美しい世界はこの世界よりも狭い

「つい、死にたいって口にしちゃったんですよね。

 そしたら僕が思った以上に猛反対されました。こういうのって逆効果なんですよね。カリギュラ効果ってものがあるんです。実際もっと死にたくなった……それで今電話してます。

 これから死ぬので、少しの間、話し相手になってくれません?」

 

 落ち着いた口調だった。震えもないし、怖がっている様子も感じられない。死ぬことを怖がっていない。こういう奴でも死ぬ時は死ぬんだ。

「いいですよ。あなたが飽きるまで話しましょう」

「ありがとうございます。それにしても、みんな無責任ですよね、「生きろ」だの「死ぬな」だの。そんな強い言葉じゃなかったとは思うけど、言ってることはおんなじです。大事なのはその後なんですよ? 生きろ、一緒に生きよう、助けてあげるから。とか、死ぬな、自分が悲しいみんなが悲しい。みたいな、薄っぺらな言葉でもいいから何か付け足してくれたら、こんな感じで電話するのはもうすこし考えたと思います。

 なのに頭ごなしに言われちゃったので、それまで溜まっていた鬱憤が一気に限界に達したんだと思います。変ですよね、その場で死んでしまえばいいのに、わざわざあなた方に電話をかけているんです。どうしてなんでしょう。

 ……私は、あなたに、話を聞いてほしいんでしょうか? 話をし続ければ、死のうという気持ちが消えてしまうかもしれないのに。こういうのって、勢いが大事なんですよね。今すぐにでも飛び降りないといけない、電話している場合じゃないのに……」

 

 ……最初に感じた落ち着いた印象は、ハリボテだったのかと思うと同時に、相当追い詰められ焦っている様子もまた徐々に伝わってきた。今すぐに死にたい気持ち、その気持ちが消えてしまうのではないかという焦り。その二つの板挟みになっている。パニック状態だ。

 高所にいるなら、足を踏み外す可能性があるが、電話だけじゃどうにも。風の音はあんまり聞こえない。むしろ室内にいるようにも思える。うっすらテレビの音が入り込んでいるようにも聞こえる。だとすると家で死ぬか。

 家で死ぬなら、首吊りかどこかしら切って失血死を待つか、それとも練炭でも使おうとしてる?


「質問してもいいですか。今、何が一番怖いですか?」

 しばらく沈黙が続いた。呼吸の音が荒くなっているのも聞こえてきた。

「みんなの善意が怖いです。あなたも含めて」

「周りの人間が全員敵に見えますか?」

「はい。今はみんな敵に見えます。外で自殺すれば、敵が僕を止めるでしょうし、交差点の真ん中でガソリンを被った時点で、警察がすぐに駆けつけてしまう。周りに誰かがいるような状況で、自殺するなんて無理なんですよ。一般人は離れるかもしれないけど、警察や救急隊員は助けようとする。僕を死なせては絶対にくれない。価値観が違うんです。人を死なせるべきではないという価値観が、彼らの中に浸透し切ってしまっている。だからこういうものは、一人で、密室で、細々とやるのが最適解なんです」

「でも、私に電話をかけてしまった」

「それは気の迷いですね。めんどくさいもので、一人で死ねばいいものを、誰かに聞いてもらいたかった。あれこれとその後の死に様を考えてほしかった。無様で我儘なものですがね」

「いいんですよ。一人で死なせてもらえないという意味では、私は敵かもしれません。でも味方でもあります。あなたの最期の言葉を聴くための味方なんですから」

 

 相談者は咳き込んでいる。呼吸困難に陥っているようだ。

 うまく呼吸が出来ていない……と頭の中で反芻してようやく思い出した。

 多分、塩素ガス中毒だ。

 二種類の洗剤を混ぜたんだろう。誰もいないということは、密室か。比較的ガスが充満しやすい、狭い密室となれば、トイレか風呂場だ。

 電話口の咳込みは反響しているようにも聞こえる。お風呂場で洗剤を混ぜたのだろう。

 お手軽に手に入るたった二種類の洗剤で、簡単に毒ガスを作れるから、そういう手順を選んできた相談者は多い。ただ煉炭による一酸化中毒よりは苦しいだろう。咳き込んで呼吸困難で窒息死に至るまで、少し時間がかかる。煉炭の用意も、二種類の洗剤と比べればあまり手に入りやすいとはいえない気もする。

 海外じゃカジュアルな手順になりつつあるヘリウム吸引方だって、ヘリウムを手に入れることがまずここじゃハードルが高い。

 手っ取り早く死ぬなら、やはり苦しいけど塩素ガスだ。

 首を吊る勇気がないなら、そっちをおすすめするよ。


 相談者が、息を吸うときの音が若干おかしくなっていた。もうそろそろかも。

「電話する前に、もう混ぜてたんですね?」

「そうですね」息も絶え絶え。声もか細い。「こんなに苦しいなんて」

「最初だけですよ」できるだけ声を落ち着かせて、相手が落ち着けるような優しい口調で言う。「部屋を締め切ってるなら、もうガスも充満している頃ですね。そろそろですよ」

「ありがとうございます」

「いいんです。生きている苦しみは、取り除きたいときに取り除くべきなんです」

「あなたは敵じゃありませんでした」

「ええ、味方です」

「ええ……そうで……」


 人は自分で死ぬことができる。

 好きな場所で。もしくは最適な場所で。

 そこは外の世界よりも狭いけど、そこが地獄に見えてくるくらいには、その場所は自分だけの、とても美しい世界だ。

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