けない友人もいる。恋人は可愛くて優しかった。これこそ彼の望んでいた未来だった。
しかしその幸せが長く続くと、ある思いが頭をかすめるようになった。
置き去りにした日々の自分は、どうやってそれをやり過ごしたのだろうか?
嫌なことや辛いことだけを残してきた。
今の自分はそれらの犠牲の上に存在しているのだ。
彼の元気がないことを恋人も心配するようになった。そして彼は自分の能力のことを打ち明けた。
恋人はそれを聞いても馬鹿にも否定もせずに、彼を抱きしめて優しく言葉をかけてきた。あなたのしたことは間違っていない、逃げるのは悪いことではないと。
彼はそれを聞いて涙を流しながらある決心をした。
そして彼女にそれを伝えた。
自分は戻ろうと思う。逃げるのは悪いことじゃない。でも立ち向かう勇気ができたならば、それに対峙してもいい。
僕はその勇気を君からもらった。
成長して未来に戻ってきたら、必ず君に出会って告白するから待っていて欲しい。
そう告げると彼は初めて過去に向けて跳んだ。
水溜まりをジャンプして跳び越えた男の子は不思議な気持ちだった。
なんとなくさっきまでより心が軽い。
いじめがなくなるわけでも、嫌いな給食が出なくなるわけでもないだろう。
それでも未来には楽しいことが待っているような気がする。
そのために自分は頑張れる気がする。
気がつけば雨はあがっていた。
男の子は傘をくるりとひと回ししてから歩き始めた。
……上手い。最初に思ったことはそれだった。
だが思っているだけでは駄目なのだ。それを伝えなくては。
わたしは結城先輩と視線を合わせる。
「さすがです。ストーリーも良いのですが、構成というか物語の組み立て方がとても上手いと思いました。早苗先輩や亜子ちゃん、わたしの小説ではSFやファンタジー的な時間設定がありました。言ってみれば確実にフィクションです。
でも結城先輩の小説は違います。時間跳躍はあったかもしれませんし、少年はただ水溜まりを跳び越えただけかもしれません。どちらとも解釈できます。読者の想像する余地があるんです。
あと個人的に胸を打たれたのは逃げることを肯定していることです。そのうえで立ち向かう勇気ができたならば対峙してもいいと言っています。対峙しなくてはいけないではありません。強制ではなく、最後まで選択を残しているんです。書いた人の優しさが伝わります。本当に素晴らしい物語です」
結城先輩はしばらく何も言わなかった。わたしも黙って待った。
やがて先輩は軽く微笑む。
「まずはありがとうと言っておく。作者の意図することを読み取ってくれたことに、そして作品を褒めてくれたことに。
そのうえで偉そうに言うんだが本当に成長したな。半年前の読むべき本がわからないと言っていた姿が嘘みたいだ」
わたしは一瞬で顔が赤くなったのがわかった。
「それは言わないでください……」
結城先輩はそんなわたしを見て微笑んだ。
しばらくすると早苗先輩と亜子ちゃんがわたしの小説を読み終えた。
二人とも褒めてくれた。そして目が赤い。ひょっとして泣いたのだろうか?
続けて結城先輩の原稿を手に取り、それを読み終えると早苗先輩が安堵の声を出した。
「いやー、一時はどうなることかと思ったけど、二人とも脱稿してよかったあ。あんまり心配かけないでよね。
でも出来も良いしさ。これで今年の『星霜』は傑作号になるんじゃない?」
亜子ちゃんも大きく頷いている。
そうだ、それについて聞かなくてはいけないことがあった。
「結城先輩はわたしを焦らせないようにと、自分の原稿は完成していたのに今日まで見せなかったのですよね?」
これは早くから気がついていた。わたしだけでなく、早苗先輩や亜子ちゃんも気づいていただろう。二人が結城先輩の原稿を心配している様子はなかった。
いま早苗先輩が複数形で言ったのもわたしに気を遣ってのことだろう。本当にみんなに心配をかけて申し訳なく思う。
だがわたしはそれ以上のことに気がついたのだ。
「さらに内容――というか時間の設定が被らないようにと、複数の作品を用意していませんでしたか?」
早苗先輩と亜子ちゃんが驚いている。二人もそこまでは気がついていなかったらしい。
「どうしてそう思う?」
結城先輩はポーカーフェイスでそう尋ねてきた。
「さっき原稿を取り出す時に付箋に『リープ』と書いてあるのが見えました。小説の内容とも合致します。でもひとつしか作品がないのならわざわざ付箋を付ける必要がありません。実際に他にも原稿があるのが見えましたし」
結城先輩は苦笑した。
「観察眼が鋭いな。無事に原稿を提出したあとで気が緩んでいると思ったんだが。
さらっとひどいことを言う。
たしかに気は抜けていた。しかし甘く見ないで欲しい、結城先輩のことはいつでも見ているのだ。その一挙手一投足を。紡ぐ言葉を。何を見ているのかを。
結城先輩は観念したように口を開いた。
「有村の言うとおり俺は作品を複数用意していた。時間設定が被らないようにというのも合っている。ただそれは有村のためじゃないぞ」
わたしは目を瞬いた。
最後の一言は自惚れていたわたしの胸に、ちくっと刺さった。
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