第33話【8月3日その3】本読みのやめられない悪癖
亜子ちゃんの部屋も和室だった。
しかし畳の上から絨毯が敷いてあって、障子の代わりにオレンジ色のカーテンが掛かっている。砂壁と押し入れ以外は洋室の装いだ。
ベッドに勉強机、部屋の中央にローテーブルがあって、あとはサイドボードと本棚があるだけと、広さの割にすっきりと片付いた部屋だった。
箪笥やドレッサーが見えないのは押し入れをクローゼット代わりにしているのかもしれない。
その押し入れの隣には、本来は箪笥を置くためと思われる板敷きのスペースがあるのだが、そこにガラス扉付きの立派な本棚が二架あった。
インテリアや小物のたぐいもほとんどない。サイドボードの上にいくつかのフォトフレームとピーターラビットの小物入れらしきもの。あとは枕の脇にデフォルメされたペンギンのぬいぐるみがあるだけだった。
もっと女の子っぽい部屋を勝手に想像していたので少し意外だった。
早苗先輩も「随分すっきりとした部屋だねえ」と言いながらベッドに腰かける。
わたしはサイドボード上のフォトフレームが気になった。飾られている写真になんとなく見覚えがあると思ったのだ。
近づいて見てみれば一目瞭然だった。
「これってプリンスエドワード島だよね?」
「うん」
亜子ちゃんの愛読する『赤毛のアン』の舞台となったカナダの島である。
写真だけでなく絵もあったが、そのすべてがプリンスエドワード島らしい。アンが好きな亜子ちゃんらしいインテリアだ。
その隣にあるピーターラビットの小物入れは、横にハンドルが付いているのでオルゴールでもあるらしい。年代物に見えるが大切にされているのだろう、埃ひとつ被っていなかった。
「そっかー。亜子は毎日ここで妄想をしているのね」
その声に振り返ると、早苗先輩がペンギンのぬいぐるみを抱えて怪しい笑みを浮かべていた。
「妄想なんてしていませんっ!」
亜子ちゃんが抗議の声をあげる。
「えー、ホントかなあ。じゃあペンペンに聞いてみよう」
早苗先輩は勝手に名前を付けたらしいペンギンのぬいぐるみを顔の前に持ってくると話しかける。
「ねえ、ペンペン。キミの御主人様はいつもどんな妄想を語っているんだい?」
「ウン。亜子チャンはネー」
裏声を使って腹話術のようなことを始めだした。
ペンペンくんの口を借りた早苗先輩の捏造妄想に、亜子ちゃんが顔を赤くして必死に反論している。
わたしはそれを見て噴き出してしまったのだが、ふと結城先輩は何をしているだろうと気になった。
先輩は部屋を入ってすぐのところに立ってずっと一角を見つめている。その視線の先には本棚があった。
そして早苗先輩の一人芝居が終わったタイミングを見計らって声をかけてきた。
「北条、本棚を近くで見せてもらってもいいか?」
「はい、どうぞ……」
亜子ちゃんが少し緊張した声で返事をした。
結城先輩が本棚へと歩いて行くと、早苗先輩もペンペンくんを元の位置に戻して近づいて行く。
本棚の前に並んで立った先輩たちの横顔は、結城先輩はもちろん、さっきまでふざけていた早苗先輩も真剣だった。
「どう?」
しばらくしてから早苗先輩が尋ねる。
「凄いな。正直ここまで岩波文庫とちくま文庫の海外古典が揃っているとは思っていなかった。アン以外でも版元が別の本が何冊もあるしな。かなり読み比べをしているんだろう。何より驚いたのは――」
「ああっ!? エターナルチャンピオンシリーズがある! 亜子なんで言ってくれなかったのよ! ねえ、誰が好き? やっぱりラッキールだよね?!」
早苗先輩は自分から聞いたくせに結城先輩の言葉をさえぎって叫んだ。
もっとも結城先輩は特に気にする様子もなく本棚を見続けている。
「現代文学だと吉本ばなな、江國香織、島本理生あたりが揃っているな。女性作家の恋愛小説が多い」
「こっちには氷室冴子が揃ってる。『なんて素敵にジャパネスク』だけじゃなくコバルト文庫のが全部あるんじゃない?」
先輩たちは代わるがわる、並んでいる本についての寸評を口にしていた。わたしが隣を見ると、亜子ちゃんは恥ずかしそうに顔を赤らめている。
先輩たちは隣の本棚へと移った。
「こっちは海外児童文学が中心か……。エンデやル=グウィンといった有名どころだけでなく、ローズマリ・サトクリフ、ロバート・ウェストール、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ、みんな揃っている。ちょっとした図書館並みだぞ」
「あ、守り人シリーズも偕成社版で読んでるんだ」
「おっ、ヴェルヌの『神秘の島』じゃないか。これってあの人が出てくるらしいんだよな。読んでみたかったんだ」
「漫画はどうかなっと。おお『メイドインアビス』がある。亜子って結構ダークファンタジーが好きなの?」
亜子ちゃんはますます顔を赤くして俯いてしまった。
「あ、あの先輩。亜子ちゃんが困っていますよ」
わたしの声に先輩たちが振り向いた。
