祈り

 死が祈りであるように、生きることも祈りだと思っている。何かを祈り続けていなければ生きられないような人間がたくさんいる。

 死ぬために、死ぬことができるようにと祈る時、人は生き続けるときよりも多くのエネルギーを消費する。

 ここに来るよりも前から私はそのように思っていて、さっき電話をかけてきた死にたがりの人間も、まさに同じようなことを考えていた。


「僕は死にたいんでしょうか」


 中性的な声だった。男か女かの判別がつかないくらいに曖昧な音域で、透き通った声。女声と男声の中間地点。どう表したものか表現に困る。

 読んでいるあなたが「中性的な声」を思い浮かべることができたならそれでいい。そういう声だ。


「自分でもわからないのですね」

「死にたいとずっと思い続けています。今もそうです。でも、本当にそうなのかなって……かれこれ五年近くになります」

「かなり考え続けていましたね」

「と言うよりは思考停止に近かったかもしれません……死にたいっていう一つの気持ちだけがあって、その周辺について考えることをしてこなかったので」

「死にたいという気持ちの周辺、ですか」

「自分でも上手く説明できないんですが、大ざっぱに言えば、自分中心で死にたいって考えていて、周りの人間の気持ちを考えてこなかった、みたいな感じです。それとは違ったモヤモヤもあります。あるんですけど、自分でもわかっていません」

「なるほど」


 全部わからないよりはマシだろうと思いはした。だが、彼……もしくは彼女がその言葉をどう受け取るかというのが何よりも重要だ。

 下手に誤解されて電話を切られるのは、あまりいい結果とは言えない。


「よく「死にたくなったら電話してください」って窓口がありますよね。「いのちの電話」みたいな。何度も電話をかけましたが繋がりませんでした。死にたいって気持ちを吐き出すことを嫌がられているみたいで気持ち悪くなった。無理を承知でその後も何度も電話をしたけど繋がらなくて。その時は自分も視野が狭くなってたのかもしれません。「自分の他にも死にたくて電話をかけている人間がいる」って発想にたどり着けませんでした」


 これはますます電話を切られるわけにはいかない、となった。


「このお電話はどうでしたか?」

「すぐに繋がったのが未だに信じられません」

「あまり番号を大っぴらにしているわけではないので」

「どうしてですか?」

「この窓口自体が、世間的にあまり良い目で見られているわけではないからです」

「よくないことをしているんですか?」

「法律には反するかもしれません」

「どんなことを……?」

「自殺を止めず、むしろ上手くいくようにアドバイスしているからです。本来なら自殺教唆や自殺幇助で罰せられる行為をしているんですよ」

「……どうして捕まらないんですか?」

「どうしてでしょうね」

「良心が痛みませんか?」

「法に背くことをするということに対する良心の呵責に耐えられない人はたくさんいますよ。耐えられなくて辞めてしまう人もいます」

「どうしてこんなことをしてるんですか?」

「まさに、あなたのような方の悩みを少しでも解消するためです。自殺を止めたい人たちの窓口と根っこは同じです。人を救いたい。ただその方法が真逆なだけです」

「そうなんですね。私もまあ確かに死ぬべきか迷ってますけど、あなたは死ぬことをおすすめしますか?」

「……有無を言わさず、すぐに自殺を選ばせるわけじゃないですよ、迷っているのであれば、死んでも死ななくてもいいんです。途中で死にたくないって気持ちが湧いてくるってのも不思議な話ではありません」

「ちょっと安心しました」

「なので、存分に迷っていいんです。その上で決められないなら、いっそのこと死んでしまった方が楽だと思いますよ。考えることも、悩むこともしなくてよくなる」

「そうですよね……やっぱり、悩むことから解放されたいってなると、そうなっちゃいますよね。生きてる限り、脳が活動してる限り、本当なら、考えるのをやめることも、悩むのをやめることはできませんし。思考停止とは言いましたけど、実際はその状態を悩んでいたわけで」

「すっきり解放されたいならその方がいいかもしれません。悩むことは生きることと一緒だと仰っていた方もいたので、一般的な見解は言いにくいですが」

「僕は、死ぬことは祈ることなんだと思っています」

「祈ること、ですか」

「はい。願掛けとはちょっと違うかもしれませんが、救われるために祈ることが、要するに死ぬことなんじゃないかなって」

「確実に救われるでしょうから、百パーセント叶う祈りだと思いますね」

「でも、生きることも祈りの一種だと思っています」

「……同じ祈る行為でも、ですか」

「同じ祈る行為だとしても、です」

「興味深いのでお聞かせ願いたいのですが、二つの間で違う点は何だと思いますか?」

「確実な救いがあるか、そうでないかです」

「なるほど」


 なんとなく。


「私も同じようなことを考えたことがあります」


と言った。


「そうなんですね」


 特段喜んでいる調子でもない。むしろ失望の念を感じる。自分と同じ考えの人間はいないと思っていたのだろうか。


「僕以外にもそう考えている人がいるなんて」

「救われたくて、助けてほしくて祈る人間は少なからずいると思います。宗教がそうですよね。救いが欲しくて祈りを捧げる人はいるでしょう。死ぬ以外の方法で救われたくて祈りを捧げる人の方が圧倒的に多いことは多いでしょうけど」

「宗教、ですか。そうですね。確かにその観点からしてみると、私みたいな考えの人はいるのかも」

「あなたと私とで共通している点がいくつかあります。死ぬことが祈りであると考えていること。そしてそれが百パーセント救われる祈りだと考えていること。最後に、死ぬことで完璧に救われると考えていることです。この三つを、あなたと私は同じように考えている」

