第8話【4月17日その2】本を薦めない人
いつものように結城先輩は本に没頭し、女性陣はお喋りをするという時間が過ぎていった。しかしわたしには話が頭に入ってこない。
「ごめん。ちょっとトイレ」
早苗先輩が立ち上がったのを見て、わたしはこの機を逃してはならないと後を追った。話し相手がいなくなる亜子ちゃんには申し訳ない、後で謝ろう。
廊下に出ると早苗先輩が振り返りながら笑う。
「そういえば小中の頃って友達と二人でトイレに行ってたよね」
わたしは曖昧な笑みを浮かべて早苗先輩の隣に並んだ。
「あの、早苗先輩に相談というか聞きたいことがあるのですけれど」
「なに? そういえば部屋では何となく上の空だったけど真面目な話?」
なんと話そうか迷った末、ありのままを言うことにした。
「先輩たちが来る前に結城先輩と話していたのですが、その時ひょっとしたら怒らせたかもしれなくて。もしくはわたしは嫌われているのかなと……」
早苗先輩は足を止めて、まじまじとわたしのことを見た。
「結城が瑞希のことを嫌ってる?」
「対応が少し冷たかったような気がして……。わたしの気にしすぎかもしれないですけど」
早苗先輩は視線を上げてしばし考える。
「ちなみにどんな話をしてたの?」
「早苗先輩から薦められた本の評価を聞いたり、結城先輩のお薦め本を教えて貰おうとしたのですが」
わたしが言い終わる前に早苗先輩は笑いだした。それも爆笑という表現がぴったりで、お腹を抱えて涙を流しながら笑っている。
わたしは唖然としながらそれを見ていた。幸いというべきか廊下にはわたしたち以外の姿はない。
「ごめん。瑞希にとっては笑いごとじゃなかったね。でも嫌われてるはさすがに飛躍しすぎじゃない」
早苗先輩は眼鏡を外して涙を拭きながら謝ってきた。わたしとしては狐につままれたような感じで何とも言いようがない。
早苗先輩は窓側の壁に背をあずけた。どうやら腰を据えて話すつもりらしい。
「あたしが初日にさ、結城は面倒くさい奴だって言ったのを覚えてる?」
「はい、覚えてます」
あれはたしか結城先輩の短い自己紹介が終わった後のことだ。
「これがそうだよ」
これ、と言われても何のことやらわからない。
わたしが頭の上にクエスチョンマークを浮かべていると、早苗先輩は苦笑と慰めが混ざったような表情で衝撃的なことを口にした。
「結城は他人に対して本の評価を言わない。ましてや本を薦めるようなことは絶対にしない」
わたしは何度も瞬きを繰り返した。
本の評価をしない?
本を薦めない?
あれだけ本を読んでいて聡明な人が?
いくつもの疑問が湧いてきたが、真っ先に口をついたのはシンプルなものだった。
「なぜですか?」
「さあ? あたしもちゃんと聞いたことはないから。でもわかるような気はするな」
わたしが黙っていると、早苗先輩は一度窓の外を見てからわたしに視線を戻した。
「例えばさ、結城がおもしろいって薦めてきた本を読んでみて、つまらないと思ったら瑞希はそれを言える?」
わたしは言葉に詰まった。
「言えないよね。読書量も読解力も明らかに自分より上だとわかっている相手の評価と違うことなんてさ。そして自分の読み方が間違っていたり、読み込みが足りないせいだって考えるよね」
まさにその通りだと思った。わたしなら絶対に自分が間違っていると考えるはずだ。
「そんなふうに自分の顔色を窺いながら本の講評をするような環境が、あいつは嫌なんだと思う。だから評価もしないし薦めもしない」
早苗先輩の考察はすんなりと腑に落ちた。そして当たっている気がする。
「早苗先輩相手でもそうなんですか?」
二人の先輩は仲が良いというのとは少し違うかもしれないが、信頼関係があるように思う。
「ジャンルによるかな。ミステリなら結城も遠慮なく言ってくる。ただミステリで評価が割れたっていうことはほとんど、ひょっとしたら一回もないんだよね」
「それは早苗先輩と結城先輩のミステリの趣味が合っているということですか?」
「いや、好き嫌いとは別。純粋におもしろいかつまらないかが一致してる」
それはミステリに限っていえば早苗先輩の読解力が結城先輩レベルにあるということではなかろうか。
そこで気づいた。いけない、先輩たちの読解力を勝手に決めつけるとか、わたしは何様のつもりだ。脳内で自分を殴りつけ反省する。
「ミステリ以外の話は?」
「それはあたしから敬遠してる。理由はさっき言ったとおり。結城の評価にあたしは無条件降伏で追従するだろうからね。ファンタジーやSFならぎりぎり抵抗できるかなあ」
なるほど、早苗先輩にはちゃんと基準があるらしい。
