第5話【4月10日その4】モンゴメリを愛する女の子
「それじゃあどっちからにする?」
鈴木先輩がわたしと北条さんを交互に見比べる。
わたしたちもお互いに顔を見合わせたが、二人とも自分からとは言い出さなかった。
「有村さんがミステリを読んでいることはわかったし、話していなかった北条さんからでどうかな?」
結城先輩の提案に北条さんが「はい」と頷いた。
そして小さく咳をして喉を整えると、立ち上がってきちんとお辞儀をする。
「一年二組の
そこで少し迷っていたが、結城先輩の「座りながらでいいよ」という声に腰を下ろす。
「わたしは最近の本はあまり読まないんです。まったく読まないということではないのですけれど」
三人から注目を浴びて北条さんは恥ずかしそうだ。
次が自分の番で同じ状況になるということを抜きにしても、彼女には応援したくなるような可憐さがある。
「繰り返し読んでいるのは十九世紀後半から二十世紀前半のアメリカの女性作家で、オルコットやウェブスター、バーネット夫人も好きなのですけれど、一番好きなのはモンゴメリです」
人名が複数出てきたけれど残念ながらわたしが知っている人はいなかった。時代的には百年前である。北条さんは古典が好きということだろうか。
「モンゴメリって聞いたことあるんだけど……。誰だっけ?」
鈴木先輩もわからないらしいが、聞き覚えはあるらしく首を捻っている。
「ルーシー・モンド・モンゴメリ。『赤毛のアン』の作者だよ」
結城先輩は迷いなく答えた。
そのタイトルはわたしでも知っている。有名な児童文学だ。
「ちなみにオルコットは『若草物語』、ウェブスターは『あしながおじさん』、バーネットは『小公子』の作者で、それぞれ続編なんかもあったりする。日本だと児童文学に括られることが多いが決してそうじゃない」
結城先輩の言葉で反省をする。わたしは児童文学と決めつけてしまった。
「といっても俺も偉そうには言えない。アンも全部は読んでないからなあ。たしか『アンの幸福』を読んだところで挫折したはず。あれは何冊目だっけ?」
最後は北条さんへの質問だ。
「読んだのは新潮文庫版ですか?」
北条さんの問いかけに結城先輩が頷く。
「それなら五冊目ですね。さっきの結城先輩の自己紹介での三冊縛りだと『アンの愛情』までですから、それよりは多く読んでもらっていますね」
北条さんは嬉しそうに微笑む。
「内容的なことよりも、読んでいて違和感があって切った覚えがある。訳は村岡花子で変わっていないから翻訳のせいじゃないはずなんだが」
「そこに気がつくなんてやっぱり結城先輩は凄いですね」
ミステリの話をしていた時の鈴木先輩ほどではないが、北条さんの目が輝いていた。
「『アンの幸福』は時系列的にはアン・ブックス四作目で、短編集の『アンの友達』が四冊目にきていますから新潮文庫では五冊目なんです。ただ原作の出版年でいうと三作目の『アンの愛情』から二十年も後に書かれたものなんです。
これはモンゴメリが亡くなってから七十年後に編集された『アンの想い出の日々』を抜かした十冊の中でも最後から二番目です。
内容的にも手紙文学要素がありますし、読んでいて違和感があるという先輩の気持ちはわたしにもわかります」
「なるほど、新潮文庫では時系列順に並び変えてシリーズナンバーを打ったのか。調べなかった俺も悪いけど余計なことをしてくれる。出版社はよくこの手のことをするんだよな。他の版元のはどうだろう?」
「わたしも翻訳された全部を調べたわけではないのですが、日本だと三作目の『アンの愛情』までしか出してないところが多いみたいです」
二人の話は盛り上がっている。
まさに結城先輩が言っていた応答しながら話を引き出す流れだ。ただこれはかなりの読書量がないとできない芸当だと思う。
「そういえば、さっきの『アンの想い出の日々』って村岡花子のお孫さんが訳したんだっけ? 何かの記事で読んだ覚えがある」
「はい、村岡美枝さんですね。出版前のゲラが持ち込まれたそうでそのまま翻訳されることになったそうです」
そこで鈴木先輩が加わってきた。
「その村岡某さんも聞いたことあるような気がするんだけど……。誰だっけ?」
「村岡花子はモンゴメリやオルコットの作品の翻訳家。五年ぐらい前にNHKの朝ドラ『花子とアン』のモデルとなった人だから記憶に残ってるんじゃないか?」
「ああ、そうかも。っていうかアンってそんな何冊もあったんだね」
わたしも初めて知った。読んでいないので当然ながらストーリーも知らない。
言い出しづらいのでわたしは必死に存在感を消して空気になっていた。雉も鳴かずば撃たれまい。しかし鳴いた鈴木先輩は見事に撃たれた。
「おまえ、一作目も読んでないのか?」
結城先輩の冷たい視線が注がれる。
「失礼ね! 読んだことあるわよ。……