「確かにそうですね」


 しばらく沈黙が続く。


「今の状況から確実に救われるためには、やっぱり逃げ道を失くす以外にないんでしょうか」

「あなたが置かれている状況にもよりますが、」

「その状況についてお教えします。友達が最近死んでしまったんです。自殺ではないんですけど、重い病気にかかっていて、治療も上手くいかなくて」

「それは辛いですね」

「でも、その前から僕の中に死にたいという気持ちは確かにあったんです。あったんですけど……なんというか、迷ってるのはその友達が死んだことが原因で」

「友達が死んで、死ぬのが怖くなりましたか?」

「それもあります。それと同時に、友達を羨ましく思いました。生きていたときの彼はとても苦しそうだったんです。でも、死んだからその苦しみからは解放されたわけで、やっと友達は苦しまなくてよくなったんだって。思うようになって。僕はわからなくなったんです。怖いけど、苦しみたくはない。けどやっぱり怖いんです。恐怖を感じることも、苦しむこともなくなる。けどやっぱり怖い」

「そうですね……」


 俺は考える。

 苦しみから逃れるために最大の苦しみを味わうという矛盾に耐えられる人間もそうはいない。

 しかしその苦しみさえ通り過ぎればどうにでもなる。

 だから人は祈るのだ。


「苦しみを前払いすると考えてみてはいかがでしょう? これから先、生きていれば確実に味わうことになるであろう全人生分の苦しみを、一瞬だけ味わうんです。そうすれば、後は苦しまなくて済むのではないでしょうか」

「人生のうちの苦しみの全部……ですか」

「そうです」

「死ぬ上で避けては通れないんですかね」

「避けられないと思います。できるだけ苦しまない死に方を選ぶとしても、その死に方をするための準備が必要になって、その準備段階で苦しむことも多いんです。代わりに苦しまずに死ぬ。準備段階で苦しまない方法を選べば、死ぬ時に苦しむんです。一定の量の苦痛は、やはり生じるでしょう」

「……それは、あなたがそう思っているから、そう言っているんですか?」

「そうです、これは私の持論でしかない。だから本当のところはわかりません。苦しんだ人間ほど、死ぬことへのハードルは低いんです。死ぬこととあまり変わらない苦痛を味わってきたのだから、死んだ方がマシだろうって」

「……そうですか……」


 段々と、口数が少なくなっていく。話し尽くしたか、話す価値がないと判断されたか。前者であれば、それはそれで嬉しい。


「飛び降り自殺って、苦しいものなんでしょうか?」

「高さにもよりますが……中途半端な高さだと、死ぬことができなくて中途半端に生きることになります……言ってしまうと、苦しみが倍以上になります」

「わかりました。やってみます」


 決心したらしい。


「靴は脱いで、できるだけ頭の方を下にして飛び降りてください。高さが十分であれば自然と頭の方から地面に接しますけど、これは念のためのご案内です」

「祈りながら、やってみます」

「私も、あなたの無事な死を願っています」

「祈る、ではないんですね」


 電話口からの笑い声につられて、俺も少し笑う。


「祈るのはあくまでも死ぬ側の人間なので。私はまだ生きていますし、多分もう少し生きるでしょうから、まだ祈りはしませんよ。ただただ、願うだけです」

「……こんな時に考えちゃったんですけど、祈りと願いの違いって何でしょうね」

「さぁ、何でしょうね……辞書的な意味とは違うかもしれませんが」

「ぜひ聞きたいです」

「祈りは、苦しんだ人間に与えられた特権だと思っています」

「願いは、違うんですか」

「願うことは誰にでもできます。でも祈ることは、苦しんだ人間にしかできないんじゃないかと」

「なるほど。そういう考えなんですね」

「多分、あなたと私とで祈りと願いの解釈は同じだと思います。同じでなくても似ているかも。ただ、世間は恐らく違う。あなたとも違うし、私とも違う考え方をしているでしょう」

「ああ、だから先程「辞書的な意味とは違う」と前置きを」

「そうです。恐らくですが、願いは自分のためにするもので、祈りは他人のためにするものだと解釈しているでしょう」

「全然違いますね」

「そう、違うんです。違うんですけど、こう考えることもできます。「苦しんだ人間が他人のためにするのが祈りであり、誰もが自分のためにするのが願いである」とも。辞書的な解釈は違っていても、矛盾はしません」

「私は苦しんでいて……いや、でも他人のために祈りを捧げるのは難しいです」

「それでいいんです。誰のためにするか、もしくはその行為の対象は何か、という点で見れば……私とあなたとで考え方は違うのかもしれません。だけど責められることではない」

「あなたにとっての祈りは、他人のためにするものなんですか?」

「他人のために祈ることができる人間は、恐らくそんなにいないと思っています。祈るって、一言で言うことはできますが簡単にできることかと言うと……難しいでしょう」

「そうですね」


 それから、私も相談者も何も喋らない時間がしばらく続いた。

 戸惑うことなく死ぬことができるようにするために、私自身は相談者にかける次の言葉を考える。祈りと願いの間にある曖昧な境界を、少なくともその曖昧さだけでも希釈できればと思いながら。

 もうあまり悩ませたくなかった。

 この人は生きることを既に苦痛に思っている。

 その苦痛から解放されようと死ぬことを選んでいる。

 その選択を、ただの言葉の定義一つで曇らせたくはなかった。

 たとえ本人の意志がその程度で曇らないとしても同じだ。

 あまり考え込んでほしくなかった。


「ありがとうございました」


 相談者が言う。


「願っててください。僕が苦痛から救われることを。僕は、自分自身にそういうふうに祈ることにします」

「ええ。願っています。心安らかに過ごしてください」

「そうします」


 かけるべき適切な祈りの言葉を見つけられないまま、電話は切れた。

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