夏休み

8月

第31話【8月3日その1】先輩が本を読むようになった理由


 わたしたちが駅の改札を出ると亜子ちゃんが手を振っていた。

 LINEでは毎日やりとりをしているが顔を合わせるのは久しぶりだ。わたしは駆け寄って挨拶を交わす。

 そこへ歩いてきた結城先輩と早苗先輩も合流する。


「北条、暑いのにわざわざすまない」

「亜子、その帽子かわいいね。似合ってるよ」


 陽射し対策のカンカン帽を被っている亜子ちゃんは、たしかに物語に出てくる女の子ヒロインのようで可愛かった。

 照れたようにはにかみながら亜子ちゃんはお辞儀する。


「結城先輩も早苗先輩もお久しぶりです。わざわざ来てもらってすみません」

「なんで亜子が謝るの、押しかけたのはあたしたちなのに。というかその挨拶って親戚のおばちゃんみたいよ」


 早苗先輩がそう言うと、みんなから笑いがおきた。

 今日は霧乃宮高校文芸部の夏休み合宿の日である。宿泊場所となるのはなんと亜子ちゃんの家だ。

 夏休み前に亜子ちゃんからの申し出を受けて各自が親とも相談した結果、ありがたくご招待に応じることにしたのだ。

 迎えに来てくれた亜子ちゃんのあとについてわたしたちは駅を出た。


「すみませんちょっと遠いです。ふだんは自転車を使っている距離なので」

「気にしなくていいって。こっちがお世話になるんだから」


 亜子ちゃんはしきりに恐縮しているが早苗先輩のいうとおりだ。迎えにしても亜子ちゃんのお父さんが車を出してくれるというのを固辞した。泊まりと食事だけでも申し訳ないのに、そのうえ送迎などさせられない。


 国道を横切ると徐々に視界が開けてきて、住宅に混ざって青い稲が真っ直ぐに伸びた田んぼが見えてくる。これはわたしの家の回りとおなじ風景だ。

 わたしと亜子ちゃんが並んで先に立ち、その後ろから結城先輩と早苗先輩がついてくる。

 時刻は二時を回ったところで真夏の陽射しが強い。あまり遅くなってからの訪問も失礼だろうし、お昼に被るのもよくないと選んだ時間だった。


「そういえば亜子って兄妹いるの?」


 早苗先輩が後ろから声をかけてきた。


「いえ、わたしは一人っ子です」


 亜子ちゃんが振り返りながら答える。


「あたしもだよ。瑞希は?」

「わたしもです」


 亜子ちゃんと同じように振り向きながら答える。転ばないように歩くスピードを少し緩めた。


「あちゃー、少子化は深刻だねえ。結城は?」

「――俺もひとりだな」


 結城先輩の返事を聞いてわたしはあれっと思った。球技大会の時にバスケ部のお兄さんがいると聞いた覚えがある。あれは勘違いだったのだろうか?

 わたしが訝しんでいると早苗先輩が怪しい笑みを浮かべた。


「いまさ、答えるまでにちょっと間がなかった? あんた本当はお姉さんか妹がいるんじゃないの? それですっごいシスコンだとか」

「おまえはその手の妄想が好きだよな」


 結城先輩は呆れた様子で早苗先輩を見る。しかし次に出てきた言葉にわたしは驚かされた。


「以前は兄貴がいたんだよ。でも俺が小五の時に交通事故で死んだんだ。だから今はひとりっていうことだな」


 早苗先輩もびっくりしたようで、思わず立ち止まっている。


「え? それ冗談じゃなくて本気で言ってるの?」

「さすがにこんな冗談はつかない」


 結城先輩の表情はたしかに冗談を言っているようではなかった。

 するといきなり早苗先輩が直角になるぐらい腰を曲げて頭を下げた。


「ごめん。知らなかったとはいえ、からかうようなこと言って」

「謝る必要はないだろ。知らなくて当然だ、言ってなかったんだからな」


 結城先輩に促され、立ち止まっていたわたしたちは再び歩き始めた。

 しかし先程までのように気楽な会話はできなかった。

 わたしたちが黙っているからだろう、結城先輩がみんなが聞きたいであろうことを自ら話し始めてくれた。


「歳が四つ離れていたんだけどな、とにかく優秀でうちの地元では神童として有名だった」

「さすが兄弟。あんたといっしょじゃない」


 ぎこちなくも明るい声を出す早苗先輩に結城先輩は首を振る。


「謙遜じゃなく俺なんか足元にも及ばない。漫画に出てくる完璧な学生を想像してもらえればいい。成績は常に学年一位で運動も万能、何をしても器用にこなす。性格も良くて女だけでなく男からも人気がある。ついた渾名が完璧パーフェクト超人だったな」


 わたし的には結城先輩も今の条件に当てはまるような気がするが、先輩からするとお兄さんはそれ以上の存在だったようだ。

 結城先輩が以前言っていた逆立ちしても敵わない天才というのは、文芸部の先輩にあたる遠野司さんのことだと勝手に思っていたのだが、実はお兄さんのことだったのかもしれない。