それを聞いて結城先輩がうなだれた。
北条さんは「わかります。お茶会のシーンが多いですから」と必死にフォーローしている。
「でも実際どうだろう。アンの専門家に聞いてみたいんだけど、全部読んだほうがいいのかな?」
結城先輩の質問に、北条さんは「専門家なんて」と手を振りながらも真剣な表情で考える。
「うーん、どうでしょう。わたしはそれぞれにおもしろさがあると思いますが、客観的にみればアンが成長していく学生時代がやっぱりピークなんだと思います。
短編にはそもそもアンが出てきませんし、そう考えると最初の三作で十分なのかなっていう気もします。だから出版社が『アンの愛情』までしか出していないというのもわかりますね」
「ありがとう。じゃあ北条さんには申し訳ないけれど、アンの続きは老後の楽しみにとっておくことにする」
北条さんは少し残念そうな、それでも笑顔で「はい」と返事をした。
それを見ながらわたしは頭のメモ帳に「赤毛のアン、三作目まで必読」と留めおいた。
結城先輩の質問は続く、話し上手は聞き上手を体現する人だ。
「アメリカの作家ばかりだけれども、イギリスの作品は読まない?」
「そんなことないです。オースティンなんかも好きです」
「いいね。『高慢と偏見』なんか今読んでもまったく古臭くない、不変性がある物語だと思う」
むむむ。また知らない。わたしは
しかし心強い味方の鈴木先輩がいた。
「高慢と偏見ってなんか聞いたことあるような……。なんだっけ?」
「おまえはさっきからそればっかりだな……」
結城先輩が脱力しつつも、なんとか立ち直って説明を始める。
「『高慢と偏見』はイギリスの女性作家ジェイン・オースティンの書いた小説で、十九世紀初期に出版だからアンとかに比べてもさらに百年前ってことになる。
原題は『Pride and Prejudice』だけど、訳題の『高慢と偏見』が秀逸だからか色々なパロディで使われているな。たぶんそれのどれかを聞いたことがあるんだろう。
『自負と偏見』や『自尊と偏見』っていう訳題もあるけど、個人的にはしっくりこない。やっぱり『高慢と偏見』だろう」
これには北条さんも「わたしもそう思います」と激しく同意している。
鈴木先輩の「どんな話?」という質問には北条さんが答えた。
「
ストーリーは姉妹とその友人の結婚相手探し。それだけなんです。
モームは世界の十大小説で高慢と偏見を選出して「大した事件が起こるわけでもないのに、ページをめくる手が止まらなくなる」と評しています。
知性と才気にあふれるエリザベスはもちろんですが、一見凡庸にみえる他の登場人物たちもそれぞれの立場での鋭い観察眼を持っていて、そこがとてもおもしろいんです」
「『ブリジット・ジョーンズの日記』っていう映画があっただろ? 原作は小説だけど、それの元となったのが高慢と偏見なんだ。二百年経っても共感を得られる内容だってことだな」
結城先輩がそう補足をした。
鈴木先輩が「おもしろそうじゃん」と頷いている。わたしもそう思ったので、頭のメモ帳に「オースティン、高慢と偏見」を追加する。
その間にも結城先輩と北条さんの会話は続いていた。
「ちょっと気になったんだけど女性作家しか読まないのかな?」
「いえ、そんなことはないです。男性だとO・ヘンリーとかディケンズが好きです」
「O・ヘンリーはなんとなくわかるけど、ディケンズとは硬派なところにきたね」
結城先輩は腕を組みながら宙を見つめた――が、すぐに北条さんに視線を戻すと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「いや、そんなことないか。言われてみれば物語の根幹には全部共通点があるな。君がどんな小説が好きかわかったかもしれない」
「わたし単純なんです」
北条さんも照れたような笑いでそれに応じた。
「ちょっと、なに二人の世界に入ってるのさ。あたしにもわかるように教えてよ」
鈴木先輩が憮然とした顔で横槍を入れる。わたしも同じ気持ちだ。
「すみません」
北条さんが深々と頭を下げた。
「ちがうちがう、亜子ちゃんにじゃなくて結城に言ったんだよ」
鈴木先輩は慌てたように手を振った。
それに頷いてから北条さんが恥ずかしそうに答えた。
「えっと、簡単にいうとわたしはハッピーエンドの話が好きなんです」
そこに再び結城先輩の補足が入る。
「ただ単純にハッピーエンドっていうわけじゃないかな。生い立ちや境遇に恵まれなくても希望を見失わない、悲劇的状況でも救いがある。そういう物語が北条さんの琴線に触れるんだと思う」
北条さんは良き理解者を見つけた喜びに目を輝かせながら結城先輩を見上げ、
「はい!」
嬉しそうに返事をした。
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