7月
第25話【7月1日】会ったことのない先輩
七月に入っても梅雨明けはまだまだ先という感じの、ジメジメとした天気が続いていた。
それでも運動部や一部の文化部は夏の大会へ向けて気合が入っている。
もっとも我が文芸部は、期末テストも終わってあとは夏休みを待つだけという気楽な雰囲気だった。
そんな放課後の図書準備室。珍しく最後にやってきた早苗先輩が開口一番、感嘆の声を上げた。
「この
早苗先輩は鞄から一昨年の『星霜』を取り出すと机に置いた。
これにはわたしもまったくの同感だった。
文芸部では期末テストの前に二回目の読み合いをした。
その時に先輩たちから一年前の文芸部でおきた出来事を聞いた。衝撃的な内容だったし、やり切れない思いがした。
それでも気持ちの切り替えはできている。わたしにできることは今年の『星霜』を良いものにするために頑張ることだ。
その話をしている時に結城先輩が一昨年の『星霜』を見せてくれたのだが、それに寄稿していたのが遠野司さんだった。
わたしにとっては先輩にあたる人だ。その遠野さんはひとりで小説、評論、詩、短歌と四作品を寄稿していたのである。
驚くべきはそれだけではなかった。
話の終わった結城先輩が思い出したように口を開いたのだ。
「そうだ、時間があったらその遠野という先輩の小説だけでも読んでおくといい。とても同世代の人間が書いたものとは思えない。陳腐な表現だけど天才だよ」
これにはわたしだけでなく、早苗先輩も亜子ちゃんもしばらくは言葉が出なかった。
他人に本を薦めない結城先輩が「読むべき」と言うのは尋常ではない。
ましてやこれを書いた遠野さんは同じ高校生だ。わたしからすれば天才としか言えない結城先輩をして、天才と呼ばせる小説とはどんなものなのだろう。
わたしたちは争うように『星霜』のページを開いた。
『星の受け皿』 遠野司
それが小説のタイトルだった。
わたしたちは交代で『星霜』を持ち帰りそれを読んだ。
圧倒的だった。
テスト期間中に読んだことを後悔した。
以前結城先輩が語った読後に何も手につかなくなる物語で、わたしの心に深く刺さったのである。
先輩が天才と言ったのもよくわかる。
それと同時にわたしは激しく落ち込み、そして嫉妬した。
今まではどんなにおもしろい本を読んでも、それはプロの作家だから、自分よりも歳を重ねた人が書いたものだから、あたりまえだと思っていたのだ。
だけど遠野さんはわたしと同じ高校生なのだ。
その人と自分とのあまりの差に泣きそうになった。
テスト期間中は部活が休みだったから、テスト明けの今日に遠野さんの話題になったのは必然だろう。
「そういえばこの時、何年生だったんだろ?」
「その前年の『星霜』にも名前はあった。さらに前の年にはなかったから、一昨年の時点で二年だと思う」
結城先輩の返事に、早苗先輩が不審な表情を向ける。
「なんでそんなに詳しいのよ?」
「自分が在籍している文芸部の過去の文集ぐらい読むだろう。俺も全部は読んでないが昔のとか興味深いぞ」
結城先輩はさも当然のように答えたが、過去の文集という存在を失念していたわたしには耳が痛い。
それは置いておくとして気になることがあった。
一昨年に二年生ということは去年は三年生ということだ。しかし一年前の出来事に遠野さんはまったく出てこない。
「遠野さんは去年も霧高にいたということですよね。それなのに部活には顔を見せなかったのですか?」
わたしの口調がきつくなったのは、もし遠野さんがいればあのような事は起きなかったのではないかと思うからだ。
「部活をいつ引退するのかは個人が決めることだからな。特に文芸部だとそのタイミングが難しい。運動部も文化部も通常は夏の大会を最後に引退するだろう?