「事故は対向車線のトラックから脱輪したタイヤを避けようと、乗用車が思わずハンドルを切った先に兄貴がいた。誰かを責めるのが難しい事故ってやつだ」


 たしかにそれは誰かを責めるのは難しい。結城先輩や御家族としては怒りの矛先がなくて、余計につらかったのではないか。

 少し間があいてから結城先輩が唐突な質問をしてきた。


「有村が本を読むきっかけは入部の時に聞いたけど、鈴木と北条が積極的に本を読むようになったのはいつだった?」


 早苗先輩が少し考えてから口を開いた。


「たしか小二の時に図書室の本を自由に選んで読むっていう授業があったんだよね。その時にホームズの児童版ジュブナイルを読んでからかなあ。それ以前にも絵本とかは読んでいたけど」


「わたしは小学校の入学祝いに叔母さんが買ってくれた、やっぱり児童版の『小公女』がきっかけだと思います」


「思ったとおり二人とも早いな。俺は兄貴が死ぬ以前はまったく本なんて読まなかった。小学生の頃はとにかく外で遊ぶのが好きな悪餓鬼だったんだ。兄貴とは別の意味で近所ではちょっと有名だったな」


 それは意外だ。小学生の結城先輩というのもイメージしづらいが、悪餓鬼だったというのは信じられない。


「兄貴は何でもできたけど一番好きなのは本を読むことだった。うちの両親はあまり本を読まないんだが母方の祖父が凄い読書家だったらしい。俺が小学校に上がる前に死んだから俺自身はほとんど記憶にないんだが、兄貴は初孫ということもあって可愛がってもらっていたそうだ。いわゆるお祖父ちゃんっ子で、その影響で本を読むようになったんだ」


 軽トラックがわたしたちの横を通り過ぎ土埃が舞い上がった。それが収まってから結城先輩が言葉を続ける。


「そして兄貴が死んだあとには大量の本が残された。それまで兄弟喧嘩をしていた時間を持て余した俺は、その残された本を読み始めたんだ」


「お兄さんはどんな本が好きだったの?」


 早苗先輩が静かな声で尋ねた。


「ジャンルに拘りはないみたいだけど純文学が多いな。芥川と太宰は全集があってかなり読み込んだ跡があった。現代作家だと村上春樹の長編は全部揃っていたはずだ。海外だとフィッツジェラルドとアーヴィングは本棚じゃなくて机に置いてあったからかなり読み返していたんだと思う。ああ、チャンドラーは好きだったみたいだから鈴木と話が合ったかもな」


 好きな本を聞いたことで、わたしの中で先輩のお兄さんが急速に具体像を持った。その人はたしかに存在したのだ。物語の中ではなくこの世界に。

 思わず涙が出そうになったのをぐっと堪えた。

 先輩たちの会話は続いている。


「お兄さんの蔵書って全部読んだの?」


「いや、まだ半分も読んでいない。もちろん兄貴の本だけでなく自分で買った本も読んでいるからだけどな。ただ兄貴より二つ年上になった今でも、読書量だけでなくその理解度でも勝てる気がしない」


「亡くなった人には永遠に勝てないって言うからね。大丈夫、あんたが馬鹿みたいに本を読んでいて読解力があることは、あたしが保証してあげるから」


 そう答える早苗先輩の目も赤かった。

 そこで結城先輩は何かを思い出すようにしばらく黙ったまま、夏本番を感じさせる白く大きな入道雲を見ていた。

 そしてわたしが初めて聞く心許なげな声を出した。


「兄貴が生きていた頃にだいぶ本を薦められたんだが俺は見向きもしなかった。さっきも言ったように遊ぶのが好きで本を読むなんて考えられなかったんだ。今更だが兄貴が何の本を薦めていたのかを知りたいし、覚えていないことを後悔している。俺はその贖罪のために本を読み続けているのかもしれない」


 わたしたちは何も言えないでいた。

 ひょっとしたら結城先輩が他人に本を薦めない本当の理由は、そのことが心の傷になっているのかもしれない。

 わたしは立ち止まって振り返ると結城先輩を真っ直ぐに見た。


「わたし結城先輩のお兄さんに感謝します。だってお兄さんが本を残してくれなかったら今の結城先輩はいなかったから。そうしたらわたしたちがこうやって出会うこともなかったはずです」


 わたしは泣かないように必死で歯を食いしばった。

 そんなわたしを見て結城先輩は優しく微笑んでくれる。


「ありがとう。有村がそう言ってくれるなら兄貴も浮かばれると思う」


 そのあとは誰も口を開くことなく黙々と歩き続けた。



 額から流れた汗が顎先から落ちる頃、亜子ちゃんが立ち止まった。


「着きました。ここがわたしの家です」


 たくさんの庭石と五葉松まで生えている広い庭。納屋兼車庫に使っているらしい離れ。いかにもひと昔前の建築らしい南側全面が窓になった大きな母屋。

 お祖父さんの代では石材店を営んでいたというが、亜子ちゃんの家はわたしの想像を超えて立派だった。


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