「ああ、すまない北条。つい夢中になった」
「亜子ごめんね。やっぱり楽しくって」
亜子ちゃんは小さな声で「いえ、平気です」と返事をする。
「さっき階段のところで先輩たちが話していた悪い癖ってこのことですか?」
わたしの質問に早苗先輩が笑う。
「そうだよ。本読みにとって他人の本棚っていうのは抗いがたい魅力があるんだよねえ。悪いとは思いつつも見るのをやめられない」
「悪いことなのですか?」
わたしは驚いた。そんなことを思ったことがなかったからだ。
「ああ、それは瑞希が本読みとしてはまだ半人前ってことかな。それなりの読書家の本棚なら趣味嗜好だけでなく、性格や思想まで表れるって言われているからね。自分の裸よりも、本棚を見られる方が恥ずかしいっていう人だっているぐらいよ」
それは知らなかった。裸よりも恥ずかしいとなると亜子ちゃんの反応も納得だ。
「SNSで亡くなった家族の本棚をアップした人がいたんだけど「故人のプライべートを暴くな」って炎上したんだよね。おそらくアップした当人は本読みじゃなくて、悪いことだなんて意識はまったくなかったんだと思う。
本に興味のない人間はそんなことぐらいでって反論していたけど、知識のある本読みが見れば、ある程度のプロファイリングができちゃうからね」
それは完全に認識の差だろう。早苗先輩の言葉を借りれば、普通の写真でも見る人が見れば全裸写真だということになる。
「まあ、あまり目くじらを立てるなとも思うが、見られる当人が嫌がるのなら見るのはやめたほうがいいな。
だが実際に他人の本棚は人気がある。本関係の雑誌では特集の定番だし、作家の本棚紹介は本になって何冊も出ている。作家のは、もはや本棚というよりも書庫なんだけどな。あれはずっと見ていられる」
結城先輩でも他人の本棚には興味深々らしかった。
自分の本棚を見られることを恥ずかしいと思わないわたしは、早苗先輩の言うとおりまだ半人前なのだろう。
そもそもわたしの部屋には本棚がない。現状はカラーボックスに収まるほどの本しか持っていないのだ。
見られて困るぐらい本の詰まった自分の本棚が欲しいなと思った。
「それで亜子の本棚を見た結城の総評はどうなの?」
早苗先輩が悪戯っぽく問いかけた。
「それは北条に失礼だろうが」
当然のように結城先輩は発言を拒否する。
わたしも先輩がどんな感想を持ったのか興味はあったが、ここまでのやりとりを聞いているとセンシティブな問題だと思う。
ところが当人である亜子ちゃんがそれに賛同した。
「いえ。よろしければわたしも結城先輩がこの本棚を見てどう思ったのか聞いてみたいです」
亜子ちゃんの顔は真剣だった。
結城先輩もそれを見ると、鋭い眼つきでもう一度本棚を見渡す。そして亜子ちゃんに向き直った。
「そうだな。あくまでも俺の憶測だけど、北条は翻訳家になりたいのか?」
亜子ちゃんはそれを聞くと驚いたように目を見開いた。そして自分の言葉を確認するようにゆっくりと口を開く。
「そう……かもしれません。まだ誰にも言ったことはありませんが、将来そうなれたらいいなとは思っています」
わたしも初耳だった。
それにしても結城先輩はどうしてそれがわかったのだろう。
「さっきは鈴木に話の腰を折られたが、俺がこの本棚で一番驚いたのは原書の数なんだ。アンはもちろん他の作品も多い。
アンにしても完全版だけでなく英語の
勉強をしていても、鈴木や有村は数学だけでなく英語を教わりにくることもあるが、北条から英語について質問されたことはない。そういったことを総合して翻訳家になりたいんじゃないかと思ったんだ」
亜子ちゃんは恥ずかしそうな小さな声で、それでもしっかりとそれに答える。
「小学生の頃から創作の真似事はしていましたが、ちゃんと書き上げたことがなくて自分には才能がないと早々に見限ったんです。それでも本に関わることをしたいと思って徐々に翻訳に興味を持ちました。
わたしが霧乃宮高校に入れたのは英語の成績だけは良かったからだと思います。それでも翻訳家になれるほどの英語力があるとは思いませんが」
亜子ちゃんなら大丈夫と言ってあげたいが、翻訳家になるための敷居がどれぐらいのものなのか知らないわたしには、安請け合いはできなかった。
それは結城先輩も同じらしい。
「北条ならなれると無責任なことは言わない。それでも北条の小説を読んで思うことは丁寧で誠実だということだ。翻訳の時だってそれは変わらないだろう。原作を尊重しつつ、読者に寄り添った作品になると俺は思うよ」
亜子ちゃんの目に急速に涙が溜まるのがわかった。
顔を隠すように俯いた亜子ちゃんはしばらくそのままでいたが、顔を上げると微笑んだ。
「ありがとうございます。迷っていましたがこれで頑張れます」
わたしも亜子ちゃんの夢が叶うといいな、そのために応援しようと誓った。
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