だけど文芸部には該当する大会がない。いちおう全国高等学校総合文化祭っていう文化部のインターハイがあるけれど、霧高の文芸部は参加したことがないんだ。
そうなると霧高の文化祭が区切りということになる。しかしそれだと九月の終わりまで時間を取られることになるから受験生には少し厳しい。だから二年の文化祭後か、三年に進級した時点で引退する人が多いんだと思う。おそらく遠野先輩もそのどちらかだろう」
結城先輩の話を聞いて納得をした、と同時に不安になった。
「あの、先輩たちはいつ引退するつもりですか?」
わたしの質問に先輩たちは視線を交わす。
そして早苗先輩が『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫のような笑みを浮かべた。
「あれえ、瑞希はあたしたちが引退するのが寂しくて泣きそうなのかなあ?」
図星だが、そうはっきりと認めるのは悔しい。
黙っていると早苗先輩がわたしの顔を覗き込んだ。
「そうだなあ、「わたし早苗先輩と離れたくありませんっ!」って可愛くお願いしてくれたら三年の文化祭までいてあげるわよ」
「……絶対に言いません。それに、わたしが引退して欲しくないのは結城先輩だけですから」
「ほー、さすがに三ヶ月も経つと言い返すようになるじゃない。そんな可愛くないことを言うのはこの口か? この口か?」
早苗先輩は手を伸ばしてわたしの両頬を引っ張った。
それを見て結城先輩も亜子ちゃんも笑っている。
「仲が良くてなによりだよ。真面目なことを言うと来年の新入部員数次第だな。ここに入りきれないぐらいの部員が来たら引退するよ」
わたしは図書準備室を見回した。
本来は書庫である部屋の一角に、無理やりスペースをとったのが文芸部の居場所である。二つ合わせた長机にパイプ椅子、それだけだ。
おそらく八人が限界だろう。ということは来年の新入部員は四人までに――
「ちょっと結城! 変なこと言うんじゃないわよ。いま絶対、瑞希も亜子も来年の新入部員を制限しようと考えてたからね」
亜子ちゃんと顔を見合わせる。
たしかにふたりとも同じことを考えていたようだ。
結城先輩も失言だと気づいたらしい。素直に早苗先輩に謝った。
「すまない。有村と北条も気にしないでくれ。いざとなったら空き教室に移動すればいいんだからな。俺は来年の文化祭まではやるつもりだよ」
早苗先輩もそれに同意したので、亜子ちゃんといっしょに胸をなでおろした。
わたしにとって先輩たちのいない文芸部というのは想像できなかった。
「実際のところ人数制限するぐらい部員がきてくれたらいいんだけどね。それで話を遠野先輩に戻すけどさ、この人って男か女かもわからないよね」
たしかに〈
ところが結城先輩が意外なことを言い出した。
「確証はないけど女性だと思う」
「なんで? 作品内容から判断して?」
早苗先輩はそう聞いたが、わたしには内容で男女の判断はできなかった。
「いや、俺は遠野先輩に会ったことがあると思う」
「え、いつ?」
「去年の文化祭でだよ」
結城先輩の語るところによると、それは早苗先輩がクラスの演し物で席を外し、ひとりで店番をしている時のことだったという。
図書準備室前の廊下に長机とパイプ椅子を出しそこで『星霜』を売っていた。
すると霧高の制服を着た女生徒が真っ直ぐ近づいてきたという。
長机の前で立ち止まると黙って代金を支払い、『星霜』を手に取るとページを開いたそうだ。
「普通は逆だろ? 中身を確認してから代金を払う。ところがその人は支払いを済ませてから読み始めたんだ。まるで買うことは決めていたみたいに」
それもかなり長い間、読み続けていたらしい。
最初はその人を観察していた結城先輩も、自分の読書を始めたそうだ。
ようやく読むのをやめたその人は、結城先輩の手元に目を移すと僅かだが表情を変えた。そして初めて先輩と目が合ったという。
「俺がその時に読んでいたのは一昨年の『星霜』だったんだ。最初はあの二人が一年前にどんな作品を書いたのか気になって読み始めたんだが、すぐに興味は遠野司に移った。そして目が合った瞬間に目の前の人物がその作者だと思ったよ」
その人は来た時と同じように黙ったまま立ち去ったという。
一言も会話はしなかったそうだ。
「それだけ? たまたま作品を読んでたからバイアスがかかったんじゃないの」
「だから確証はないって言ったろ。あくまでも俺の勘だよ」
早苗先輩の言うとおり、それだけではなんとも言えないと思う。それでも結城先輩は確信しているようだった。
「どんな人だったの? 美人だった?」
「垢抜けた感じはないけど普通だったぞ。黒髪三つ編みにビン底眼鏡みたいなコテコテの文学少女ではなかった。むしろ本を読みそうにないタイプに見えたな」
「運動系ってこと?」
「そういうわけでもない。スポーツだとしたら剣道とか弓道とかやっていそうな感じだけど、それもちょっと違うな。天才肌の芸術家という感じでもなかった。
しいて言えば腕の良い職人っていうか、陶芸家なんかがイメージに近いかもしれない。とにかく何かしら秀でたものを持っている雰囲気はあったな」
何となくイメージはできる。
同時に同性と聞いて再び嫉妬心が湧いてきた。
もちろんわたしが嫉妬したところでどうにもならない。才能の差は歴然だし、そもそも遠野さんはすでに卒業している。
それでも少しだけ話をしてみたかった。
尋ねたいことはふたつある。
ひとつは創作についてだが、もうひとつは去年なぜ文芸部を引退したかだ。
あれだけ才能のある人が早期に引退するのはもったいない、なにより遠野さんがいれば一年前の出来事はおきなかったと思うのだ。どうしてもそこにこだわってしまう。
実際に会うとどんな人なのだろう?
わたしは会ったことのない先輩を想像するのだった。
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