しかし絶望的な気分になった。結城先輩と対等に本の話をするつもりなら、かなりの読み込みが必要ということだ。何年かかるかわからない。
ため息をつくわたしに早苗先輩が真面目なトーンで話かけてきた。
「少し誤解があるみたいだけど、こっちからはっきりと感想や評価を言えば結城はそれに応えてくれるよ。もちろん意見の相違があるなら遠慮せずに言ってくる。
要するに本に対してどれだけ真摯で覚悟を持って臨んでいるかだね。日和見なことを言ってると相手にされないけれど、こっちが真剣ならそれが見当外れの意見でもあいつは馬鹿にしたりはしない。
結城は読書をただの暇つぶしって言ったけど、無意味や無価値だとは言ってない。おそらく無限にある暇つぶしの中で読書が最高のものだと考えてるはずだよ」
思わず息を飲み、背筋が伸びた。
「まあそんなに気張らなくて大丈夫だよ。上手く誘導すればぽろっとお薦めタイトル漏らしたりするし」
早苗先輩は悪戯っぽく笑う。この人もやり手なのだ。
「でも早苗先輩も凄いです。一年間いっしょにいるとはいえ結城先輩のことをそこまで理解しているなんて」
それを聞いて早苗先輩はなんともいえない微妙な表情をした。
「あー、えっとね。あたしと結城がまともに口をきいたのって去年の秋からだから、せいぜい半年の付き合いなんだよね」
わたしは驚いて早苗先輩を凝視してしまう。
「喧嘩でもしてたんですか?」
「ちがうちがう、それ以前の話。あたしもあいつもほとんど部活に来てなかったの、いわゆる幽霊部員ってやつ」
さらに驚いた。先輩たちが幽霊部員?
いったい去年の文芸部に何があったのだろうか。
「今のお二人の関係からすると信じられない話ですね」
「まあ、あたしと結城は戦友みたいなものだからね。それについてはおいおい話すよ。それよりトイレ!」
そういえば早苗先輩はトイレに行くために席を立ったのだった。ひどい足止めをしてしまった。
それにしても戦友とは
「亜子にもこの話はしておいたほうがいいかもね」
トイレを済ませ図書準備室へと戻る道すがら、早苗先輩の言葉にわたしも同意した。
結城先輩にお薦めの本を聞くということは、本読みなら誰でもすることだろう。その時になって亜子ちゃんがわたしみたいに困惑するのは可哀想だ。
そういえば思いのほか長時間話し込んでしまった。本を読む結城先輩と二人きりで、さぞかし亜子ちゃんは手持ち無沙汰だったはずだ。
そんなことを早苗先輩と話しながら図書準備室のドアを開けた。
「遅かったな」
「おかえりなさい」
意外なことに結城先輩と亜子ちゃんが和やかなムードで迎えてくれた。
さらに珍しいことに結城先輩が本を閉じて長机に置いている。
「お二人が遅いので結城先輩が話し相手になってくれていたんです」
言われてみれば当たり前だ。
結城先輩は心遣いのできる人である。亜子ちゃんが一人になって、そのまま本を読み続けるような空気の読めないことをするわけがなかった。
「どんな話をしてたの?」
早苗先輩の問いかけに亜子ちゃんはにっこりと微笑む。
「お薦めの本を聞いたのですけれど言葉を濁されていたので、聞いちゃ駄目でしたかとお尋ねしたんです。そうしたら結城先輩は人には本を薦めないそうなんです」
わたしと早苗先輩は思わず顔を見合わせる。
「それで?」
「理由を聞くと相手とフラットな意見交換をしたいからということでした。たしかに薦められた側は否定的なことを言いにくいでしょうから納得しました」
わたしも早苗先輩も言葉もなく立ちつくしていた。
しばらくして「ゆらり」と揺れるように早苗先輩が足を踏み出すと結城先輩の隣に立った。
そして――その肩をパンチする。
「おい」
早苗先輩は非難する結城先輩を無視して今度は亜子ちゃんの背後に立つ。
そのまま後ろから亜子ちゃんの両頬に手を伸ばし、その柔らかそうなほっぺたをムニムニと引っ張りだした。
「ふぁなえふぇんぱい、なにふるんですふぁ!?」
「うるさい! あたしの半年間の懊悩をあっさりと解決するな! 犯人に直接聞くとかミステリとして反則だろう。探偵のプライドがないのか!」
言っていることがめちゃくちゃで完全に八つ当たりである。でもやっぱり早苗先輩も心の奥底ではいろいろと悩んでいたらしい。
とりあえず本気でやってはいないようなので静観することにした。
結城先輩がわたしに聞いてくる。
「あいつは何を言ってるんだ?」
「九割がた結城先輩のせいですよ」
自分でも思わぬ冷たい声が出た。
結城先輩は驚いたようにわたしを見つめる。
それに気づかないふりをしてわたしは思った。
案ずるより産むが易し、素直が一番と。
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